礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年2月4日
 
「聖霊による勝利」
ローマ書連講(22)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙8章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
 11  キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
(ローマ8章11節)

 
はじめに
 
 
1.昨年11月24日でローマ書を一時中断し、クリスマスと新年の特別講壇を守りました。今日から、レギュラーな学びに戻ります。

2.先回は、8章2節の「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理(生命が活動する原理)が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」を中心に、私達が聖霊によって、罪の束縛から解放されるというすばらしい宣言を学びました。ローマ書6-8章は「聖化」を扱っている部分ですが、大きく分けて、6章が、罪への死、7章は罪と律法の葛藤、8章は聖霊による解放と分けることが出来ます。

3.今日は、聖霊による解放の内容が、もう少し詳しく吟味される部分に入ります。まず、与えられたテキストの論旨を簡潔に辿り、その後で、ここで述べられている「肉」とは何か、「聖霊」のお働きは何かに目を留めたいと思います。
 
A.8章前半の論旨
 
1.キリスト者は、過去と現在の罪から解放されている(1-2節)
 
 
1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
 
過去の罪にかかわる断罪を本当は受けた身なのであるが、その宣言をすっかり破棄してくださったということなのです。「決して」(ウーデン)とは、非常に強い言葉です。中途半端ではなく(最近の若者は「パネェ」と言うそうですが)、完全に無罪にしてくださいました。そればかりか、罪が働き、死がもたらされると言う「原理」(支配的な法則)が、イエスを甦らせた聖霊のより強い原則に取って代わられたのです。この支配原理の転換が、この章全体のカギです。例えて言えば、地球と言う磁場があるために、方角を示す磁石針が動いているのですが、強力な磁石が傍にあると、針はその磁石に影響されてしまうのと似ています。罪の力という磁場は確かに働いているのですが、聖霊のより強力な磁力によって、罪の磁場は影響を発揮することが出来なくなるのです。
 
2.それは、キリストの代理的な処罰によって可能となった(3-4節)
 
 
3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
 
イエス様が罪人となった訳では在りません。罪を持った人間と同じ肉を持ってくださり、その肉において、私達の身代わりに処罰され、律法の要求する刑罰を終わりにしてくださったのです。何とすばらしいことでしょうか。それだけではなく、私達罪人の罪を贖い、破壊し、清めてくださったのです。
 
3.生まれついた人間性(肉)は神を喜ばせることができない(5-8節)
 
 
5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8 肉にある者は神を喜ばせることができません。
 
この思う「考える」とか「思う」は、ピリピ2:5にある「キリストの思い」として使われているのと同じ言葉です。ここは、次の項目でもう一度触れます。
 
4.しかし、聖霊は、肉の制約から私達を解放する(9-11節)
 
 
9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
 
聖霊は、私達の心に住んでいてくださり、肉と呼ばれる私達の弱さ、制約から解放してくださいます。これも、Cの項目で触れます。
 
B.「肉」とは何か?
 
1.体を現す二つの言葉
 
 
聖書では、体を表わす場合に、サルクス(sarx)とソーマ(sooma)という二つの言葉が使われています。この文節ではサルクスがほとんどで、ソーマは10-13節に三回使われているだけです。ソーマというのは具体的な意味が強く、肉体そのもの、或いは(食用とする動物の)肉などと使われます。パウロは、サルクスをもう少し抽象化された概念、霊的なものに対比する肉的なもの(罪との関連)で使っています。
 
2.罪と肉の関係
 
 
パウロがここで語っているのは、人間の体そのものに罪が宿っているとか、肉体をもっていること自体がもう罪深いのだ、と言うのではありません。勿論、人間の肉体に備わった食欲や性欲というものが制御不能となって悪さをするケースが沢山ありますので、肉体を悪と考える哲学は、当時も今も存在します。しかしこれは聖書の教えではありません。少なくとも、この文脈の中では、「肉」とは、人間が生まれつきもっている性質、神から離れてしまったものとしての人間性を指しています。「神を認めようとしない性質、神を第一にすることが出来ず、結局自分を第一にする性質のこと」(河村)です。
 
3.肉の特質
 
 
1)世的な考えをする(5節)
「肉的なもの」とここで記されているのは、この地上に属するもの、肉欲的なもの、物欲、権力欲に関わるすべてのことです。

2)その思いは死をもたらす(6節)
地上的な思いは、神との断絶=死を齎します。

3)神に対して反抗的である(7節)
神と断絶するだけでなく、もっと積極的に、神に逆らい、その戒めを守ろうとせず、仮に守ろうとしても、反対の力が働いて、守ることができない、人間性の弱さを示します。

4)神を喜ばせられない(8節)
今まで述べたことを纏めると、神のお喜びにならない一切の現象が、「肉」によってなされます。

私達は、教会として、このような「肉的な」要素と全く無関係でしょうか。どうしてどうして、教会の真ん中に、肉的な要素が堂々と入り込む危険は大有りです。コリント教会を見てみましょう。永田町顔負けの派閥闘争が教会内で繰り広げられていました。パウロは、この状態を憂いました。「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そしてただの人のように歩んでいるのではありませんか。」(1コリント3:3)と嘆いています。コリントのクリスチャンは、確かに救われ、(ある意味で)清められ、賜物が豊かに与えられていた、まことに活発な教会員でありました。それでも「肉的」であったのです。大きな警戒ではないでしょうか。
 
C.聖霊のお働き
 
1.聖霊というお方
 
 
この章で、霊という言葉は20回出てきます。人間の罪深さへの最終的な回答は、キリストの贖いの恵を私達の内側にあてがってくださる聖霊なのです。私達の体は人類が背負っている罪の影響(罪の結果としての古傷、罪にもう一度戻る可能性)を引きずってはいますが、聖霊によってそれが癒され、最終的な勝利を得る見通しが語られます。ギリシャ語は、神と同格であられる聖霊と、私達の人間を形作る霊的な面としての霊とを同じ言葉(プニューマ)で表わしています。この1-13までの文節では、10節の「霊は生きており・・・」が唯一の例外で、他は、神である聖霊と理解できます。
 
2.信仰者に対する聖霊のお働き
 
 
その聖霊は、私達の中にどのような働きを行ってくださるでしょうか。

1)罪と死の原理から、解放する(1節)
人間の罪深さは、確かに大きく、恐ろしい、根深いものではありますが、それを過度に強調してはなりません。罪の原理は、御霊の原理よりもはるかに小さいものなのです。御霊の解放力を信じましょう。鳥をかごから出して、さあ自由にどこでも飛んでいきなさい、といっても、長い間かごの中で慣れてしまっている鳥は、暫く飛べないようなものです。罪が長いこと支配していましたので、その魔力が強いように錯覚しているケースが多いのです。御霊によって羽ばたきましょう。

2)御霊によって歩むと、律法の要求を全うする(4節)
律法の思いを私達の心に注ぎ込むことによって、私達がいやいやではなくて律法を喜んで行うことを可能としてくださるのが聖霊です。(エゼキエル36:26-27、エレミヤ31:31-34)律法の要求するところとは、突き詰めて言いますと、愛です。ローマ13:8-10にそのことが記されています。御霊によって注がれる愛が(5:10)、律法を完成させるのです。

3)霊的な思いを与える(5、6節)
御霊に属することとは、神への思い、神の御心を思う思いです。クリスチャンになったから、スポーツも芸術も趣味も全く関心がなくなるというわけではありませんでしょう。それらは人間らしい生活を豊かにする道具なのですから、結構なことです。しかし、それらのことばかりではどうにもなりません。神を思う思いに、もっといえば、御言葉の思い巡らしの中に豊かな恵、喜びを感じるような霊性を与えられたいものです。詩篇119篇、ピリピ4:8御霊による考えは、命と平安を齎す:これは、主キリストの持っておられた平安(ヨハネ14:27)、世の艱難の中でも保つ平安〔同16:33〕のことです。

4)私達のうちに住み給う(9節)
すべてのクリスチャンの心には、聖霊が宿っておられます。えっ、どの辺に?とあちこち聴診器をあてても、この辺だと特定できるわけではありません。これは、そのように強く感じるときもあり、そうでないときもあり、感覚の問題ではなく、信仰の問題なのです。聖書は、私達がキリストにある、つまり、キリストを主と信じたその時から、聖霊が心に宿り給う、と宣言しています(ガラテヤ3:2、Tコリント6:19、使徒2:38)。私達が神を愛し、神を礼拝することと喜び、従うことを喜ぶこと自体、もう聖霊が働いておられる証拠なのです。

5)私達のからだを活かしてくださる(10,11節)
聖霊によって、私達は神の命と繋がることが出来ます。私達の霊は、神の霊との交信基地のようなものです。携帯電話で繋がっているようなものです。ですから、肉体的な生命が滅びたとしても、私達の霊は神と共に生きます。そればかりか、やがての日に、その朽ちるべき体は栄光の体に変えられて、つまり甦りの恵に与ることができるのです(11節)。私達の体が活かされるとは、病気の癒しも含まれてはいますが、より究極的には体の復活のことです。全体として、過去の罪からの解放だけではなく、現在持っている弱さ、欠陥を修復して神のみ姿に似たものとさせるプロセス全体を導く生きた力であり給います。
 
終わりに
 
1.信じた者の心に宿り給う聖霊を認めよう

2.聖霊の力を信じ、より頼もう

罪の法則も強いのですが、聖霊の力ははるかに勝るものです。自己努力で罪に勝つのではありません。律法を守ろうとする努力も虚しいのです。力は聖霊だけから来ます。真実に、単純により頼んで進みましょう。
 
お祈りを致します。