礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年2月11日
 
「神の子とされる恵み」
ローマ書連講(23)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙8章12-17節
 
 
[中心聖句]
 
 16  私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
(ローマ8章16節)

 
聖書テキスト
 
 
12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
 
はじめに
 
 
1.前回は、8章11節の「キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」を中心に、聖霊による勝利を学びました。如何でしょう、一週間、それを経験しつつ歩みましたか。

2.今日は、聖霊のお働きの一つである、「子とされたことの証をする」という側面に入ります。ジョン・ウェスレーの父サムエルが、72歳の伝道生涯を全うして死を迎えたとき、ジョンにこう言い残しました。「息子よ、内なる証し、内なる証し、これこそ証明、キリスト教の最も確かな証明なのだよ。」と。それが1735年4月25日でしたが、その3年後の5月24日に、ジョンはこの内なる証を経験します。救いの確信の体験と宣証が、18世紀のイギリスのリバイバルの特徴となりました。

3.今日のテキストを、節を追って学ぶことに致しましょう。
 
A.肉に従わず、霊に従って歩む(12-13節)
 
 
「肉」とは、人間が生まれつきもっている性質、神から離れてしまったものとしての人間性を指しています。「神を認めようとしない性質、神を第一にすることが出来ず、結局自分を第一にする性質のこと」(河村)です。御霊を宿したものは肉の働きから釈放された歩みを致します。
 
1.罪に「義理立て」する必要はない(12節)
 
 
12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
 
「ですから」というのは、9節の「神の御霊が住んでおられるなら・・・肉の中にではなく、御霊の中にいる」という、正に釈放の福音を受けています。釈放されているから「肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません」と言えるのです。つまり、奴隷として、罪の中に歩む必要はなくなったということです。はっきり言えば、鳥かごが取り払われたのに、心理的に鳥かごが残っていて、「私はどうせ罪人なんだから罪を犯すのが当然」とばかりに罪の生活を義務的に行うことはないのです。
 
2.御霊によって生きる(13節)
 
 
13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
 
「からだの行ないを殺す」とは、現在進行形で命令されています。つまり、どこかで、信仰をもって罪に対して死んだものと計算する信仰に立つことは大切ですが、その信仰を継続することはもっと大切だ、とパウロは言いたいのです。「からだの行い」とは、取りも直さず神から私達を離してしまうような習慣のことです。聖霊のお助けによって、その力に打ち勝ち、もっと積極的には、神の栄光を表わすことを第一に考えることです。河村先生はここを「神の栄光を表わすことができるか、周囲の人々の益になるかを考えて、神の栄光が現れるように、自分の欲望、思いを制御すること」と解説しています。
 
B.神の子とされた特権(14-17節)
 
1.神の子どもとは、神の御霊に導かれる人(14-15節)
 
 
14-15 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
 
1)「子とする霊」(フイオセシア=養子にする)
神の御霊を心に宿したものは、神の子どもとされたことと同じです。親のDNAを貰ったものが肉における子どもであるように、神のご性質を私達に分け与えるお方としての御霊が私達のうちに宿るときに、私達は霊的DNAを共有するものとして神と親子関係に入るのです。これはすばらしいことではないでしょうか。それを可能にしてくださるのが御霊です。
「子としてくださる」とは、フイオセシアという言葉です。フイオスとは「息子」のこと、セシスとは「セットする」とか「置く」ということばです。本来子どもでないものを子どもにする(つまり、養子にする)ことです。この制度は、ユダヤ人の習慣と言うよりも、ローマ人の習慣で、パウロはそれを頭に描きながら、この表現をしたもののようです。ローマの養子制度は、養子となった子供は、実の子どもと全く同じ権利、財産、地位を受け継ぐものとなるのです。ベン・ハーの物語をご存知の方も多いことでしょう。
ユダ・ベン・ハーは一時奴隷の立場に身を落としますが、ローマの貴族で将軍を助けたことにより養子とされます。貴族の称号を受け継ぎ、財産を受け継ぎ、印章としての指輪を養父からいただきます。私達は、何の功績もないものですが、神の憐れみによって養子にされたのです。感謝しましょう。

2)神との家族関係に (絵図はここをクリックして下さい)
神様と親子関係になるとは、キリスト教独特の思想です。神は近寄り難い聖さをお持ちのお方ですから、神を恐れる(畏れる)のは当然です。そうあってよいのです。しかし、同時に、私達は神様を「天のお父様」と親しくお呼びすることが出来るのです。パウロのことばでは「アバ、父」(アラム語で親しさを表わす言い方で、日本語で近い表現は「お父ちゃん」です。神様を「お父ちゃん」と呼ぶことが出来るとは、何という特権でしょうか。
「エマオの道で」というキンロー博士のデボーションの本で、2月8日の部分でパキスタンの政府高官の奥さんがクリスチャンとなった証しが紹介されています。彼女は、人間を超越したアラーの神を畏れていましたから、クリスチャンが「天の父よ」と呼びかけるのが信じられませんでした。しかし、キリストを信じる信仰に立ったとき、心を籠めて「父よ」と言いました。その言葉を発した瞬間、自分の取ったブレイな行為によって裁かれ、打たれるのではないかという恐怖のために床にひれ伏しました。しかし、天の父は愛と憐れみによって彼女のところに来られ、「娘よ」と声をかけてくださいました。主権者なる偉大な神が、この私とそのような親しい間柄であったと言うことを知って、感泣した、と記されています。
 
2.私達が神の子であることを、聖霊が証言なさる(16節)
 
 
16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
 
1)御霊の証
ここに、御霊ご自身の証しと、私達の霊の証しが一緒に証することが記されています。前者について、ジョン・ウェスレーは、こう定義しています。「御霊の証しとは、魂に対してなされる内側の印象であって、それによって神の霊が、私は神の子であるということ、イエス・キリストが私を愛して私のために命を捨ててくださったこと、私のすべての罪が消し去られ、この私が神と和解することが出来たという事実を、私の霊に対して直接に証なさる証のことである。」と。これは必ずしも、天に昇るような恍惚境を経験することでもなく、喜びに溢れて嬉し涙にくれるような経験をすることでもありません。真実に、正直に罪を悔い改め、心からイエスを救い主と信じ、その信仰をはっきりと告白するとき、心の中に与えられる静かな確信のことです。

2)私達の霊の証
聖霊の証が私達の霊の証に伴うと言うことが述べられていますが、私達の霊の証しとは何のことでしょうか。河村先生は、「自分の生活を振り返って、自分の生活の変化と主イエスを信じたらどうなるかを述べている聖書の文言を比べて、確かに自分は救われているとうなずくことからくる納得のこと」と述べています。つまり、聖霊の実が幾らかでも結ばれつつあるという証しが私達の確信を強くします。
 
3.神の子とは、キリストと共同相続人となること(17節)
 
 
17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
 
1)「共同相続人」
私達が神の子どもとすれば、神の子であるキリストと相続を共にすることになります。「共同相続人」という思想もローマの法制から理解できます。ユダヤ人の相続制度は、長男が二倍、他の者達が残りを均等相続というものでした。しかし、ローマの相続は、今日の私達の民法のように、全員が均等相続です。
勿論、私達人間が、神であられるキリストと同格になることではありません。キリストはもともと神の御子であられます。私達は罪の子でしたが、養子縁組によって神の子どもとなる恵みを頂いた、ということで大きな違いはあります。ただ、私達は、共同相続人として、キリストとともに天国での栄光を一緒に受けることが出来るのです。黙示録では、千年王国で、「キリストとともに王となる」(黙示録20:6)と記されています。

2)栄光と苦しみをキリストと共に受ける
しかし、キリストと共に栄光を受けるためには、キリストが苦難を経て栄光を受けなさったと同じように、私達も苦難を経験しなければなりません。クリスチャンになることは、善いことの連続で、苦しいことは一つも起きないというのは幻想です。「あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。」(Tテサロニケ3:3)キリストとの同一化というのは、単なる思索の世界ではなく、日々の生活や奉仕の中で、彼の苦しみを共に担い、彼のための辱めを分かち合うといった現実的なことです。
 
おわりに
 
1.神の子とされた恵みを数えよう
 
 
私達が神の子どもとされたということは、ものすごい恵み、特権です。今までお話したことから、その恵みを拾い集めましょう。

@罪に義理立てして仕えなくて済み、感謝をもって神に仕えるものとなったこと
A三位一体の神の「家族関係」の一部に加えていただいたこと
B特に神を「お父さん」と親しく呼ぶことができること
C天のお父様の全財産を受け継ぐものとなったこと
Dキリストと共に苦しむことも、栄光に繋がるという希望を与えられたこと

もっとありますが、本当に感謝なことですね。今週も、人生の荒波に揉まれて、いやな思いをさせられたり、途方にくれたり、自分は捨てられている、自分は一人ぼっちだと感じたりするようなところを通るかもしれません。どんなところを通ろうとも、私は他ならない天地宇宙を造られた誠の神のかけがえのない養子なんだ、という意識と喜びをもって過ごしましょう。天のお父さまにより頼みつつ進みましょう。
 
2.神の子となるためには?
 
 
もし、私はまだ子どもにさせてもらっていない、と感じる人がいれば、早速養子の手続きを致しましょう。難しいことではありません。心から罪を悔い改めること、イエス様を救い主と信じ、心に受け入れることです。
 
お祈りを致します。