礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年12月24日
 
「飼葉桶のみどりご」
聖誕節講壇
 
竿代 照夫牧師
 
ルカ2章8-20節
 
 
[中心聖句]
 
 12  あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。
(ルカ2章12節)

 
聖書テキスト(ルカ2章8-20節)
 
 
8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
 
A.聖誕の物語
 
1.証人となった羊飼いたち
 
 
キリスト誕生という驚くべきニュースを最初に受け取ったのは、世の指導者達ではなく、学識者でもなく、金持ちでもなく、貧しい、名もない(名前も残されていない)、卑しい(と当時は考えられていた)羊飼い達でした。何故こんな人々が立ち会ったのでしょうか?答えはわかりません。言えることは、彼らが職務に忠実であったということです。
 
2.みどりごの誕生
 
 
その夜、人口調査のために遠いナザレから旅をしてきて、ベツレヘムに滞在していたマリヤに赤ちゃんが産まれました。休むべき所もない雑踏の中、動物小屋の飼い葉桶に寝かされていました。そのニュースは誰にも知らされていず、この羊飼い達に天使が告知するという特別な方法が取られた訳です。
 
3.御使いの知らせ
 
 
そのメッセージが10-12節です。「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』」このメッセージに含まれていることは、次の5つの事実です:

@それは、大きな喜びの知らせであった。
Aそれは全ての民に及ぶものであった。
Bその内容は、「キリスト」の誕生であった(キリスト、または、メシアとは「油注がれたもの」との意味で、イスラエルの民が待ち続けていた方)
Cそれは救い主である。
Dみどりごは、布で包まれ、飼葉桶に寝かされている、それが発見の鍵
 
4.飼葉桶
 
 
最後のポイント、救い主は飼葉桶で寝かされている、という点を今日は注目します。これは、7,12,16の各節で述べられていますから、案外大切なポイントであることが分かります。

そもそも飼葉桶とは何か、から始めます。日本の翻訳では桶と書いてありますから、木で出来た長方形の籠のようなものを想像する人が多いようです。多くのクリスマスカードも、クリスマス劇も、そんな桶が登場します。しかし、私が調べた聖書辞典は、どれも、そのようなかごや桶ではなくて、宿屋に付属した洞窟が動物小屋(多分、ロバ小屋)として使われ、その洞窟の一部を更に掘り込んだものがロバの餌台として使われていた、と説明しています。私もそう思います(絵図はここをクリックして下さい)。
 
B.飼葉桶のみどりごの意味するもの
 
 
さて、世界を救い給う救い主、神の御子が、飼葉桶に寝かされている、という意味について考えましょう。
 
1.実際的な意味:探索へのヒント
 
 
飼葉桶のみどりごという徴は、たいへん際立っていました。飼葉桶に寝かされる赤ちゃんと言うのは、異例中の異例です。ですからこの徴は、羊飼い達が赤ちゃんを探し出すときに役立ったことでしょう。羊飼い達は、ベツレヘムの町の何丁目何番地を探しなさいと指定されたわけではありません。その晩に生まれた赤ちゃんを、しかも夜中になってから探すのですから、これはもうプールの中に落としたコンタクトレンズを探すよりも難しいことです。ただ、「飼葉桶の赤ちゃん」という一語がヒントとして与えられていましたから、探す苦労が減りました。彼らは町に入って、動物小屋を探し回って、そこに赤ちゃんがいないかどうかを確かめれば良かった訳です。恐らく、何時間も経たないうちに、彼らは、「ここだ!」と見つけることが出来たのでしょう。

このように、飼葉桶のみどりごとは、羊飼いが見つけやすいために実際的な役に立った訳ですが、それ以上に、私達に対して大きなメッセージを投げかけるものです。
 
2.象徴的な意味
 
 
1)人々の冷たさ

幼子イエスが飼葉桶に寝かされたのは、そこが一番寝心地が良かったからではありません。ヨセフとマリヤが宿屋に入る余地がなくて、動物小屋を仮の宿にしたと言う、いわばハプニングのような事情によるのです。たとえば、ヨセフが金持ちだったらどうだったでしょうか。宿屋は満杯でも、何とかスペースは作られたことでしょう。でも、貧しい夫婦に対して、仮に、その奥さんが臨月を迎えて大変そうに見えても、同情する人はいませんでした。

ある村で、村中総出のクリスマス劇が毎年行われていました。宿屋の主人役を与えられた少年が、「宿屋は一杯で泊められません。次の宿屋へ行ってください。」と決められたセリフを上手に言ってヨセフさんとマリヤさんを追いやります。でもがっかりしたヨセフさんの姿を見た少年は堪らなくなって、思わず「ヨセフさん、行かないで。僕が何とかするから泊まってもいいですよ。」と叫んでしまったのです。劇としてはめちゃくちゃになりました。でも、村の人々は、あの年のクリスマスは一番印象的だった、としっかり覚えるようになった、と言われています。この少年のような柔らかい心をもった大人は、2千年前のクリスマスに一人として居なかったのでしょうね。悲しいことです。

2)神の謙り

飼葉桶のみどりごは、人間の心の冷たさを示す一方、神の側から見れば、それはへりくだりの徴でもありました。神が遣わしなさったメシアは、人々が待望していたような英雄的な姿ではなく、王様のような高貴な姿でもなく、最も貧しく、低く、目立たない形で生まれなさいました。「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご!」なんと、みすぼらしい、卑しい生まれ方でしょうか。しかし、そこにこそ神の知恵があります。人間のぎらぎらした野心や欲望を満たすための救い主ではなく、へりくだった心のものが受け入れられる救い主なのです。栄光に満ちた神が貧しく低い人間に近づき、そこにある状態から私達を救い出すために、最大の謙りをなさったのが飼葉桶のみどりごです。

3)平和の主

そのみどりごは、周りの喧騒も、動物小屋の汚さも、臭さも、何にも感じないかのように、すやすやと眠っておられました。正にこれは、キリストが齎す平和の象徴ではないでしょうか。平和とは、すべてのことが順調に進んで、争いも妬みも憎しみも全くない世界のことではなくて(そういう世界が実現すればそれに越したことはありませんが)、人間のどろどろした欲望やら、権謀術策やら、戦争やら、喧嘩やら、泥棒やら、妬みや憎しみが渦巻いている、この現実世界の真っ只中にあって、平安な心でいられることです。その意味で、「清し、この夜」のなかで「眠り給う、いと安く」という賛美歌そのものの平和がそこにありました。

4)内住のキリスト

パウロは、内に住み給うキリストのことを、余り立派でない土器に収められている宝石に譬えています。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(第二コリント4:7)「飼葉桶の中のキリスト」と通じる思想ではないでしょうか。私達の心は、飼葉桶と比べても差がないほど、貧しく、汚く、臭い存在です。しかし、そのような心にキリストは住んでくださるよ、と入り込んでくださいます。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)と語っておられます。キリストは今も、全ての人の心のドアをノックしておられます。多くの人は、私の心はとても汚くて、散らかっていて、どうにもなりませんから、聖い救い主様が入っていただくのはご遠慮申し上げます、と辞退してしまいます。しかし、思い切ってドアを開けて、どうぞ、と言って御覧なさい。主は散らかった部屋の整頓を助けてくださるお方です。一緒にパーティをして楽しいお客さんです。それだけではなく、私達のすべての課題に答えて助け、導いてくださるお方です。キリストを心に迎える本当のクリスマスが、ここにおられる全ての人のものとなりますように。
 
お祈りを致します。