礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年1月21日
 
「私達が教会」
教会総会に備えるA
 
竿代 照夫牧師
 
第一コリント12章18-27節
 
 
[中心聖句]
 
 27  あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
(第一コリント12章27節)

 
聖書テキスト
 
 
18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
(Tコリント12:18-27)
 
はじめに
 
 
教会総会を来週に控えて、今日は「私達は教会である」というパウロの声明を学びます。27節でパウロは、「あなたがたはキリストのからだである。」と宣言していますが、これは実に驚くべき声明です。「キリストの体」とは、取りも直さず、教会のことで、「あなたがた」というのは、この手紙の受取人であるコリントの町のキリスト者たちのことです。ですから、この文章を言い換えますと、「コリントのクリスチャン達よ、あなたこそが教会なのです」と言っている訳です。私達にあてはめていいますと、「私達が教会です」と言うことと同じです。このことから考えさせられる幾つかの点を共に考えましょう。
 
A.私達は一体である(12,13節)
 
 
12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
 
1.多くの違いを乗り越えて一つの体
 
 
ここで、教会は人体に例えられています。体とは一つの有機体のことです。つまり、賜物における違い、出身の違い、社会における身分の違いを乗り越えて、私達は一つなのです。これは何度繰り返しても繰り返し過ぎることはありません。教会の本当の良さは、色々な種類、人種、社会層、教育のレベルの違う人、男性・女性、若者・老人などが混在し、しかも一体性を感じる事にあるのです。
 
2.一つの御霊によって結ばれた共同体
 
 
その一体性を保証するものは、一人一人に共通して与えられている聖霊です。色々な違いを持った私達を一つに結び付けるのは、一つの御霊による生まれ変わりと、その結果心に御霊を宿すものとなっているという共通項です。これを「御霊を飲む」という表現で表わしています。これが充分認識されないと、反目が生じてしまいます。どんな違いがあったにせよ、この共通点を見失ってはならなりません。AさんとBさんが違う御霊を持っているのではありません。私達は同じ命で結ばれた兄弟姉妹なのです。
 
3.一つとなるためにバプテスマを受けた
 
 
クリスチャンとなるときに私達はバプテスマを受けました。これは、私個人がキリストと結び付けられるという儀式ではありますが、そのキリストの命を共有する一体性に加わるための儀式でもありました。「神の民の信仰」という本の中で、松永希久夫氏がこう記しています。「信仰告白をして洗礼を受けるということはその人が救われることなのですが、実は、それは救いの共同体である教会の中にその人が組み込まれる、共同体の一員として新たにそこに参加する、それが実はキリスト教が言っている救いなのです。」
 
B.私達が教会である
 
1.「聖なる教会」に相応しくないが、それでも・・・
 
 
27節でパウロは「あなた方はキリストの体(教会)である」と言い切っています。これは驚くべきステートメントです。というのは、コリント教会のクリスチャンたちの中には、信仰はしっかり持ってはいるものの、お互いに分派闘争をしたり、信徒同士が訴訟事件を起こしたり、性的な不道徳から抜け出せないでいたり、豊かな賜物を巡って競争をしたり、肉体の復活の可能性を信じていなかったり・・・という具合で、とても問題の多い人々が多かったのです。それにも拘わらず、パウロは、そんな人々をつかまえて、あなた方はキリストの体(教会)です、と語りました。教会となれ、教会らしく振舞えとも言わず、教会です、と宣言しているのです。ここに、キリスト者に対するパウロの(そしてパウロを感動した)神の大きな期待と信頼を感じないでしょうか。

神は私達を塊として、或いは塊となるために召してくださいました。そんな価値のないものでしたが、一人ひとりを選び、この群れに招き入れてくださったのです。何と感謝な事でしょう。そのために、キリストは命を投げ出し、血を流してくださいました。ですから1章2節で、「聖徒として召され・・・聖なるものとされた方々」とコリントの人々を呼んでいます。コリント教会員の実情と矛盾するような表現です。パウロは単なる外交辞令としてこういったのでしょうか。違います。まだまだ聖められなければならない部分が沢山あるが、罪の世から救い出されたと言う面で、もう(初時的に)清められている、しかし、更に徹底的な聖めが必要と言う二重の意味がこの2節には籠められています。

ハンカチで例えましょう。私のハンカチが誰かによって泥靴を拭く雑巾として使われていた、と仮定します。所有者である私はそれを大変憂えてそこから取り戻し、泥を払います。これが初時的清めです。しかし未だ私のポケットに入るためには、良く洗剤で洗い、漂白剤につけなければならなりません。私達は神のために用いられる神の所有になるハンカチのようなものです。そのご期待に沿って全く清められるように祈りましょう。
 
2.われわれが教会
 
 
もう一つの真理は、私達キリスト者の塊が教会である、という明白な教えです。私達は、日常会話の中で、教会という建物、教会という組織、教会の指導者という人々のことを「教会」と呼んでいませんか。これは、厳密に言うと誤りです。いつぞやの週報にも「教会近くの桜が開き」と書いてしまいましたが、これは、「教会堂近くの」と書くべきであったことでしょう。また、ある方は自分と教会を切り離して「教会は冷たい」というのも、聖書的な言い方ではありません。まして、牧師に対して「教会の方針はどうなんですか」というのもよそよそしいですね。教会と言う時、私を含めた人々の塊であるという意識を、言葉の使い方にも表したいと思います。ここにおいでの皆さんは、(一応秩序の故に、正会員や客員であるというような区別はしますけれども)この場所に集まってきているという意味で「教会」(集会)なのです。私達の日常会話でも、私と教会を何か切り離したような言い方をするのではなく、「私達教会は・・・」という言い方をしたいと思いますが如何でしょうか。

「炎のランナー」の一部で面白い表現がありました。1920年のパリ・オリンピックで、エリック・リッデルが、100メートル競走の予選が日曜日であったので、出場を辞退したときの話しです。イギリス皇太子とイギリス選手団の団長バーケンヘッド卿とキャドガン伯爵とサザーランド公がエリックを呼び出して圧力をかけようとしましたが、エリックはそれに屈しません。そこに、エリックの友人アンディが入ってきて、400メートルへの出場の権利をエリックに譲りたいと申し出ます。キャドガンが「変更は委員会に諮らなければならない」と言いますと、バーケンヘッドがすかさず「われわれが委員会だ」(We are the committee)と言って即決してしまいます。この言葉になぞらえて言いますならば、「われわれが教会だ」(We are the church)と言っていいのです。
 
3.教会は集まってこそ教会
 
 
教会は集まるところに意味があります。日本語の「教会」は「教える会」というニュアンスを与えて、学ぶところ、教えるところという印象を強く与えます。もちろん、その要素はありますが、もともとの意味はエクレーシア(・・・から呼ばれて、集まってきたもの)というものです。さらに、このことばのヘブル語の語源カハルは、集会という意味です。私は教会のメンバーだけれども、集会に来るのはあまり気が進まない、というのは言葉の矛盾です。私達は共に礼拝し、共に祈り、共に交わり、共に伝道するために集まってくるのです。この年、集会を大切にしましょう。特に祈祷会を重んじましょう。共に祈る祈りには、格別な神の臨在と祈りの答えが約束されているからです。
 
C.私達は一つの体の肢
 
1.お互いの違いを認め合う
 
 
12章を通じて、教会は体に譬えられ、メンバーはその肢に譬えられています。 (14節)。肢同士が相互に尽くさねばならぬ事柄は何でしょうか。まず、互いに僻まないこと(自分の価値も認めること)です。優れた賜物を持った人を見て羨ましく思ったり、真似しようとしたり、それが駄目だったら、「自分なんか教会では要らない」などと自己卑下をしてはいけません。それをパウロは、「私は足の様にこき使われている存在だ。手はいいなあ。手でもって何でも仕事ができる。私は手ではないからこの体に属していないんだろう。」と言ってはいけないと、警告しています(15,16節)。

もし、体全体が耳だったら体として機能しません(17節)。私達はお互いに違っていて良いのです。違いを見て僻んだり落ち込んだりしないで、寧ろ違いを感謝しましょう。違いの与え主は神ご自身なのですから(18節)。この節で「備えて」とあるのは、「適当な場所にはめて」という意味です。サッカーのコーチが、この人はフォワードに、この人はミッドフィールダーに、この人はゴーリーにと適材適所に当てはめるのと同じように、神が私達を教会の中で振り分けなさいます。自分の価値をへりくだって認めましょう。また、自分はこの教会で、なくてはならない存在なのだ、と感謝しましょう。
 
2.肢々は、互いに顧みる
 
 
27節の強調は、肢同士の愛に満ちた顧みです。一つの肢の苦しみが全体の苦しみ、一つの肢の喜びが全体の喜びとなるのです。そこには裁きのスピリット、批判のスピリット、競争心、嫉妬、劣等感はなく、一体感のみが存在します。互いに愛し合う教会、これが私達が神に召された目的です。

さて現実はどうでしょう。一つの肢と共に苦しむことはそんなに難しくないかもしれません。人間は他人より、高い立場に立つとほっとして、低いものを顧みるゆとりを持つからです。そうは言っても「無関心」という壁が苦しみを共に担う行為を妨げてしまうことがありますが・・・。隣の苦しみ、痛みに何の苦しみも覚えない、これは自分さえよければ、という自己中心です。

もっと難しいのは共に喜ぶという事です。人間は誰しも、自分が高く崇められたい、評価されたい、誉められたいという傲慢の罪をもっています。だから、他人が誉められると、「何であの人が誉められるのか。」とか、「何で自分ではないのか。」とかいった面白くないものが心に浮かんできます。CSルイスの言葉として「世界中の人間がだれ一人としてまぬがれることのできない一つの悪徳がある。人びとはそれを他者の中に見て嫌悪を感じるが、自分もその罪を犯しているとはほとんど夢想だにしない。この悪徳とは何か。それは傲慢あるいはうぬぼれである。悪魔が悪魔となったのは、高ぶりのゆえであった。高ぶりは、人を他のすべての悪へと導いていく。それは完全に反神的な心の状態である。そして、傲慢は本質的に自己が『他と競うとき』に生まれるものである。」と。

ともに喜び、共に苦しむ事を妨げるもの、即ち、自己中心的スピリットは十字架によってのみ解決されます。主イエスが自分を全く捨てて、十字架にかかられたその同じ場所に自分を(信仰によって)置くこと、その信仰に生き続けることだけが、傲慢と無関心から守られる道なのです。
 
D.地域の枠を超える交わり(1:2参照)
 
 
1:2 コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。
 
1.地域教会が基礎
 
 
教会の最小単位は地域教会です。先に読みました1章2節には、「コリントにある神の教会」という言い方で、地域教会の枠組みの中で私達は親しい交わりを経験し、共に祈り、共に礼拝し、共に福音の為に労することができることを示唆します。丁度、薪が一本だけでは燃えにくいように、私は特定の地域教会に属することによってのみ、重荷を負いあい、互いに励ましあうのです。
 
2.地域を越えた公同性
 
 
同じく1章2節に「至るところで、キリストの聖名を呼び求めている全ての人と共に」という言葉に目を留めましょう。キリストの体とは、この地域教会だけではありません。キリストの体は世界大の大きなものです。コリント教会の人々は、「キリストの聖名を呼び求めているのは、あなたたちだけではありません。あなたがたは世界中の散らばっているキリスト者の集まりの一部なんですよ」と励まされているのです。教会は確かに地域的な集まりと組織を基礎にしてはいますが、全世界との交わり、励まし、助けあいの中に生きていることを覚えましょう。特に私達が宣教師を送っている教会と連帯して私達が生きているという自覚を絶えずもち続けたいと思います。そのために祈り、捧げ、受け入れ、訪れるという交流によって私達の目が世界に広げられる必要があります。
 
終わりに
 
1.神の家族として召された感謝
 
 
もういちど、「あなた方はキリストのからだ・・・」というパウロの声明の重さに心を向けましょう。ここにいる私達が神の家族として召され、一体とされたというおどろくべき恵みを感謝しましょう。「教会」と言うテーマで、ボンヘッファアーが説教をしていますが、その一節を引用します。「一つの体、それは一つの生命を意味します。一つの生命を生き、一つの空気を呼吸し、神の言葉という同じ食物によって養われ、主イエスの血という同じ飲み物を飲むのであります。一人がいるところに、全教会があるのです。誰一人としてひとりぼっちではなく、だれも見棄てられず、故郷のない人はだれもいません。教会は愛において彼と共にあります。・・・誰一人として悩みの中でただひとりのままではありません。・・・教会と教会の主が、・・・彼のもとにあり、彼のために祈り、彼と共に神の前に立ち、彼を見えざる手をもって捉え、彼を慰めるのです。」
 
2.全ての神の民への恵みを祈ろう
 
 
そして、その一体性は、この中目黒教会の外にある全ての神の民にまで及んでいることを覚え、主の恵みを切に祈りましょう。「主の祈り」を祈るとき「われら」と言いますが、その「我ら」を意味して祈りましょう。「天にまします我らの父よ」と祈る時、神は、世界中の民のお父さんとして意識されます。「われらの日用の糧を」と祈るとき、世界中の飢えた子供達への祈りとなります。「われらの負目をも」と祈るとき、互いのわだかまりへの赦しが祈られます。

もっと具体的には、私達の祈りの集いに何としても時間をやりくりして集まってください。共に祈ることで、私達のとりなしの力が加わり、範囲が広がります。
 
お祈りを致します。