メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2007年1月2日

関東新年聖会
「主の新しいみ業を!」

竿代 照夫牧師

中心聖句:イザヤ書 43章19節

見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

該当聖句:イザヤ書 43章14-21節

あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。

 

わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」

海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、

戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。

先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。

見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。

わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。


A.はじめに

あけましておめでとうございます。昨年の間頂いた皆様のお祈りとご支援を心から感謝いたします。

過ぎ去った2006年、私達は群れとしても、また、個人個人としても、大きな恵みを頂いた年でした。

教団においては、昨年度、執行部の名称変更、教区・ブロック制の導入を含む大幅な組織改革を行いました。そこで目指したのは、一人々々が創造的な意欲をもって働くことを助ける仕組み作りでした。

特にそれが青年部門の自由闊達な働きを生み、昨年末のユース・ステーションに結晶したことは大きな感謝でした。

私もフットサルなどに入って一緒に遊びました。打ち解けたレクリエーションの時とは打って変わって、若者達は、集会では真剣な面持ちでメッセージに応答してくださいました。

"Jesus Wave"がロゴでしたが、イエス様の愛の大波がひたひたと若者達を包み込みうねりとなって広がっていくのを肌で感じました。

新しい年に入り、世界も、日本も、教会も多くの課題に取り囲まれていますが、変わらない主のお約束に目を留めたいと思います。

イザヤは、この19節で、主が新しい業をなさると預言します。これは、イスラエル民族がバビロン捕囚から回復されるという予言なのですが、直接この聖句に心を向ける前に、イザヤの預言全体からの位置づけからこの句を理解したいと思います。

B.イザヤ書全体から43:19を見る

1.イザヤ書の構成

イザヤ書には66章ありますが、大きく二つに分かれます。

前半(1章−39章)は時代的メッセージで、イザヤ時代の最大の課題であったアッシリアの脅威にあって、神をより頼みつつ独立を保つためのメッセージです。

後半(40章−66章)は将来的メッセージで、バビロン捕囚と、そこからの釈放を預言し、そこに、大きな贖いの雛形を見るものです。

2.後半部分のテーマと構成

後半の27章は、さらに9章ずつに分かれます。

40−48章:贖いの型としての出バビロン

49−57章:贖いの執行者としての僕

58−66章:贖いの完成としてのシオン

3.43章の位置づけ

今回とりあげます43章の位置付けは次のとおりになります。

40章:贖いの宣言

41章:歴史の支配者なる神

42章:主の僕の紹介

43章:出バビロンの約束

以下、出バビロンの約束が詳述されます。

4.43章の中で19節の位置づけ

では、43章のなかで19節の位置付けをみますと、

43:1−7節 贖い手なる主

8−13節 主権者なる主

14−21節 出バビロンの約束(その始まり)

この分析で分かりますように、43章19節は、イザヤ書後半部分の主題である「出バビロン」という出来事が、初めてはっきりと高らかに謳われる意義深いところです。さて、今日の主題聖句である19節に注目しましょう。

C.主の大いなる御業

見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。

何とすばらしいお約束でしょうか。これをしっかり捉えるだけで、この一年の勝利は決まったようなものです。この御言葉について、三つのポイントを捉えたいと思います。

1.それは、「主ご自身」の御業

1)主のイニシアチブ

「わたしは・・・」

と強調されていることに目を留めましょう。

私達人間が何かをせよとか、頑張れという命令ではなく、神ご自身が業をなさろうとするお約束なのです。

私達が決めたアジェンダに承認を求めたり、私達の努力に力を添えてくださるように求めるという風に信仰を捉える向きがあります。いわゆる人事を尽くして天命を待つ、という考えです。

でも聖書の示す信仰は違います。神が主導権を取って、ご自身のご計画とお働きをなさる、というのです。教会建設でもそうです。キリストが「私は、私の教会を建てる」と宣言なさり、実行されます。

2)人の加担

もし、人間の側で加担する要素があるとすれば、主の御業のなされるように祈ることです。

私達は「主の祈り」で、御心が天で(妨げなく)なされるように、地においても妨げなくなされるようにと日々祈っています。この年、主の御業が存分に自由に、力強く推進なさるよう祈りたいと思います。

さらに、主の御心を悟るべく敏感・柔軟・従順であること、導きを確信したならば、信仰的に敢行することが求められていることは言うまでもありません。私達の側で敢行することは、実は神の業なのです。26章12節をご覧ください。

私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。

とあります。英訳では、

"・・・all that we have accomplished you have done for us."

となっています。よい訳であると思います。

2.それは「新しく、すばらしい」御業

1)(具体的には)バビロンからの釈放と帰還

18節の「新しい」主のみ業とは、具体的には、イスラエルの民をバビロンから救出なさることです。

まず、14節と17節にありますように、バビロン捕囚からの釈放の宣言の前に、バビロンの転覆が予言されます。

次いで神は、大いなる道を設けて帰還者の旅路を導かれます。16節にあります

海の中の大路

とは、明らかに出エジプトでの紅海渡捗をおもわせます。

2)そこにおける、奇跡的なみ業

神のなさる業は、いつでも新しく、すばらしいものです。神様らしい(他の仕方では説明できないほど鮮やかな)御業です。

異邦人の王であるペルシャのクロス王は、誠の神を知らない王でしたが、気付かないうちに神の業を行ったのです。

歴史家のクセノフォンという人が、バビロン滅亡について詳しく描写していますが、驚くべきことが起きたのです。

彼は難攻不落のバビロンを攻めるのに、川の流れを利用しました。ユーフラテスの豊かな水を利用して、バビロンの町は運河を回りにめぐらしていて、簡単に敵に攻められないようにできていました。

クロス王は、その運河の堤防を切って、水の流れを周りに溢れさせ、空となった運河を渡って攻め寄せてきたのです。

これは、いわゆる奇跡ではありませんが、正に奇跡的に見える、驚くべき出来事でした。このようなことが重なって、イスラエルの民は釈放されたのです。

3)それは、出エジプトと平行しているが、それ以上

神は出バビロンに際して、出エジプトより以上の御業をされます。それは荒野に道を、砂漠に川を流すことです(18−20節)。

このような驚くべき業を通して、イスラエルは神の誉れを述べ伝えるのです(21節)。この21節の前に、

先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。

と18節にありますのは、過去の歴史を忘れてしまえ、という勧めではなく、

今までに起きたどんな出来事にまさって素晴しいことを主はなして下さる

という意味なのです。この文脈では、

出エジプトのときに主は紅海を二つに分け、ヨルダン川を分断なさったけれども、出バビロンの時にはそれ以上の大きな業をして下さる

という意味なのです。それが主のみ業、新しいみ業です。

さらに、出エジプトと出バビロンを比べて違っている点は、後者の方が霊的に高く、新しい業がなされたということです。

出エジプトの時には、確かに大いなる奇跡がなされ、人々は興奮しましたが、イスラエルの民の心は変わらずに頑固で不従順で不信仰でした。

しかし、バビロン捕囚から帰還した民は、きっぱりと偶像教から足を洗い、唯一の誠の神に帰依していました。神の業は一歩一歩高く、深くせられていきます。

ですからこそ、昔の勝利の方程式の延長で物事を考えて、主のみ業を限定してはいけない、と主は語られます。それが先述した18節との御言葉の趣旨です。

特に「考えるな」というところを英訳では

(Forget the former things;)do not dwell on(the past).

としています。腰を落ち着けてしまうな、という意味です。

過去の恵みを忘れたり、良き伝統を無視することを奨励はしていませんが、過去の経験という枠内に、神の偉大な御業を閉じ込めてはいけないのです。

私達も、このような過ちをもって神の業を制限してしまうことがありえます。どうか、白紙のような心をもって、新しい業をなさる主を、新しい心で待ち望もうではありませんか。

3.それは、「すでに始まっている」

1)圧倒的なみ業

最後に、19節にありますように、神の業は既に起ころうとしているということを心に留めましょう。ちなみに新共同訳では

今や、それは芽生えている。

となっています。原語もそれを指しています。筍が生え始めたら、その地下活動はものすごい勢いで進んでいるのです。そして、13節にありますように、

これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行なえば、だれがそれをとどめることができよう(第三版では「戻しえよう」)。

なのです。神がある方向に業を始めなさったら、人はそれを以前のように戻すことができません。

2)人はそれを留め得ない

反対や妨害や怠慢やという人間的要素を押し流す、圧倒的な神の御業なのです(14節)他は駄目になっても、主から出たプロジェクトは必ず残るのです。

D.今日も、主は働き給う

1.人々の救いにおいて

先ほどもお話ししましたように、バビロンからの釈放は、キリストによってなされる贖いの絵であります。そして、その贖いは、まさに、神の大能の力によって行われました。パウロは、エペソ人への手紙1章20-21節で、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、・・・すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・高く置かれました。

と述べています。そして、復活を齎した同じ大能の力が信じるものの中に働くのです。さらに、その前の19節で、

神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか

を知るように、と祈っています。

2.私達の群−イムマヌエル綜合伝道団−においても

21世紀に入って7年目、教団としては62年目に踏み入った私達の群れとして、このお約束はどの様に受け取ればいいのでしょうか。それは

新しい業への期待

という表現の中に篭められるのではないかと思います。

今まで主がこの群れにして下さった大いなるみ業−それは本当に評価し尽くせない程の素晴しいものではありましたが−の単なる延長ではなく、私達の持てる力で出来そうな事柄でもなく、私達の想像力で予想出来そうな何事かではなく、正に想像を超えた素晴しい事柄が起きる、否、起こして下さるのが主であるという期待と信仰を持ちたいものです。

この年、神が各教会・教区の中に、青年・壮年・女性部の働きに、教団全体に、力強く働き給うように祈りましょう。

実際、主はすでに働いておられます。それを認めつつ、主のお働きの方向に沿ってともに働きましょう。

特に、青年の間に生まれ始めたみ業が、更に広がり、燃え上がるように祈り、支援しましょう。

3.私達ひとりひとりにおいても

いま、荒野の様な環境を歩んでいる方があるかもしれません。主のみ業を期待しましょう。

主はそこをサフランの花の咲く土地と変え、葦やパピルスの茂みと変えて下さるからです。これらの業は徹頭徹尾

主のみ業

です。私達の計画や願望や努力の結果ではありません。

しかし、私達の側で出来る唯一のことは、主に対する信仰と祈りです。この期待をもって新しい年の出発を致しましょう。

E.終わりに

最後に、イザヤ書40章3節をご紹介します。

「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。

主が働きやすいような道を整えることが私達のなすべきことです。

消極的に言えば

知れる限りの罪と不服従から離れること

で、積極的に言えば、

神の導きなさる方向と道筋に力を尽くして加担すること

です。

この年、大いなる新しいみ業を期待し、祈りましょう。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior paster of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.Otsuka/January 2,2007