礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年12月3日
 
「クリスマスの曙」
待降節講壇(1)
 
竿代 照夫牧師
 
創世記3章14-19節
 
 
[中心聖句]
 
 8  神の子が現われたのは、悪魔の仕業を打ちこわすためです。
(第一ヨハネ3章8節)

 
聖書テキスト(創世記3章14-19節)
 
 
14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。19 あなたは、顔に汗を流して糧を得ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
 
はじめに
 
1.クリスマスの始まり
 
 
クリスマスが祝われるようになったのは4世紀の半ば頃であったと教会歴史は記しています。復活節や五旬節は、初代教会から祝われていたのですが、クリスマスは、3百年も後発です。さらに、クリスマスが12月25日に定められたのは、冬至のお祭りを太陽の死と復活と見るヨーロッパの習慣を教会が取り入れた、というのが真相です。しかし、「野宿をしていた羊飼い」の立場から言いますと、クリスマスは暖かい季節であったと考える方が自然です。細かい議論は別として、教会全体が祝い、世界全体が祝っているのに、異を唱えるのも大人気ないことですので、この季節に共に祝いたいと思います。大事なのは、キリストが何月頃生まれなさったかという問題ではなく、神が人となられたという事実そのものであるからです。
 
2.アドベントの意味
 
 
Adventとは、「(重要人物の)到来、出現」という意味ですが、教会暦では「クリスマスの前の4週間」を指します。主のご降誕の出来事を思い巡らし、期待をもって待ち望む期間です。
 
3.最初の福音提示
 
 
私達がクリスマスを待ち望む以上の祈りと期待をもって救い主の到来を待ち望んでいたのがイスラエルの民でした。と言うのは、旧約聖書全体が救い主(メシア)待望の書であるからです。救い主の到来を最初に告げた記事、それが今日のテキストである創世記3章です。これは「原始(原初の)福音」とも呼ばれます。これについて聖書全体から、三点お話したいと思います。
 
A.堕罪の深刻さ
 
1.交わりの対象としての人間
 
 
創世記3章は、誠に悲しい、しかも重大な影響を人類に与えた出来事の記録です。主なる神が、人祖アダムを造られたのですが、それは、自由な、そして愛に満ちた交わりを持つ対象として造られたのでした。「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と語り、「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:26,27)のです。ただお独りの神が「われわれに・・・」と語られたことに注目しましょう。そこに三位一体のご人格同士の親密なお交わりが示唆されています。その「神のかたちに」とは、神のうちにあった交わりに加えられるべき人格をもった者として人を創造されたことを示します。その性質は「義と聖」が特色であったことをパウロは示唆します。「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人」(エペソ4:24)と言われている通りです。
 
2.自由な人格
 
 
人格と人格が愛に満ちた交わりを持つとき、その間に自由がなれければなりません。二つの人格にあるものが、命令と服従という関係だけだったとすれば、それは交わりとは言えません。夫婦の間がこのようなものであったとすれば、その家庭は、どんなに気詰まりで、冷え切ったものとなることでしょうか。

神が人間にとって恐るべきお方である、という一面は確かにあります。無限の創造者と有限の被造物なのですから。でも、神はアダムを機械的に神に従うロボットには造りなさいませんでした。尤も、最近はロボット制作の技術がどんどん進歩して、対話が出来るロボット、家事が出来るロボット、ペット型のロボットなど、本物に近いものが開発されています。でも、まだ、自由な人格を持ったロボットは出来ていません。アダムは、ロボットではなく、自由な人格でした。ですから、善と悪を選ぶことが出来たのです。その自由選択の象徴が、2:16,17の言葉です。そこに「神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』」と記されてあるとおりです。
 
3.堕罪の意味
 
 
悲しいことに、アダム(とエバ)は、その自由を間違った方向に使ってしまいました。木の実を取って食べた話はおとぎ話のように単純に記されていますが、その背後には、神の善意に対する疑い、神と同じ知恵を持つことへの誘惑、神の約束の真実さへの疑いを注入したサタンの存在を見逃すことは出来ません。創世記の物語は、そのサタンが蛇の形で現れたと注釈はしていませんが、新約は明確に蛇をサタンと同一視しています。黙示録12:9には、「この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」と記されているからです。

サタンは確かに悪いやつですが、彼に全責任をかぶせるわけには行きません。それに呼応したエバとアダムがあくまでも責任を負うべきです。彼らは意図的に、意識的に罪を犯し、その深刻な結果として死ぬべき存在となったのです。死とは、肉体的にも朽ちるべきものとなり、霊的には神との離反のことです。
 
B.救いの光明
 
1.三者に対する刑罰
 
 
この重大な違反行為に対して、主なる神は罰を下しなさいます。

1)蛇に対しては:@腹ばい歩行、Aエバの子孫に敗北
2)エバに対しては:@お産の苦しみ、A夫の支配
3)アダムに対しては:@土地の呪い、A死(塵に帰る)

という形です。詳述は致しませんが、1)のAに焦点を絞ります。
 
2.蛇への刑罰
 
 
15節の主意は、エバ及びエバの子孫と蛇および蛇の子孫との間に敵意が置かれる、もっと言えば、人類全体がサタンとの間に戦いが続くというものです。さらに、その最終段階で死闘が生じ、蛇はエバの子孫に致命的な打撃を与える(かかとに噛み付く)が、同時に、蛇は滅ぼされる(頭を踏み砕かれる)というものです。両方とも大きなダメージを受けますが、頭が砕かれるほうが致命的です。このデスマッチは、主キリストの十字架の死を通しての罪への勝利を示しています。そこで、罪の力は結集して、神の子キリストを砕きますが、逆に、そのキリストがサタンの力の根源を打ち砕くと言うものです。
 
3.メシアへの希望
 
 
この15節は、確かに比喩的な表現ではありますが、メシア出現の期待を最初に示唆するものです。その意味で、これは福音の始まりです。丁度、今ローマ書で学んでいますように、「罪の増すところには恵みもいやます」という思想がくっきりと浮かんできます。これ以降も、メシア出現への期待は、旧約聖書全体を通じて、シンフォニーの主旋律のように、ある時は明確に、ある時は間接的に流れ続け、マラキ書の明示的な預言にと進みます。念のため申し上げますが、この考えは主イエスをキリストと信じるクリスチャン的な見方であるというだけではなく、ユダヤ人一般の見方でもあります。それほど、この15節の意義は大きなものです。クリスマスは、創世記から始まっているのです。
 
C.約束の成就
 
1.エバの子孫イエス
 
 
イエスは「エバの子孫」として、つまり人間として誕生されました。パウロはイエスについて、わざわざ「女から生まれた者」(ガラテヤ4:4)と表現しました。キリストが普通の人間として生まれる必要がここに見られます。そのガラテヤ書ではもっとはっきりと、「アブラハムとそのひとりの子孫」しかも「多数をさすことはせず、ひとりをさしている」、「その方はキリストです」(3:16)とピンポイントしています。
 
2.十字架での勝利
 
 
主イエスがサタンに対して決定的な勝利を得られたことをヨハネは明確に語ります、「罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔の仕業を打ちこわすためです。」(第一ヨハネ3:8)と。

どんな意味で砕かれたのでしょうか。悪魔の仕業の一番大きなものは、人間に罪を犯させること、罪の意識を利用して敗北感・神との疎外感・神への恐怖・神への不信感を植えつけることです。キリストは、この全ての業を打ち壊されました。十字架によって、その贖いを成し遂げなさったこと、復活によって、その勝利を示威されたことがその勝利の内容です。ヘブル2:14,15も参照しましょう。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」キリストにあるものは、完全にサタンの影響と支配から解放されるのです。これはものすごいことです。私達人間は死への恐怖を共有していますが、キリストの十字架は、この死への恐怖から私達を解放してくださいました。

キリスト教の葬儀屋さんが書いた実話を読んでいました。ある80近いおばあさんが寂しそうなので伝道用の聖書を上げたところ、一生懸命それを読んで、死ぬ間際にはどこから手に入れたか、十字架をしっかり握っていた、ということでした。何か心温まる話です。
 
3.サタンの「現状」は?
 
 
ここで、質問がありうるでしょう。その仕業を壊されたサタンはどうして未だ力をもって活躍しているのか、と。私は神様ではありませんから、何ともいえませんが、黙示録を見ると、そこにヒントがあるようです。そこで、サタンは神への反対勢力を結集するために働くことを許されているのです。それらが反逆行為の極みを行うのに及んで、神はその反対勢力を滅ぼし、その首謀者でもあるサタンを永遠に葬ります。

黙示録20:7-20を読みます。「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民・・・を惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。・・・すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」

いわばそれまで、ある目的のために活動を許されているのです。現在、キリスト来臨と十字架と復活の後でもサタンが働いているのは、そのような事情なのでしょう。牙は抜かれているが、どっこい、それでもサタンです。私達の大きな警戒を必要とすることは当然です。しかし、彼は敗北に決定付けられた戦いを戦っているのに過ぎません。キリストは本当の勝利者です。 
 
おわりに:私達も勝利者となれる
 
1.サタンの働きを警戒しよう
 
 
サタンは今でも巧妙に、しかも力をもって働いています。ペテロは、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(第一ペテロ5:8,9)サタンの力を過小評価してはなりません。破壊的な力は今も働いています。それがどんなに深い傷を私達の心にも体にも残していることでしょうか。私達が住んでいる小さな社会(家庭、職場、学校)に、そして大きな社会(地域社会、国家、世界)に深い傷を与え続けていることでしょうか。その現実を直視せねばなりません。
 
2.キリストの勝利を確信し、実践しよう
 
 
サタンは有力ですが、サタンの力を恐れすぎることは、彼の計略に乗ってしまうことです。勝利者なるキリストに目を注ぎましょう。トリニティで学んでおりましたとき、サタンとの戦いという分野での学びと実践の権威であるティム・ワーナーと言う教授が「パワー・エンカウンター」というクラスを教えてくださいました。そのクラスでは、10月の終わりのハロウィン・デーのときに活躍する悪魔を祓うための祈り会までしました。私はちょっとやりすぎかなと思いました。「悪魔学」(demonology)という題でペーパーを書くように宿題が出たとき、私は「悪魔のことを学ぶより以上に、勝利者なるキリストを意識し、学ぶこと、キリストに信頼することが大切」と締めくくりました。そうです。勝利者である主は活きておられます。彼と共に私達は勝利者なのです。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」(ローマ16:20)今週も勝利を信じて進みましょう。
 
お祈りを致します。