プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2007年1月21日

天国の原理A
「毒麦と麦」

竿代 皓子牧師

中心聖句:マタイの福音書 13章29-30節

だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。

だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

該当箇所 マタイの福音書 13章24-30節

イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。

ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。

麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。

それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』

だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。

だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい。と言いましょう。』」


A.はじめに

みなさんこんにちは。前回につづきマタイの福音書から、イエス・キリストの麦と毒麦についてのたとえ話を通して、私達の生活にとって大切な事柄を学びます。

このたとえは、主イエス様が弟子たちにあの有名な「種まき」の譬えの説明をされた後、続けてなされています。

初期の伝道旅行−第一次ガリラヤ伝道−のときで、紀元28年と29年の間です。

そのとき、大勢の群集が押しかけてきて、主イエスの教えに耳を傾けておりました。しかし、弟子たちはまたもやこの譬えを理解できずに主に説明を求めています。

先週すでに、なぜたとえで話されたかの理由が語られていると思います。

もう一度繰り返しますが、その理由はマタイ13章11−16節に書かれています。

弟子たちには天の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていませんでした。この奥義とは

キリストと正しい関係にある者にだけ啓示される真理

です。さらに、12節の脚注には、

御国を知りたい求道心を持って真剣に聞く人は、いよいよ知識を豊にされるが、無関心な人は聞いても悟らず、ますます真理から遠ざけられる。

とあります。ですから、主イエスのたとえ話は、

そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

と43節にありますように、真理を知ろうとする真摯な態度で聞かなければ、なかなか理解できないものであることを私たちもわきまえたいものです。

ここで、今回登場する毒麦をみていただきたいのですが、小麦畑によく混生するが、苦味があります。小麦と共に収穫されるところから、このようなたとえ話にもちいられました。

編者注:毒麦は、こちらをクリックしていただければご覧になれます。

B.主イエスご自身による説明

では、このたとえ話について、イエス・キリストがどのように説明しているかを 辿ります。

1)・・・「良い種を蒔く者は人の子です(13:37b)。」

この人の子とは主イエスご自身を指しています。

主はご自身の愛のみ業(究極的には十字架の贖いのみ業)をなす救い主として、神ご自身が人間となって、この世界に来てくださったお方です。

すべての良いことの源である神ご自身こそ、この世界に 赦しと平和と愛をもたらす唯一のお方です。

2)「畑は世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです(13:38)。

神の御心の対象は全世界の人々であることがわかります。ヨハネの福音書3章16節に

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

とあります。神の愛の対象は全世界の人であることが、このみ言葉からわかります。

しかし、現実のこの世には、神の御心に従って生き、そのご支配の中にある御国の子どもたちと、38節にある、悪いもの=悪魔によって蒔かれた悪い者の子どもたちが共存していることを、主が認めておられます。ここに

もし神がおられるなら、なぜこのような不幸が、不正が、理不尽がまかり通るのだ。

という質問の答えがここにあります。

よくよくわきまえなければならないのは神の反対勢力、悪魔の存在です。彼はすべての悪の根源です。

どこに行っても人間社会がある限り、正しいものと悪いものとの共存に直面しなければならないのが現実です。ましてや、教会にはそのような一般社会とは違ってすべての人が、天使のようで、素晴らしい理想的な愛の共同体であろうと考えますが、いやいやどうして、教会も同じです。

「本当にどうしてこのようなことが」

ということが現実にはあるのです。

人は自分を義として、時には自分がその毒麦を抜き取りましょうかと言った僕たちになりたいという誘惑に駆られますが、

毒麦の刈り手は、人間ではありません

と主は言っています。

3)毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。

ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります(13:39-40)。

ここに悪や不正に対する聖書の教えがはっきりと書かれています。

@まず「この世の終わり」があるということ、

Aそのときが最終的な裁きのときであるということ、

Bそしてその裁きの実行者は御使いであるということです。

人の裁きは

毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取る

危険があると、主は止めておられます。そして人間は、ただちに裁きが行われることを願いますし、悪が何時までもはびこっていることに神の力と正しさを疑ってしまいますが、その考えは近視眼的であると、主は教えておられます。

裁きのときは主がご存知です。それは歴史の終局の時、世の終わりのときです。これを知ることは大きな慰めではないでしょうか。

裁きは必ずあり、それをなさるのは神と御使いの領域の中にあり、そこには決して失敗のない究極の裁きがあるということです。

3)人の子はその御使いを遣わします。彼らは、つまずきを与えるものや不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、

火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。(13:41-43a)

ここに究極的な御国の子たちと悪い者の子どもたちの最後がどのような結果になるか非常にはっきりと述べられています。

燃える炉に投げ込まれ、泣いて歯ぎしりをする恐ろしい裁きが待っています。ここに魂の不滅を聖書は教えています。

一方正しい者たちは、太陽のように輝き続けるのです。なんという栄光、輝き、喜びでしょう。

C.おわりに

今回とりあげさせていただいた箇所から、

不正が蔓延しているかのように見えるが、神は裁きの時を待っておいでであること、

人が自分の義でその神の領域である裁きに手を下してはならないこと、

それは人間には不可能な領域であること、

不正はこの世の終わりに必ず裁かれること

を学ばせていただきました。

また、しかし、天の御国の子どもたちは、

神を信じてその教えに従い続け、不正な者に苦しめられても、希望を持って耐え忍び、正しく歩み続ける力を信仰によって頂いている

ことも学ばせていただきました。今回のたとえ話にある「良い種」−−天の御国の子供達として日々過ごさせていただきましょう。お祈りいたします。


Message by Hiroko Saoshiro,paster of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.O./January 21,2006