礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年1月7日
 
「主の道を整えよ」
年頭礼拝
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ40章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
 3  荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」
(イザヤ40章3節)

 
聖書テキスト(イザヤ40章1-11節)
 
 
1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」
6 「呼ばわれ。」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう。」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
9 シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
 
始めに
 
 
1.明けましておめでとうございます。とは言いましても、もう元旦から一週間経っておりまして、この挨拶にも新鮮味が欠けてしまいがちですが、しかし、主のみ業はいつでも新たです。

2.新年聖会では、イザヤ43:19から「見よ、私は新しいことをする。」とのメッセージを語りました。その思想の流れとして、40:3から、「主の道を整えよ」とのメッセージが与えられました。前者が神のなさることへのお約束とすれば、後者は人間の側での備え・応答と捉えることが出来ます。直接この命令に入る前に、イザヤ書全体から、この聖句の位置づけを見たいと思います。
 
A.40章3節の背景
 
1.イザヤ書の概観
 
 
イザヤはBC700年代にユダ国で活躍した預言者ですが、その書は大きく二つに分けられます。

1)前編(1-39章)同時代人へのメッセージ

  イスラエルへの審判

2)後編(40-66章)将来的メッセージ

  イスラエルの回復

特に後編では、やがて起こるべきバビロン捕囚(BC500年代の初め)からの釈放(BC500年代の後半)に焦点が当てられます。この捕囚からの釈放は、イスラエル歴史の中では、BC1400年代に起きた出エジプトに匹敵する大きな出来事として覚えられています。紅海を二つに分けた奇跡に勝るとも劣らない大きな奇跡であったのです。イザヤはこの捕囚からの釈放だけを預言しているのではありません。このことに象徴される神の贖いの御業がキリストによってなされることを預言しているのです。ダビデの王国は滅びるが、永遠に続く神の国がキリストによって立てられる、と預言しているのです。下の図に纏めます。

 
2.40章:贖いの宣言
 
 
今日のテキストである40章は、神の救いが高らかに宣言されている、いわば序曲です。

1)前半(1-11節):釈放宣言

ヘンデルのメサイアは40:1が透き通ったテノールで歌われ、11節迄が合唱で、または独唱で歌い上げられます。

2)後半(12-31節):偉大な創造者

創造者の偉大さが、全宇宙的な規模でデモンストレートされます。
 
B.神の大いなるみ業
 
1.豊かな贖い (2節)
 
 
2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
 
ここは、明らかに捕囚からの釈放を意味しています。その労苦(懲役)は終わった、咎は帳消しとなった、その代償として、失った物の倍の祝福を受けたという宣言です。しかし、もっと先には、この預言はキリストを通して成し遂げられる大きな贖いのみ業を示しています。私達が何かをしたからではなく、キリストご自身の贖いの業の故に、私達の全ての罪が赦された、と言うことは何という大きな恵みでしょうか。
 
2.力ある支配 (10節)
 
 
10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。
 
神ご自身が、人間の歴史の中に、その豊かな恵みと力と救いをもって入り込んでくださる、という良きおとずれが伝えられます。それが文字通り成就したのがキリストの受肉です。「そのみ腕で統べ治め」なさるという、神の直接的なご支配・干渉が、キリストを通じて明らかにされました。キリストは、善に対しても、悪に対しても、正当な報酬をもって臨み、正しい裁きを行われます。
 
3.行き届いたケア(11節)
 
 
11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
 
更に主イエスは、良き羊飼いとしてご自分を示されました。ご自分で、「私は良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます」(ヨハネ10:11)と語られ、そして文字通り命を十字架で私達の身代わりとして捨てなさいました。その羊飼いは「子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる(母)羊を優しく導く」(それぞれに行き届いたケアを下さるお方です。ここも、「羊飼い主は」と言う題でメサイアの一部になっています。
 
C.主の道を整えよ!
 
1.きれいにする(3節)
 
 
3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
 
1)「整える」という言葉:これは、ヘブル語の「パーナー」から来ています。髪の毛を整えるというようなやさしい意味ではありません。「除く」とか「邪魔なものを除いてきれいにする」という意味です。表面をきれいにする、という意味から、「顔」(パーネー)という名詞が生まれました。ヤコブが神と相撲を取って神の顔を見たとき、その場所を「神の顔(ペニエル)」と名づけた故事を思い出す方もありましょう。「顔」という名詞が、「きれいにする(邪魔なものを除く)」という動詞から派生していると言うのは興味深いことです。

2)主の道は「聖い」(イザヤ35:8):「きれいにする」のは、主の道です。主は聖なる方です。その方が通りなさる道は聖い道です。私達も主と一緒に歩くのは聖い道です。「聖なる道」について最初にイザヤが述べている35章は、この40章、そして43章と平行していますが、その一部を引用しましょう。「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。・・・強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。・・・そのときおしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。焼けた地は沢とり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。・・・主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る」(35:1-10)。この描写はイザヤ独特の、輝きに満ちた神のみ業を示しています。この引用の中で、「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。」と記されているところに注目しましょう。神の進まれる道は聖いのです。そこを歩むものも汚れからきよめられた者でなければなりません。

3)悔い改めをもって、主の来臨に備える(マタイ3:1-3):バプテスマのヨハネが悔い改めを説教したのは、正に、キリストを迎えるための露払い的な役割でありました。マタイの福音書を見ましょう。「そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。」(マタイ3:1-3)と記されています。バプテスマのヨハネが主キリストのために備えた道というのは、人々に悔い改めを迫り、その悔い改めを通して、主キリストのメッセージを聞く心の備えをしたこと、同時に、イエスが来るべきメシアであることを示して、人々の期待感を高めること、でありました。
 
2.謙る(4節)
 
 
4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
 
1)ハイウエイ工事のイメージ:それは、でこぼこ道を平らにして、大路(ハイウエイ)を作るのです。それも、上り坂、下り坂を少なくするために「すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野と」されるのです。このアイデアは昔の王様の振舞いを良く反映しています。彼が通る所はどこでも、先遣隊が遣わされ、道をきれいにするのです。王様のたった一回のお通りの為に、凸凹道が平らにされ、曲がりくねった道も真直ぐにされ、谷は埋められて高くされ、峠道は削られて低くされる、といった具合です。

ケニアの大統領が行く所まさにこのような大袈裟な準備がなされるので、私はこの句に驚きません。1985年、ナクル湖畔教会の献堂式にモイ大統領をお招きしたのですが、彼の到着の何日も前から、周りの雑草はきれいに刈り取られ、砂利はならされて、道が備えられました。前の日には国旗が10メートル間隔で並べられ、いよいよと言う緊張が走ります。当日には、彼の歩く道全てに赤じゅうたんが敷かれるという具合です。

2)その象徴的な意味:この道路工事の象徴的な意味は明らかです。高慢の罪、自己義の誇りが削り取られて、真の謙りを齎し、失意と落胆の谷は、信仰の高みに引きあげられねばなりません。イザヤ書 57:14-15に、こう記されています。「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。・・・わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」と。
 
3.信仰と期待を持つ(8節,31節)
 
 
8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
 
「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」人間の業は廃れ、忘れられてしまいます。しかし、主の御計画は必ず成就します。「イザヤ書 40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(31節)神の救いに対して切なる期待をもって待ち望み、祈ることが、私達が神の業に加担する道です。
 
D.私達への挑戦
 
1.進んでいる神の業を認めよう
 
 
冒頭にも申し上げましたように、「見よ。私は新しいことをする」と主は宣言しておられます。主は力強く、人間が思いもかけない方法をもって、そのみ業を行われます。何とすばらしいお約束でしょうか。これをしっかり捉えるだけで、この一年の勝利は決まったようなものです。ある意味で、それは徹頭徹尾、神の業であり、人間が注文をつけたり、変更したり出来るものではありません。そのみ業のすばらしさを見つめ続けたいと思います。
 
2.私達の側の責任を果たそう
 
 
ただ、主の大いなる業のために、私達がその備えをすることは当然の責務です。丁度、大量の水の流れのために水路が備えられるようなものです。神は主導権を取って、ご自身のご計画とお働きをなさるのですが、人間の側でも加担する要素を残しなさいます。

@期待をもっての祈り:御心が天で(妨げなく)なされるように、地においても妨げなくなされるようにと日々祈りましょう。

A御心への従順:主の御心を悟るべく敏感・柔軟であることが大切です。御言葉を日々学びつつ、神の御心を悟りたいと思います。それが自分の意志や願いに反することであっても、従順な心で従いたいと思います。

B信仰的な敢行:導きを確信したならば、信仰的に敢行することが求められていることは言うまでもありません。

Cすべての罪の除去:知れる限りの罪と不服従から離れることです。

この年、主の御業が存分に自由に、力強く推進なさるよう祈りたいと思います。