礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年1月14日
 
「監督はこういう人・・・」
教会総会に備える
 
竿代 照夫牧師
 
第一テモテ3章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
 2  監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく・・・
(第一テモテ3章2節)

 
聖書テキスト(第一テモテ3章1-7節)
 
 
1 「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。
2 ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、
3 酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、
4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。
5 ・・・自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。・・・
6 また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。
7 また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。
 
始めに
 
 
1.今年も教会総会が近づいてまいりました。今日を含めて3回の講壇を総会準備講壇として、私達の足並みを整えていただきたいと願います。特に今日は役員などの予備投票が行われますので、初代教会において指導者としての特質が述べられているテキストを取り上げました。

2.第一テモテについて大まかに概観しますと、

使徒パウロからその弟子テモテへの個人的手紙であり

AD63年ごろ、ローマでの第一次幽囚から釈放されたパウロが巡回伝道旅行中に

エペソ教会の牧会のために残してきたテモテに対して、教会・牧師のあり方を説いたものです。

6章ある第一テモテの中で、3章は、教会管理の規律を扱っています。今日のテキストはその一部である「監督選任の条件」が記されている1-7節を取り上げます。8-13節までは執事・女執事の資格が記されていますが、ほぼ同じ内容です。

 
ここから幾つかの点について考察します。

○監督とは何か
○その資格は何か
○現代の教会へのメッセージは何か
 
A.監督とは何か
 
1.言葉の意味
 
 
今、監督というと、野球とかサッカーとか映画の製作などの監督を思い出します。何となく上に立ってチーム全体に対してあれこれ指示をする偉い人というイメージです。初代教会にも「監督」(エピスコポス)があったのですが、必ずしも偉い人ではありません。エピスコポスとは、エピスコペオー(上に立って見る=oversee)という動詞からきた名詞で、良く見張るものという意味です。
 
2.初代教会の指導者達
 
 
@エルサレム教会が出来たばかりのころ、教会運営の責任を持っていたのは使徒達でした。Aそれを側面から助けるものとして、執事(ディアコノス=仕えるもの)が立てられました(使徒6:3)。Bその後、使徒とほぼ同じ働きをするものとして長老(プレスビュテロス)が立てられました(使徒15:2)。パレスチナの外でパウロが教会を開拓した後では、それぞれの教会に長老達が立てられました(使徒14:23)。今日の牧師とほぼ同じ意味合いですが、必ずしもフルタイムではなかったようです。

C監督と言う呼び名が最初に出てくるのは、使徒20:28です。ここでは、「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」と監督の責務が記されています。すなわち、群れに気を配ること、牧師的なケアをすることです。同じ箇所の17節を読みますと、それが、エペソ教会の長老達への勧告であることが分かります。つまり、長老と監督とは、同じ立場の人々へのちがった呼び名であったのです。第一テモテにおいても、長老と監督とはほぼ同義語的に使われています(5:17,19)。

監督と言う言葉が、長老達の中で更に指導的な立場として使われるようになったのは2世紀に入ってからのことです。
 
3.監督(長老)の職務
 
 
新約聖書における「監督」(長老)の任務は、@教会をよく統率すること(5:17、テトス1:7)A御言葉と教えを行うこと(同上) 、さらにB公開礼拝の指揮でありました。

そして、監督であること、つまり、教会内で指導的な立場に立つことは、神のご嘉納を頂くという意味で、神の働きにより一層加担するという意味で、私達が求めて良いこととパウロは言っています(1節)。勿論、政治家が己の野心と己の利権のために権力を握ろうとするのとは全く次元が違います。
 
B.その資格は何か
 
1.15の資格
 
 
「監督はこういう人」という資格をパウロは15も列挙しています。15も挙げると私達の頭が混乱してしまいますので、分野別にまとめて見たいと思います。

1)性格:暖かく穏やか

B自分を制し<クールであること>
C慎み深く<健全で、中庸さを保つこと>
D品位があり<秩序・礼儀をたもつこと>
Eよくもてなし<旅人を愛すること、客を喜んで招くこと>
I温和で<忍耐強いこと>
これを反対の角度から見ると、よく分かるかもしれません。冷たい人、とんがった人、下品な冗談を連発する人、人の反感を買うような言葉や行動をする人・・・でない人のことです。

2)欲望:正しくコントロールする

G酒飲みでなく<ワインに身を渡さないこと>
H暴力をふるわず<喧嘩して、他人を撃たないこと>
J争わず<争い好きでないこと>
K金銭に無欲で<金を愛さないこと>
これも、反対からみると、自制心を失って怒鳴ったりする人、酒に弱く、酔うと暴力を振るう人、金にしわく、金儲けで頭がいっぱいの人・・・でない人のことです。

3)家庭:愛と秩序を特色とする

Aひとりの妻の夫であり<一夫多妻主義を実行しないこと>
L自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている<家庭の秩序と平和を保つこと>
これも反対の絵を描きますと、異性に関する怪しい噂を感じさせる人、子供達に尊敬されないで、勝手な行動に走られてしまうような親・・・でない人。

4)評判:評価を得ている

@非難されるところがなく<欠点がないという意味ではなく、道徳的な意味で非難される点がないこと>
M信者になって暫く経っている人<新受洗者でないこと>
N教会外の人々にも評判の良い人<社会で良い証を立てること>
教会の中であの人はね、と疑問をもたれる人、教会の外でさっぱり証の立っていない人、信仰に入ったばかりで未知数な人・・・ではない人

5)能力:聖書を教える知恵と能力

F教える能力があり<み言葉を教える知識と能力を持つこと>
 
2.資格についてのコメント
 
 
1)とても無理、しかし恵みによって

こんな資格が誰にあてはまるだろう、私などとても無理だ、というリアクションが起きそうですね。逆に、自分はどこから見ても合格だ、と思った途端に、その人は傲慢の罪に陥ることでしょう。自分の持ち前の性格では、ダメであって、ただ、聖霊の結んでくださる実によってのみ、これらは可能となるという点で、より一層、恵みに委ねる姿勢を取らされることです。

2)選別のチェックリストとして

ただ、これは、第一義的に、テモテが指導者達を選ぶときにチェックリストとして手元にもっているべき基準であったということを覚えてください。人を見る、人を評価するというのは大変な仕事です。覚束ない自分が他人を評価するのは、本当に恐ろしいことです。それでも、立場上、そうせざるを得ない状況に追い込まれることがあります。その時は、自らを省みつつ、恐れと戦きをもって、しかし、水準を下げることなくそれを行わざるをえません。

3)エペソ教会には、有資格者が多く居た

ただ、覚えていただきたいことは、このような沢山の条件を当てはめても候補者がゼロにならないほどの豊富な人材がエペソの教会にいたと言うことです。それをエペソ教会の開拓者であるパウロは知っていました。すばらしいことです。使徒6章で、「御霊と知恵に満ちた、評判のよい人たち7人を選びなさい」と教会全体に訴えがなされたとき、さっと7人が選ばれました。恐らく7人以上候補者がいて、絞るのに苦労したことでしょう。「矢の満ちた矢筒」を持った兵士は幸いです(詩篇127:5)。恵みに満ちた人材を豊富に持った教会となりたいものです。

4)この資格は「トップリーダーだけのため」ではない

この資格リストを読んで多くの人が感じるリアクションは、「こういう資質はこのような資格は『監督』だけに任せれば?」というものです。別な言い方をしますと、トップリーダーである監督には高い倫理水準が必要だが、サブリーダーや一般信徒は、もっとリラックスした生き方でいい、という考えです。これは間違いです。と言うのは、8節以下を見ると、「信徒的な立場でのサブリーダー」である執事の資格も、監督とほぼ同じ線上にあるからです。勿論、その厳格さでは、ニュアンスの違いが少しはあります。例えば、監督は「酒を嗜まない」事が要求されているのに、執事は「大酒飲みでない」ことが要求されていることなどです。指導者なるが故に、一般信徒では主の憐れみの故に悔い改めて赦されることでも、指導者としては留まれない種類の過ちというものがあります。その違いを認めつつではありますが、高い倫理水準は、キリスト者ならば誰でもが保つべきものであります。
 
C.現代の教会へのメッセージは何か
 
1.神の期待と水準は変わっていない
 
 
パウロの時代から2千年経っているのですが、神の民に対するご期待と水準は一つも変わっていません。いわゆる状況倫理という言葉で、倫理水準は時代や状況でどんどん変わっていく、変わっていって良い、という考え方をもつ方があります。しかし、私達は変わり給わない神の前に生きています。第一テモテの水準は、今も私達の水準です。
 
2.他人を裁くためでなく、自分を顧みるチェックリストとして
 
 
私達は他人を見る目は肥えています。あの人はああで、この人はこうで、と欠点を良く見たり、分析したり、論じたりする、つまり、他人の目の塵を見るのは上手ですが、自分の目にある梁に気付きません。格別な恵みと憐れみによって、自分の梁が良く見えるように祈り、更に主の恵みによって、それを除いていただくように祈りましょう。
 
3.造り変え給う恵みを信頼しよう
 
 
最後に、ガラテヤ5章22-23節を読んで終わります。
 
22-23 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
 
自分の力ではなく、努力でもなく、恵みの故に、聖霊の実としてこのような性格を可能としてくださいます。信仰によって歩みましょう。

 
お祈りを致します。