プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2007年2月4日

天国の原理C
「隠された宝」

渡辺 寛伝道師

中心聖句:マタイの福音書 13章44-46節

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。

すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

該当箇所 マタイの福音書 13章44-46節

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。

すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。


A.はじめに

こんにちは。今日は、天国の原理の4回目です。44-46節を中心に、「隠された宝」と題してお話し致します。たとえ話を通してイエス様からの語りかけに心を向けてみましょう。

B.たとえ話から

まず、44節です。

今日のように銀行等がない時代でした。ですから大切な宝や財産を地に埋めて隠しておきました。持ち主が、旅に出たり、戦いにいったりして、何らかの理由で、いなくなったか死んでしまい宝がそのままの状態になっていることが、しばしあったようです。

それを偶然にも見つけた人は、その宝を得るため、誰かに悟られる前に自分の財産を全部売り払ってでも畑ごと買い、宝を自分のものにするのです。

もうひとつのたとえ話−45-46節−ですが、すばらしい真珠を探し求めていた商人が、これ以上にないというぐらいにすばらしい真珠にたどり着いたなら、やはり持っている財産を全て売って買おうとします。

C.たとえ話からわかることは・・・?

天国を「隠された宝」「探し求めていた真珠」にたとえて、イエス様は、いくつかのポイントを示されました。まず、

天国の価値は、自分の持っているすべてを犠牲にしてでも獲得すべき素晴らしい所なのだ

ということです。それは同時に、私達も本当にすばらしいものだと思えば何とかして手に入れたいのです。もうひとつのポイントは、

天国についての真理は、この「宝」や「真珠」のように隠されていて、私達にはわからない(理解出来ない)

ということです。私たちは、日常生活の中で、ふと天国のことを思ったり、考えたりします。子供でも知っています。しかし、それは何となくで、きちんとした確信を持っているわけではありません。ある時は信じ、ある時は信じられないというあやふやなものです。

D.ではどうすれば良いのか?

では、私達はどうすればいいのでしょうか?

「隠された宝」は、掘り起こさなければ見つかりません。「欲しい真珠」は、探し続けなければ見つかりません。今は漠然としている天国について、私たちは、求めて探し出さなければならないのです。

ではどのようにして、私たちは探し出せばいいのでしょうか。

言い換えると、そのような「素晴らしい天国」がなぜ隠されている(あやふやなもの)のでしょうか。

最初のたとえの「隠された宝」は、「宝」を掘り起こす目的で掘ったのではなく、偶然に見つかりました。そして掘った人にとって「宝」だと思えたから自分の物にしたのです。

「宝」が埋めてあっても、探す人にとってそう思えなければ、自分を犠牲にしてまで得ようとは考えないでしょう。

偶然に見つけたとしても、それが本当に自分にとって必要な物、得難い物だと悟らなければいつまでたっても得ることは出来ません。

つまり、「隠された宝」=「隠された天国」は、隠れているように見えて実は、私たちがその本質を見抜く力がないことに問題があるのです。私たちは、霊的ことに鈍いのです。

E.もうひとつのたとえ話から

ここで、ルカの福音書12章16-21節からもう一つ別のたとえ話をご紹介します。

それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。

そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』

そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

ここに登場するお金持ちは、自分のことしか考えていない人です。そして、少なくも3つのことを誤解しています。まず、

「たましいよ。これから先何年分も・・・」

と、この金持ちは、地上生涯のことにだけに目を向けて、その後については何も考えていません。まさしく、天国が見えていないのです。また、

豊作であることに、満足して、そこに安心感や幸せを求めている

のです。目に見える物が大切で目に見えないことに無関心なのです。そして、

自己中心に物事を考えている

のです。これだけの豊作の陰には、働いた多くの農民がいることも忘れているし、なによりも「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者」と全てを支配し、恵みを注がれる神様の存在を忘れています。

この金持ちのように、神様に対して無知で心かたくなな者には、天国は隠れたままなのです。

「隠された天国」を知るためには、このようなかたくなな心を捨てて、自分中心の心を改め、純粋に神様を信じることです。私たちは神様の存在を無視してはいけないのです。

砕かれた心で、追い求め、掘り起こして探すのです。必ず見つかります。

F.似ているところが・・・?

今回のこのたとえ話によく雰囲気の似ている聖書の箇所があるとしたらどこでしょうか?

「クリスマス」の話を思い出してください。つい2ヶ月前に私たちはクリスマスを祝いました。またクリスマス?と思わないでください。

クリスマスの出来事を最初に知ったのは誰でしょう。

そう、夜番をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いたちです(ルカの福音書2:8-20)。

彼らは、救い主イエス・キリストを探していた訳ではありません。「隠された宝」を偶然掘り当てた人のように、偶然その場所にいて、天使によって知らされたのでした。

それからイエス・キリストを探し当てたのは誰でしょう。

そう、東の博士たちでした(マタイの福音書2:1-12)。彼らは、学んでいた星を頼りに、探し続け、ついに幼子の所に導かれました。真珠を探し求めていた商人に似ています。

羊飼いも、東の博士も、偶然にせよ、探し求めたにせよ、疑うことなく、信じました。また、得るために多くの犠牲を惜しまずにやって来ました。その結果、救い主イエス・キリストに出会い、心が満たされ、讃美に溢れ、受け入れて帰って行きました。「隠された宝」を心のうちに得ることが出来たのです。

「隠された宝」=「天国」は、私たちがこの地上にいる間にも心のうちに得ることが出来るのです。言い方をかえれば、天国の前味わいを知ることが可能なのです。

G.おわりに

神様は、素晴らしい宝=天国を私たちから隠したのではなく、むしろ私たちの心が曇り、隠してしまったのです。

神様は、私たちが一人も滅びに行くことを望んではおられません。全ての人を天国に導いておられます。私たちもイエス・キリストを通してこの素晴らしい天国を十分に理解することが出来るのです。

素晴らしい神様に信頼しましょう。

「隠された宝」を見つけるために、また既に見つけた方は見失わないために、心の状態を確かめましょう。

かたくなな心になっていないでしょうか。

自己中心になっていないでしょうか。

これらの心が私たちを霊的無知にするのです。霊的世界のことは、霊によらなければ、神様に扱って頂かなければなりません。

愛する方々がますます神様を信じ信頼し、神様を知る知識に成長されますことを願いつつお祈り申し上げます。お祈りいたします。


Message by Hiroshi Watanabe,residential preacher of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.O./February 4,2006