礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年3月4日
 
「弱さを助けて下さる御霊」
ローマ書連講(25)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙8章26-30節
 
 
[中心聖句]
 
 26  御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。
(ローマ8章26節)

 
聖書テキスト
 
 
26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。 27人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 29なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 30神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
 
はじめに
 
 
1. 前回は、「私たちは、この望みによって救われているのです。」(ローマ8:24)を中心に、「クリスチャンの希望」について学びました。特に、パウロの強調点として、苦しみの中にこそ希望があるのだという、いわば逆転発想に注目しました。その苦しみは、自然界全体の苦しみであり、キリスト者の苦しみでもあります。

2.今日は、その苦しみを共に担い給う御霊についての考察に入ります。
 
A.御霊の助け(26-27節)
 
 
26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
 
1.「同じうめき」
 
 
さて、私達は「初穂」として御霊の内住を頂いていますが、その御霊ご自身も、私達の弱さを共に苦しみ、担っていてくださいます。ある注解者は、「同じように」を、「私達が呻き、自然界が呻くと同じように、御霊も・・・」という意味で解釈します。他の人は、「私達が希望によって支えられているのと同じように御霊によっても支えられている」という風に解釈します。文脈から見て、私は前者が自然と思います。自然界のうめき(22節)と信仰者のうめき(23節)に共鳴して一緒に呻いてくださるのが御霊です。
 
2.「共に担う助け」
 
 
この「助けてくださいます」という言葉は、単に強いものが弱いものに手を貸すという、いわば上下関係を表わしているのではなく、水平関係を表わす言葉が使われています。スナンティランバネタイは、「スン(共に)+アンティ(代わって)+ランバネタイ(取る)=共に担う」という意味で、ベタニヤ村のマルタが妹マリヤに対して、「手伝いをするように」と言った時の動詞と同じです。御霊も、私達と共に苦しみ、共に重荷を担ってくださいます。私達は、人生の中で色々な助けを頂くことですが、圧倒的な大きな力で私達の存在をも含めて軽々と助けていただくという助けの方法も感謝ですが、悩んでいるとき、苦しんでいるとき、一緒の立場で理解しながらサポートしてくれるという友達的存在は、一層の力です。御霊は、そのようなお方です。坂道で重い荷車を押していて疲れてしまったときに、一緒にいて、一緒に押してくださるお方が御霊です。
 
3.「祈りの弱さ」
 
 
何故私達は祈りにおいて弱いのか?:
私達の弱さには色々な分野がありますが、その内でも「祈りの弱さ」が一番致命的です。クリスチャンの力は祈りにある(ヤコブ5:16、「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」)のに、祈らない、祈れない、祈る気分になれない、祈る内容がわからない、ということでは、その力を全く活用しないことになります。助け舟が来ているのに、大声で呼ばないようなものだ、とある講解者は語りました。私達の祈りの弱さは、意志の弱さというようなものではなく、祈らなくても自分で何とかやって行けるという傲慢が、その根っこにあるのではないでしょうか。

その弱さは御霊によって助けられる:
御霊は、その弱さをご存知で、私達を祈りに導いてくださるお方です。「どのように祈るべきかわからない」とは、方法や形のことを言っているのではなく、また、祈りが未熟で祈りの言葉を知らないといっているのでもなく、祈りの本質、中心が分からない、といっているのです。下手な鉄砲でも数多く打てばどこかに当たるだろうというような祈りではなく、本当に的を射た、焦点の定まった祈りの矢をきちんと放つためには、霊的な洞察力が必要です。その様な祈りを助けてくださるのが御霊です。
 
4.「とりなし」
 
 
「とりなす」(ヒペレントュンカネイ)も合成語で、ヒペル(のために、にかわって)+エン(の中に、一定の場所で)+トュンカネイ(ぶつかる、出くわす)=「会合してとりなす」という意味です。

私達の益のために、祈る行為:
日本語で「とりなす」というのは、失敗してしまった部下のために上司が社長に対して「とりなす」というような、身代わりのお詫びのようなニュアンスがありますが、御霊のとりなしは、私達の必要のため、私達の益のために、私達に代わって祈ってくださる行為です。私達の祈りは、その御霊に沿って同じ方向で祈ることです。

私達の真のニードを知り給う御霊(詩篇139:1-2、23):
その方向とは、私達の深い部分に関わるニードです。深い部分とは、私達自身も気付かないほどの深さで、神のみがご存知な程の深さです。普通私達は、自分のことは自分が一番良く知っている、と思いがちです。しかし、どっこいそうは行きません。自分の本質、弱さ、醜さといったものは、案外自分では分からないものです。他人の方が、良く私達を観察して見抜いている場合もあります。余りきれいな譬えではありませんが、口臭なんかはその一例です。食べ物のせいか、歯茎のせいか、ともかく堪らないほどの口臭を放つ人がいます。でも本人は一向に分からないのです。鼻がその臭いに慣れてしまっているからなのです。第三者に口臭チェックをしていただく以外に、それは分かりません。神は、私達の奥底にあるものを探り給うお方です。詩篇139:1-2には「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。」と記されています。同じ詩篇は、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。」(詩篇139:23)と締めくくられています。神のみが私達の本質をご存知なお方です。

私達の奥底の弱さ、醜さ、を知り給う神が、聖霊と共にその醜さを贖いの故に神の子として、キリストの似姿に変えようと、呻くが如くに祈っておられるのです。私達も救いの完成のために陣痛に似た呻きをもって祈っていますが、聖霊ご自身も私達以上の呻きをもって、私達の救いの完成のために祈ってくださっておられるのです。何と申し訳ない、何と尊いことでしょうか。
 
B.神のご計画(28-30節)
 
 
28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
 
1.「益」とは?
 
 
利己的な「益」ではない:
28節は、それ以前の節とどう繋がっているのでしょうか。こう問うのには理由があります。多くの人々の証の中で、28節が取り上げられていますが、どうも文脈とは切り離されて引用される嫌いがあるからです。つまり、「いろいろ願わないような出来事が起きたけれども、結局終わってみると、私にとって益となる結果となった、めでたし、めでたし。」というニュアンスです。本当にそうでしょうか。

「救いの完成」という益:
ここでの「益」とは、「主を信じる者達が義とされ、栄光を着せられるという過程で御子の像に似せられて行くことで、人間にとっての最高の完成です」(河村)。その益は、苦難を経て与えられます。「すべてのことを働かせて」というすべてのこと、とはその前の文節の続きと取るべきで、苦難のことです。

それは、「御子と同じ形になること」:
御霊のとりなしの方向とは、私達が神の子どもとして完成することであることは、23節にも示唆されていますし、神の救いのご計画の最終目的が、「御子と同じ形にすること」であることは、29-30節に明確に述べられています。
 
2.「神の主導権」
 
 
「すべてのこと」が自動的に働くのか? or 神が「すべてのことを働かせ」なさるのか?:
「働く」を自動詞と取ると、文語訳のように「すべてのこと相働きて・・・」と「すべてのこと」を主語として「それが自然に綜合作用して」と訳すことも出来ます。しかし他動詞(働かせる)と取ると、神が主語となり、「すべてのこと」は目的語となって、(新改訳聖書のように)「神がすべてのことを働かせて」と訳すことも出来ます。

(御霊の助けによって)後者であろう:
文法的にはどちらも可能ですが、私は文脈から見て、後者であると思います。といいますのは、26,27節に「御霊がとりなししてくださる」とあるからです。その御霊のとりなしが功を奏して、神がすべてのことを私達の益のために働かせてくださるのです。「働く」のは、自動的にではなく、神がすべてのことの中に働いておられて、と神主導の信仰を物語っていると私は考えます。

「すべて」に含まれるもの:
私達の周りに生ずる、あらゆる出来事を共に働かせるのです。そして、それらをして、私達の救いの完成のためにお用いになります。この「すべてのこと」には例外がありません。私達にとって悲しく見えること、試練、勝利も含めてあらゆる出来事であります。アボット博士がその「聖化」の中でここに触れておられます。引用します。「28-30節には、キリスト者の成長のゴールとなる理想像だけではなく、そこに至る継続的な過程も記されています。人生において経験するあらゆることがら――試練、テスト、悲しい出来事、勝利など――の只中で、神は益を齎そうと働いておられます。私達の人格を通していつもご自身をより一層充分に顕わそうとして、角張った所を削ったり、難しい性格を矯正したり、キリスト的でない性質を取り除いたりなさるのです。この家庭は、新生のとき、つまり私達の霊魂の新たな誕生の時から始まります。それは、主権者としてのキリストへの全的献身によって一層加速され、私達が服従の生涯を歩むことによって全うされるのです。」具体的な過程については、次回に譲りたいと思いますが、神がこのような働きを私達のうちに始めていてくださることを心から感謝したいと思います。
 
3.「神を愛するもの、神に召された者に対して」
 
 
先にもお話ししましたように、多くの人はこの28節の前後関係を無視して、神はどんなことの中にも、どんな人々の人生にも働いて、万事を益にしてくださる、と都合よく解釈しています。この解釈の誤りは、恵みを頂くための資格を忘れていることです。ここには、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには」とその資格がはっきりと記されています。神を愛するとは、主観的な資格です。召されたとは、客観的な資格です。

神の召し:
召された、ということから考えましょう。そこには、救いにおける神の主導権を見ます。神はご自身の働きかけによって贖いの道を備えられました。その上で神は、人々がその贖いに与るようにと招いておられます。1ペテロ2:9には、「あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった」と記されています。

神を愛する:
神を愛するとは、その神の招きに応答し、自分中心の生き方を捨てて、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛するものとなるキリスト者としての生き方に転換した人々の生き方を指しています。これは決してえこひいきではありません。クリスチャンには良いことばかり起き、ノン・クリスチャンは不幸な目に遭うという短絡思想を示しているのではありません。神の召しを頂き、それに応答し、神を愛する生き方に移ったものたちを神は喜び、受け入れなさり、それ以後起きるあらゆる試練・苦難・勝利の全てを動員して、彼の救いの完成のためにお用いになる、という信仰を持つことが出来る、というのが28節の趣旨です。
 
おわりに:ヨセフ的信仰を持とう
 
 
ヨセフの生涯を見てみましょう。若いときに兄貴達に虐められ、殺されそうになり、助かったと思われたらエジプトに奴隷として売られ、苦労の末にエジプト高官の支配人となったと思った直後に高官夫人の誘惑を断ったという理由で投獄され、牢屋の中でも信頼を得ながらも忘れられ、という苦労の連続の末に、エジプトの総理大臣に一気に引き上げられました。彼は、その生涯を振り返って、こういいました。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50:20)これを新約的に表現したのが、ローマ8:28です。

この信仰をもって今週も明るく進みましょう。
 
お祈りを致します。