礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年2月25日
 
「望みによって救われる」
ローマ書連講(24)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙8章18-25節
 
 
[中心聖句]
 
 24  私たちは、この望みによって救われているのです。
(ローマ8章24節)

 
聖書テキスト
 
 
18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。 20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
23そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。 25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
 
はじめに
 
 
1.前回は、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(ローマ8:16)を中心に、「神の養子」とされる恵みの豊かさを共に学びました。

2.先回の締めくくりに、キリストの共同相続人となったからには、その栄光と共に、苦しみをも共に受け継ぐ、と言うことを学びました。17節をもう一度読みましょう。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」パウロは、この苦難を共にする、と言う思想を18節以下で展開します。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」 そして、この苦難は希望に繋がるものであるとも述べています。この文節の中に8回も「希望」と言う言葉が出てきます。これはクリスチャンの希望についての小論文とも言えます。

さて、パウロは苦難について、私達クリスチャンが経験するものと、自然界全体が経験するものと、二つに分けて述べています。後者からスタートします。
 
A.自然界の苦しみと希望(19-22節)
 
 
19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。 20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
 
1.造られたときの栄光
 
 
「被造物」とは、造られたもののすべてです。神の創造において、すべてのものは「はなはだ良かった。」と記されています。すべてのものに調和があり、それぞれの美しさがありました。この場合、「被造物」の中には人間が含まれて居ないようです。もちろん、神の創造という行為から考えれば人間も被造物の中に入っているのですが、少なくともここでは人間界とは区別された自然界をさしている、と考えるのが自然です。当然ですが、天使や悪霊たちも含んでいません。
 
2.人間の堕罪と連動しての苦しみ
 
 
さて、「被造物が虚無に服した」とは、どんなことでしょう。虚無(マタイオテース)とは、目的がなくなること、結実が無いことという意味です。具体的には、アダムが罪を犯したときに、地にあるものも同時に呪われたものとなったことをさします。創世記3:17-18を読みましょう。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」  

虚無に服させなさったのはもちろん神ご自身ですが、それを齎したのはアダムの罪です。20節「服従させた方によるのであって、望みがあるからです。」自然界の苦しみは、自分の意思によって起きたものではなく、アダムの罪の故に、神が導きなさったところから起きました。従って、同じ神によって回復される希望があるわけです。

人間は造られたものを正しく管理し、神の栄光を表すように導くはずでした。しかし人間は、自然を正しく管理する代わりに、神の創造物を自分の利益と欲望のために使うようになりました。具体的な例を挙げれば、象牙が欲しいために無差別に象狩りをして象が絶滅の危機に瀕したり、毛皮が美しいためにチータが激減したり、羽毛を目的にアホウドリを捕まえて、絶滅の危機に追い込んだり・・・、その例はきりがありません。

それだけではなく、19世紀から始まった工業革命は自然の資源を組織的に、大量に破壊し続けています。私達の子供の頃は、このようなことを人間の進歩と礼賛する本ばかり読まされていたように思います。やっと20世紀末から環境問題が論じられるようになってきました。始めはたくさんある課題のうちの小さな形として、しかし今は、最大の課題として論じられています。でももう遅いといわれています。地球の温暖化は止まるところを知りません。私達の小さな努力でも、政府間の懸命な努力も、もうこの勢いをとめることが出来ないように見えます。

パウロが神学的に提示した自然の苦しみは、今や目に見える現実的な苦しみとなって私達に突きつけられています。はっきり言って、私達がより快適な、より楽しい生活を楽しみたい、しかも他の人々や自然界への迷惑を考えずにそうしたいという利己主義が、最大の問題なのです。私は、このことがすべての解決とは思いませんが、21世紀に生きるクリスチャンは、出来る限りのシンプルライフを送ることが自然界の管理を神から委ねられたステュアードとしての務めであると確信しています。
 
3.回復の希望
 
 
一方において、私達は自然界の回復のために可能な限りの知恵と努力と節制を努めねばなりませんが、それにも限度があります。究極的な希望は、自然界を虚無に服させなさった神が(人間の贖いというステップを経て)、自然界をその大いなる力をもって回復させなさるというものです。

つまり、自然の回復は、人間の贖いと連動しているのです。自然界は、まさに「神の子のあらわれ」、つまり、キリストの再臨から始まる自然界の回復を待ち望んでいるのです。

「切実な思い」(アポカラドキア)という名詞は面白い合成語で、アポ(から離して)+カラ(頭)+ドケイン(観察する)という三つの部分からなっており、合わせると、文字通りには「頭をまっすぐに延ばして観察すること」となり、そこから気を揉みながら待ち望む、という意味となります。他のことに関心を寄せないで、ただ一つのことを待ち望んでいる姿です。動詞の「待ち望んでいる」とは、ボーっと待っているのではなく、ため息をつきながら焦がれるような思いをもって待ち望む態度を示します。苦しみが希望と有機的に結びついて考えるのがキリスト者の希望の特色です。丁度、芋虫がさなぎになって、そこから蝶に生まれ変わるときの苦しみと似ています。苦しみは苦しみ、希望は希望と分けて考えるのではなく、苦しみの中に希望があるのです。

最終的な状態は、「栄光の自由」です。罪とのろいから解き放たれた自由、そしてその自由は輝きに満ちた自由です。こののろいからの解放についてイザヤはこのように預言しています、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」(イザヤ11:1-9)この絵をもっている限り、私達は世界の将来に対して楽天的でありえます。 
 
B.信仰者の苦しみと希望(23-25節)
 
 
23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。 25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
 
1.御霊の初穂
 
 
私達は「御霊の初穂」を頂いています。初穂とは、これから続く豊かな収穫の前味わいという意味です。内に住んでくださる御霊がその初穂です。パウロは別な場所で、内に住む御霊を「手付金」または「保証」と表現しています。「神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」(Uコリント1:22)

そのゴールは、キリストらしさを身に頂くことです。その前味わいとは、御霊の実、聖霊の力を幾分かでも分け持たせていただいているということです。
 
2.希望
 
 
その希望が「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われること」です。パウロは一方において、もう子とされているという恵を説いています(15節)。それなのに、23節で、子とされることを将来の目標として書いているのはどういうことなのでしょうか。註解者はここを説明して、15節で「養子となる」というのは立場的なこと、23節で「子としていただくこと」とは実質的なこと、つまり、子供としてのすべての特権と実質を見える形で頂くこと、と説明しています。前者は不完全な体というものに束縛されて不完全なもの、後者は私達自身にも、また、世の人に対しても、完全なものとして表されるものです。前者が初穂ならば、後者は満ち足りた収穫です。パウロは、それを「私たちのからだの贖われること」と言い換えています。体の贖いとは、取りも直さず肉体の復活のことです。

私達が救われているのは、この望みの中においてです。今日の主題テキストは「望みによって救われている」となっています。この「よって」というのは英語ではbyとも訳せるし、inとも訳せる言葉です。どちらかと言えばinととらえたほうが自然です。今日のテキストの中で、共通しているのはこの「希望」です。

@後の栄光は、今の苦難に比べられないほど大きいと言う希望的な見方、
A自然界の苦しみも、最終的な贖いを待ち望んでいるという希望的な見方、
B私達が「肉体」と言う弱く、罪に染まりやすい「牢獄」に閉じ込められているのも、やがての日に、栄光の体に変えられるという希望な見方、
C私達が「目で見ていること」に希望はなく、「まだ見ていないもの」にこそ希望があるという将来先取りの見方、

これがキリスト者たちの姿勢です。私達の救いとは、そのような希望の約束の中で与えられているものです。

さて、この体の贖いは何時起きるのでしょうか?聖書が教えていることは、キリストが再び来たり給うとき、私達の朽ちるべき肉体が朽ちない栄光の体に変えられるということです。この希望を詳しく記しているのが第一コリント15章です。特に15:51,52に目を留めましょう。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」何というすばらしい希望、何というすばらしい出来事ではないでしょうか。この日を待ち望みましょう。
 
3.忍耐と苦悩
 
 
地上におけるうめきは尽きないことでしょうが、私達がこの希望を持っている限り、苦しみに負けてしまわないで、忍耐をもって熱心に待ち続けることができます。実は呻き声そのものが希望の現われなのです。丁度産みの苦しみにあえいでいるお母さんが、子どもが出てくるという希望をもって呻いているのと同じです。パウロは別な場所で、こういっています。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」(Uコリント5:1-4)
 
終わりに
 
 
私達の魂に当てはめて、次の質問の形で考えましょう。
 
1.私は何を苦しんでいるか?
 
 
肉体の弱さ?痛み?衰え?病気?性格?環境?人間関係?何でありましても、それらの苦難に向き合い、直視しましょう。それが何であるかを書き出してみるのも助けです。なんとなく色々苦しんでいる、というと敵が定まりません。何を不安に思い、何を苦しんでいるのかを正直に、正確につきとめましょう。
 
2.私は何を待ち望んでいるか?
 
 
私の悩みに対して、神の約束は何でしょうか。家族の問題の方は使徒16:31の約束を思い出しましょう。健康の弱きを覚えておられる方、第二コリント5:1-4の約束を思い出しましょう。
 
3.その望みにしっかりと私の存在を結びつけよう
 
 
パウロは忍耐をもって、熱心に、と言う言葉を使いました。そうです。私達はいかに忍耐が足らず、熱心が足らないものでしょうか。この望みと自分とを結びつける絆が弱いのです。それを結びつけるのが祈りであり、信仰でしょう。日々、困難がやってきますが、それらを追い風と利用して、より一層神への信仰と祈りへの力と向きを変えさせる心のもち方を学びましょう。丁度、ヨットが逆風でも、それを利用してジグザグに進んで目的地に到達してしまうようなものです。
 
お祈りを致します。