プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2007年1月28日

天国の原理B
「からし種のように」

竿代 照夫牧師

中心聖句:マタイの福音書 13章31-32節

イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、

どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」

該当箇所 マタイの福音書 13章31-32節

イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、

どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」


A.はじめに

みなさんこんにちは。前々回と前回で、「神の国」は、畑に蒔かれた種のようなものだと学びました。今回の「からし種のたとえ」でも、その思想は受け継がれています。

この学びに入る前に「神の国」を定義したいと思います。

これは、福音書における主イエスの教えを綜合したものですが、神の国とは、

神が抵抗勢力に遭う事なく完全な支配をなさる領域

と定義出来ます。それは、3つの側面を持ちます。具体的には、まず

@私達の心に始まる内面的なもの、つぎに

A家庭、教会、地域社会に広がっていく社会的なもの、そして

Bサタンの追放により、永続的で、栄光に満ちた形で成就する将来なものです。

B.質問から始まる譬え話

このように、神の国とは色々な側面を持った複合的な概念ですから、一つの譬えだけでは言い尽くされない深い真理を含んでいます。主は、畑の中の種の成長と結実という譬えだけでは言い尽くされない側面を強調するために、からし種を用いられました。

今日のテキストの並行記事であるマルコ、ルカの両福音書を見ると、この話が質問から始まっていることがわかります。

マルコの福音書4:30-31・・・「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。

それはからし種のようなものです。

ルカの福音書13:18-19・・・「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。

それは、からし種のようなものです。

イエス様は決して一方的にご自分の考えを押し付ける方ではなく、

「何にたとえたらいいでしょうね、皆さんも考えて下さい」

という形で聴衆の共感を得て話を進めておられます。

C.からし種とは?

さて、このからし種というのは、ごく小さなサイズの種で、絞って油を取ったり、潰して香辛料として使われていました。

その小さな種ですが、蒔かれると、数ヶ月で1メートルから、3メートルに成長します。鳥が寄ってくるのは巣を作る目的だけではなく、種をついばむ為です。

いずれにせよ、種の小ささに比べて、成長の早さと著しさが、神の国の成長を示す譬えとして用いられました。

D.活きた信仰の譬えとしても

からし種は、別なたとえ話では、活きた信仰を表すものとして使われています。ルカの福音書17章6節に

・・・「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。

とあります。実に単純な約束です。ここでのからし種は、小さくはあっても生きているもの、純粋なものの象徴です。私達の信仰が小さくはあっても、活ける神に直接結びついたもの、しかも、混じりけのないものであるならば、働いて大きな業を行うのです。

E.命さえあれば

マタイ13章に戻りますが、このからし種は、小さくはあっても命とエネルギーに満ちあふれている神の国の象徴です。神の国は勢いや力によらず、権力にもよらず、神と結びつく魂の中に始まります。

もう少し具体的に言いますと、

神なく望みなく、命なく、自己中心の中にあって、霊的に死んでいた魂の中に、神の恵みがキリストの贖いを通して注がれる、信仰によってそれを受けとめるという営みを通して、神の命が注がれる

のです。それを新生といいます。

私達人間の肉体的生命が、小さくはあっても、そこに命がある限り成長を続けるのと同じです。

しかし、この命が不確かですと、水をやり、肥料をやっても一向に育ちません。からし種のように小さくても、命があるかないかが問題なのです。

F.教会も命があれば成長する

私達のうちに神の命が宿りますと、それはそのままでは済みません。必ずまわりに感化と影響を及ぼし、命の伝達が始まります。ローランド・アレンという宣教学者は、

初代教会の成長は、溢れる喜びを抱いて証を立て続けた信徒の群が一方にあり、それに魅力を感じてその喜びの秘訣を自分のものにしたいという周りの人々があって、その結果としての成長だった

と言っています。それがspontaneous expansion of the church (スポンテニアス・エクスパンション・オブ・ザ・チャーチ−教会の自然的成長)という理論です。

30年ほど前、私は子供向きの教会歴史の本を書きました。その題を「からし種のように」と付けました。

教会の始まりもからし種のようです。だれの目にも留まらないパレスチナの寒村の数人の信徒によるささやかな出発でしたが、そこに復活の主のご臨在があり、命があり、輝きがありました。

ですから急速に教会は拡大し、あっという間にローマ帝国を席巻し、周りの地域にもぐんぐんと広まっていきました。宣教活動は19世紀に入って加速し、世界各地に教会が存在しない国は殆どないというまでに拡大しました。

隣の韓国では人口の3,40%がクリスチャンであり、中国でも公認教会と非公認教会を合わせると10%の人口に達しています。

先週来られた鹿島(香港JCF)先生が仰っていましたが、中国の都市部でも非公式の集会があちこちに生まれつつあるそうです。正にヨブ記 8章7節が語っておりますように、

あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。

のです。

G.日本の教会の成長は?

翻ってわが日本の現状を見たいと思います。

プロテスタント宣教が始まって約150年経つのですが、一向にクリスチャン人口は増えず、1%止まりです。1%の壁を超えようという懇談会が行われていましたが、方策は簡単に出てきません。

JEA(日本福音同盟)でも宣教懇談会を開いて何とか打開の道をと考えていますが、これと言った方法論は出てきません。

しかし、一見不毛に見える日本の土壌ですが、潜在的なキリスト教への願望は大きく存在している、と私は思います。ギャロップ調査によると、「キリスト教に好意をもつ」人は成人の20%強だそうです(リバイバル新聞-2006年6月11日号)。

つまり、潜在的に福音を求めている人々は多いのに、教会がその人々を効果的にすくいきれていないという現状が問題です。

ある宣教グループの調査で、教会に来ていない人に対して理由を聞いたところ、一番多かった答えは

教会は何をしているかわからない

が一番多く、

自分は忙しい

教会の敷居が高い

と続いています。結局のところ、

私達クリスチャンひとりびとりが、置かれた職場、家庭、学校において本当のクリスチャンの香りを表していないからなのではないか

という指摘があり、反省とともに考えさせられたことでした。

私達は本当にからし種となっているでしょうか。

来月、シアトルのReaching Japanese for Christ Conferenceで「日本の文化と日本の教会」という講演をすることになっています。

この会議は、アメリカにいる日本人を福音化しよう、帰国する日本人クリスチャンを訓練しようという目的で毎年持たれている集会です。

私の問題提起の一つは、

日本の教会が、日本社会の閉鎖性に影響されて、福音が本来持っている自由さを失っているのではないか

という点です。どこかで、この殻を打ち破らないと種が種のまま終わってしまうような気がします。種が芽を出し、成長していくために、殻を壊していただく必要があるように思うのですがいかがでしょうか。

H.成長に伴う危険も

からし種の譬えに戻ります。

主はこの譬えによって、単純に神の国の力強いしかも急速な拡大を約束されたと理解して良いのかもしれませんが、それに伴う警戒も汲み取ることが出来るように思います。

空の鳥が来て巣を作ったという表現がその根拠です。さらに、からし種の譬えと並行して示されて言う「パン種のたとえ」はもっと示唆的です。

僅かのパン種がこねたパンを膨らましてしまうという譬えの中に、急速に伸びた教会に腐敗の要素が入り込まないかという警戒を見ます。

鳥の巣についても、何かそこで落ち着いて、ここにおるは良しという人間くさい仲良しクラブに堕落する危険が警戒されていると考えられます。急速に拡大した教会に腐敗が入り込んできたことは、教会歴史で明らかです。

ローマ帝国を席巻して、国教にまでなったキリスト教は、迫害されていた時の苦しみを忘れて、他の宗教を迫害する様になってしまいました。国家権力と結びつくことによって、信仰の純粋さを失ってしまいました。中世の教会の堕落は、この急速な拡大にあぐらをかいた結果とも見るべきでしょう。

I.おわりに

日本の教会は残念ながら腐敗するほど拡がっていません。まず、私達ひとりひとりが良き証を周りの方々に立てることによって、ひとりでも多くの方を主に導くために真剣に祈り、労しましょう。

日本のクリスチャンは、今は少数派で、肩身の狭い思いをしているかもしれませんが、主は必ず大きく育ててくださるお方だという望みを持ちましょう。 さらに、どんな形であれ、私達の中に壊してもらわねばならない殻がありますならば、壊していただいて、社会の中で本当に芽を出し、育ち、実を実らせる存在とさせていただきましょう。お祈りいたします。


Message by Isaac T. Saoshiro,senior paster of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.O./January 28,2006