プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2007年2月25日

天国の原理D
「迷った羊」

竿代 照夫牧師

中心聖句:ルカの福音書 15章7節

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

該当箇所 ルカの福音書 15章1-7節

さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。

すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

見つけたら、大喜びでその羊をかついで、

帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。


A.たとえ話の状況−罪人vsまじめ人間

みなさんこんにちは。主イエスの話されたたとえ話が続いています。どれも大変やさしく、しかも深い真理を含んだものです。

今日のたとえは、具体的な状況というものがあって、メッセージは明確です。状況からお話します。

1.罪人の間でのイエスの人気

イエスのところに

取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た

のです。

みな、というのが大げさに響くでしょうか。そうではありません。実際、収税人、罪人が空っぽになるほど、イエスの人気は高かったのです。

今日で言えば、教会の話が人々をひきつけて、盛り場にあるあらゆる種類の店が空っぽになるという状況です。

私は、船橋で伝道会のときに、その類の「客引き」に対抗して、そっちの方に行きそうな人をこっちの方に集めようと競争したことがあります。容易ではありませんでしたが楽しい経験でした。

イエスの場合には、競争してではなくて、彼らが喜んで集まってきたのです。実に楽しいことではないでしょうか。

2.罪人の種類

取税人についてはいろいろな機会に説明がなされていると思いますので詳しいことは省略しますが、彼らは「罪人」というレッテルを貼られていたことは覚えておかねばなりません。

つまり取税人と罪人という二種類の人々ということではなく、取税人である罪人、そのほかの(遊女などという)罪人というのが正確な意味での構成メンバーであったことでしょう。なぜ罪人なのかといいますと、

@金のために自国民の不利となることを平気で行う人々だったから、

A職業を通してかなりあくどい商売をして、自国民を搾取していたから、

であります。

彼らは愛国者を自称していたパリサイ派からは特に憎まれ、「罪人」というレッテルを貼られ、ユダヤ人が生命的に大切なものと考えていた神殿礼拝から締め出されていました。

もし私が誰かに「礼拝出席停止」などという懲戒処分をしたとしましょう。された方は、やれやれ助かったなんていいながら、日曜日をずっと寝て過ごすくらいの効果しかありません。

しかし、これが中世のヨーロッパだったらどうでしょう、教会から締め出されることは、ほとんど人間として生きていけないくらいの重い懲罰だったのです。この取税人もそれに似たようなものでした。

3.なぜ罪人が喜んだのか

その取税人・罪人たちが喜んでイエスの教えに耳を傾けていたのです。その魅力は一体なんだったのでしょう。

@イエスが人を差別なさらなかったこと、

Aすべての人を愛する愛の教えの中に、最も差別されていた人々が救いと励ましを感じたこと、

B自分を低くするものが救われるというイエスの教えに対して、低くなることの容易であった取税人・罪人たちが一番引き付けられたこと

が挙げられます。

反対に、自分は大丈夫、自分はまじめだ、自分は神に喜ばれるような人生を送っていると自負している人ほどイエスの教えを受け入れず、最終的には彼を十字架に付けてしまったのです。

4.真面目派人間の憤激

その酒税人や罪人が喜んでイエスの教えに耳を傾け、しかも、彼らの家にイエスとその一行を招いて食事などを共にしたものですから、まじめ派のパリサイ人たちが文句を言ったのも当然です。それも聞こえよがしに、やや大きめな声で文句を言ったのです。それに対する答えが、

三つの失せ物と三つの探索と三つの回復

です。それらはみんな共通的な真理を語っていますが、強調点の差異はあります。

失われたものの比率が三つとも違います。

羊の譬えでは百分の一、銀貨の譬えでは十分の一、放蕩息子の譬えでは二分の一です。

また、失せ物について、羊は人格を持たない動物ですし、銀貨は生命を持たない無機質なものです。

また、放蕩息子は人格者です。少しずつ特徴は違いますが、三つとも同じ強調点があります。それは、

@最も救われにくいようなものが救われることによって、神の国には大きな喜びが起きるということ、

A最も救いに近いように見える人ほど救いから遠いだけではなく、天の喜びにあずかれないこと

です。

B.たとえ話

今日の話は、百匹のうちの一匹が迷い出て、羊飼いに見つけ出されるという、いわば単純な話です。でもその内容には深い真理が隠されています。

1.羊

聖書の中で一番頻繁に出てくる動物は羊です。

聖書の時代の人々にとって、羊とは命そのものでした。生活の糧であり、礼拝の時に捧げられる一番大切な生贄でもありました。 その羊という動物ですが、実際には、弱く、愚かな動物で、迷いやすく、自分で自分を守ることが出来ない存在でした。

そのようなことから、愚かで罪深い人間のたとえとして使われたのです。預言者イザヤは、イザヤ書53章6節で

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。

と記し、エゼキエルは、羊飼いが正しく仕事をしないために、羊たちが苦しんでいると描写しています。

主イエスはここで、神の許から失われたものとしての人間を描いています。正に私達はすべて おのおの、自分勝手な道に向かって行った

ものです。

興味深いことに、それが百匹の一匹と記されていることです。

失われた羊はそんなに少ないのでしょうか?いいえ。失われたと思っている人がいかに少ないかを示すと私は思うのですが、間違いでしょうか。

パリサイ人が「私達も盲人ですか。」と聞いたとき、「盲人であったら望みがある、しかしあなた方は、見えないのに見えるといっているところに罪がある。」とイエスが答えなさいました。

私達が今日必要なことの第一は、「私達が失われている」というlostnessを認めることではないでしょうか。

2.羊飼い

この羊飼いの姿は、正に主イエスご自身の姿です。失われた一匹を尋ねて、野山を駆け巡り、最大の犠牲を払い、そして、見つけたときは、羊を叱らないで、肩に抱いて家に帰る、正に私達をお取り扱いくださる優しい羊飼いの姿です。この聖書での鍵となる言い回しがいくつかあります。

@見つけるまで=魂を求める執念に似たキリストの愛、しつこい愛

A捜し歩く=呼んでくださるだけでなく、私達のいるところまで降りてきて、探してくださる愛、謙る愛

B大喜びでその羊をかついで=私達を叱ることなく、鞭で追い立てることもなく、掻き抱いてくださる愛、包む愛、

C「いっしょに喜んでください。」と私達を喜んでくださる愛、誇る愛

先週も、主は皆さんにとって羊飼いであってくださいましたか?日々、彼により頼み、もっと言えば甘え、すがる人は幸いです。

子供が親に甘える以上に、私達はイエス様に思い切り甘えたい、そしてそれに答えてくださるのがイエス様です。

3.大きな喜び

この日、羊飼いの近所では大きなお祝いパーティが開かれました。このたった一匹の羊のためにです。

表現をかえますと、私がそんなにも価値ある存在として神の前に覚えられているということであり、この自覚は何にもまして私達の人生観を変えます。

私なんかどうでもよいという人は、自暴自棄になったり、ひねくれたり、あるいは自殺したりします。私の魂は全世界よりも尊いものと神は見ておられると意識すると、心が明るくなります。いい加減な人生も送れません。落ち込んでいられなくなります。感謝なことです。

もう一つ、自分のすばらしい価値を自覚するのと同じくらい、まわりの誰に対してもその価値を見出すものでありたいものです。それは他人に対する態度を変えるものでしょう。

他人を馬鹿にしたり、無視したり、まして呪ったりは出来なくなります。本当の意味で他人を愛することができるようになります。

私達すべてが、神の前には大きな喜びの存在であることを覚えつつ、今週の旅路を歩みましょう。

4.喜べない人々

7節の言葉は、義人を自称するパリサイ派の人々には、ずっしりと重い言葉でした。

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

この「悔い改める必要のない」と言う言葉の中に、主イエスの最大の悲しさ、皮肉がこもっています。すなわち、

あなたがた、外側の生活から言えば、「悔い改める必要のない」正しい人だが、本当の意味で、その頑固さ、偽善、利己主義は悔い改めの対象なのに「悔い改めの必要がない」と強がっている人々

という意味です。ここで、話は終えます。

今日、主は何を語りなさいましたか。それにどうお答えしましたか?お祈りします。


Message by Isaac T. Saoshiro,senior paster of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.O./February 25,2006