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聖書テキスト(詩篇150篇1-6節) |
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1 ハレルヤ(Halleluyah)。
神の聖所で、神をほめたたえよ(Halleluel)
御力の大空で、神をほめたたえよ(Halleluhuh)。
2 その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ(Halleluhuh)。
そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ(Halleluhuh)。
3 角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ(Halleluhuh)。
十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ(Halleluhuh)。
4 タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ(Halleluhuh)。
緒琴と笛とで、神をほめたたえよ(Halleluhuh)。
5 音の高いシンバルで、神をほめたたえよ(Halleluhuh)。
鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ(Halleluhuh)。
6 息のあるものはみな、主をほめたたえよ(Tehallelu yah)。
ハレルヤ(Halleluyah)。
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*「ほめたたえる」(ハレル)と言う言葉を示すために、ヘブル語の読みをローマ字で入れました。 |
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始めに |
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1.2006年が、あと数時間で終わろうとしています。多くの戦いがありましたが、それに勝る多くの恵みを頂いた一年であったと思います。心からの感謝と賛美を主にお捧げしましょう。 |
2.最後と言いますと、詩篇の最後の歌が心に通って参ります。詩篇は、旧約聖書時代の賛美歌集で、イスラエルが、バビロン捕囚から帰還した後、学者エズラが編纂したと言い伝えられています。その賛美歌集に収められている150の歌の最後がこの歌です。146-150の5つの篇では「ハレルヤ」がずっと繰り返されていますが、最後の150篇ではハレルヤだけの賛美となります。いわばグランドフィナーレです。紅白歌合戦でも、「とり」を取る歌い手が一番大切であるように、賛美歌集の締め括りとして、頌栄が収められているのは相応しいことです。「ほめたたえよ」(ハレル)が各文章に含まれていて、僅か6か節の中に13回も繰り返されています。徹頭徹尾、賛美を神に捧げている歌です。 |
3.敢えてこの13回の賛美を分類して見ますと、
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1)賛美の場所(1節)
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2)賛美の理由(2節)
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3)賛美の方法(3-5節)
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4)賛美の主体(6節)
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この3つの命題にしたがって思い巡らしを致します。 |
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A.賛美の場所(1節) |
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1 ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。 |
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1.神の聖所で |
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文字通りには、旧約時代、礼拝の中心であった神殿です。神殿には、賛美のために訓練された専門の人々がおり、人々の賛美をリードしていました。行事のたびに彼らのリードで賛美が捧げられていました。この詩篇は、一般大衆に向かって、その賛美に参加するように勧めています。 |
もし、これを今日の言葉で言いかえますと、教会堂での賛美となりましょうか。教会堂は神を賛美するための場所であり、建物です。賛美するに一番相応しい場所です。私達がこの建物を建てたときも、音響効果をよく考えました。デザインも賛美に相応しく考えました。教会堂は、音楽を育んだ揺りかごのようなものです。この教会で、賛美を満ち溢れさせたいものです。 |
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2.み力の大空で |
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神の創造になる全ての空間を指しています。「大空」の前に「み力の」という言葉が加えられているところが大切です。神の力を示す創造、その創造の空間のことです。それは、私達が住んでいるあらゆる空間です。賛美するのは、教会堂だけに限られません。家庭でも、会社でも、電車の中でも、山の上でも、海の上でも、散歩をしながらでも、運転をしながらでも、あらゆる所で神を賛美しましょう。神はあらゆる空間をお造りになったお方ですから。 |
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B.賛美の理由(2節) |
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2 その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。 |
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1.その大能のみわざのゆえに |
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神の業は素晴らしく、大きな、知恵に満ち、愛に満ちたものです。この一年を振り返ってみましょう。私達の健康一つを取っても、神はどんなに大きな業をもって私達を支えて下さったことでしょう。イザヤは、「私達のなす(成し遂げた)全てのわざも、あなたが私達のためにしてくださった」(26:12)と語っています。私達が成し遂げたと思っている小さな事業でも、私達を励まし、導き、努力を可能としてくださった神がその背後におられるのです。 |
経済を見ましょう。その必要を満たして下さったことでしょうか。魂の必要を見ましょう。孤独や落胆や失望から私達を回復させて下さったことでしょう。私達個人から目を離して、周りを見てみましょう。回りの社会に対して、教会に対して、国に対して、世界に対して、神は確かに働いておられます。大きな大きな御手をもって、全てを動かしておられます。賛美しましょう。 |
詩篇の中には、神のみわざという表現が沢山出てきますが、多くはその創造に関わるみわざ、出エジプトに関わる大きな奇跡に現れたみわざが歌われています。私達にとってのみ業とは、キリストの贖いに関するものが主だと思います。こんな私をも目を留めて下さった、救いの力をもって変えて下さった、これがみ業の中心でありましょう。パウロは「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、・・・すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・高く置かれました。」(エペソ1:20,21)と述べ、その「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか」(1:19)とも述べています。神の大能のみ業の故に主を賛美しましょう。 |
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2.そのすぐれた偉大さのゆえに |
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神が何をなさるかを考えることも素晴らしいですが、どんなお方であるかを思うことは、もっと素晴らしいのです。神は愛に於いて偉大です。大きな包む愛をもって私達を愛して下さいます。清さにおいて偉大です。知恵において、力において・・・偉大なお方です。神を賛美しましょう。 |
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C.賛美の方法(3-5節) |
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3 角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。 |
4 タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。緒琴と笛とで、神をほめたたえよ。 |
5 音の高いシンバルで、神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ。 |
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1.あらゆる楽器を動員して(絵図はここをクリック) |
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ここに出てくるのは、有りとあらゆる楽器を動員してと言うことです。 |
・角笛とは、今日のラッパですが、当時は雄羊の角に穴を空けて吹いていました。強い振動音で、戦争に使われる方が多かったそうです。 |
・十弦の琴とは文字通り10本が弦四角い箱の上に張られた楽器です。 | ・立て琴とは今のハープに近い琴です。 |
・タンバリンは踊りと対になっています。踊るときに楽しい気分を盛り上げるための楽器でした。 |
・緒琴とは弦楽器一般を指す言葉です。 |
・笛とは、木で出来た横笛のようなものです。 |
・シンバルにも種類があったようで、カスタネット型の小さくて音程の高いシンバル、 |
・深い鉢の形をしていて、大きくて振動も豊かなシンバルと色々でした。 |
こんな色々な楽器がいわば管弦楽団のような形で神を賛美するのです。音量も大きく、音色もバラエティに富んでいたことでしょう。神を賛美するために、あらゆる器を動員して、力の限り、音量の限りそれを奏でるのです。 |
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2.踊りをもって |
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踊りとは、心からの喜びの表現です。アフリカの教会で、プレイズタイムの時には、殆どの人が立ち上がって手を叩き、手を挙げ、体を揺すり、動き回り、あるときにはジャンプして、喜びを表わします。それぞれの文化によって、感情表現の方法は異なることでしょうが、私が言いたいのは、私達の素直な喜びを素直に表現することはとても大切でと言うことです。また、ある方法で表現をしているのを批評してもなりません。私達の賛美も、喜びを心から表現するものでありたいと思います。そして、それを神は喜ばれるのです。賛美は神の喜びのために歌います。そして、神の喜びは私達の喜びへと帰ってきます。そこに素晴らしい喜びのエコーです。 |
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D.賛美の主体(6節) |
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6 息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。 |
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1.全ての被造物 |
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「息のあるもの」とは、生きているものはみんなということです。声を出せるものはみんなということです。楽器での礼拝もさることながら、人間も、動物も、その声を限りに神をほめたたえます。鳥も、虫も、四つ足の獣も、みんなで歌うのです。 |
詩篇148篇を見ると、いわば、無機物と私達が考えているものも主をほめたたえています。「日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。」(3節)「火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行なうあらしよ。山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。」(8,9節)「手のひらを太陽に」という歌がありますね。「僕らはみんな生きている、生きているから歌うんだ」から始まって「おけらだって・・・」という歌詞にくると吹き出してしまいます。彼らは多分意識していないでしょう。でも鳥はその素晴らしい声で神を賛美します。アッシジの聖フランシスは、小鳥に向かって、神をよりよくほめたたえよと説教したそうです。それに応えて鳥達は声を挙げて囀ったと言われています。心暖まる話ですね。 |
私達の今日、中目黒で捧げる賛美は、東京の限られた場所で、限られた人数のものが、捧げている賛美です。大きなライブコンサートに比べれば、誠に小さな歌声でしょう。しかし、神の耳には、宇宙大の大合唱の一部として聞こえているのだということに、大きな励ましを感じたいと思います。 |
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2.神の民 |
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149篇には、「聖徒の集まりで」「イスラエルは」「シオンの子ら」(1,2節)と、神に愛され、神の救い経験したものが(4節)本当の意味で、神を賛美しうることを示しています。150篇に戻って、4節の「息のあるものは」と言う言葉で思い出されるのは、28年前、肺がんで亡くなった牧師夫人・原崎百子さんが作られた「わが礼拝」という歌です。これは「わが涙よ わが歌となれ」という本の中に記録されています。彼女の病状が進んで、歩くことが出来なくなり、歌うことも出来なくなり、使徒信条を唱えることも出来なくなったある主の日(聖日)に、礼拝に出られない苦しい気持ちの中から本気の礼拝を個人的に捧げようとしたその気持ちを歌っています。 |
わが涙よ わが歌となれ 主をほめまつるわが歌となれ わが病む肉体から発する すべての吐息よ 呼吸困難よ 咳よ 主を賛美せよ わが熱よ 汗よ わが息よ 最後まで 主をほめたたえてあれ |
全存在を傾けて、その苦しみも痛みもみんな含めて、ただひたすら神をほめたたえる壮絶な歌です。心が通う気持ちが致します。「息のあるもの」とは、「息の続く限り」、或いは「息を引き取る最後の瞬間も」とも考えてよいのでは、と思います。 |
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終わりに |
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今日は、一年の終わりです。この年に経験した喜びも、悲しみも、痛みも、うめきも、傷も涙も、その万感を籠めて、私達は聖餐式に臨みます。聖餐の意味するキリストの犠牲は、私達のそうしたすべての傷を癒すためのものでした。キリストの贖いに対する感謝、贖いの恵みへの賛美を聖餐に与るときに、全身で表わしましょう。 |
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