プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。
2007年3月4日
天国の原理E
「放蕩息子」渡辺 寛伝道師
中心聖句:ルカの福音書 15章17,18,19,24節
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
該当箇所 ルカの福音書 15章11-24節またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。 |
A.はじめに
皆さんこんにちは。今回も、捜し求めて救う神様が見事に描かれているルカの福音書15章,1-32節の中の聖句に心を向けてみましょう。
「エルサレムへの旅」の中で、イエス・キリストの旅はまさに、19章10節にあるように
失われた人を捜して救うため
の十字架への道でありました。
さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
と、15章1節にありますように、この日も、多くの聴衆がイエス・キリストの話を聞きたいと集まって来ました。
想像してみてください。凄まじい光景だと思いませんか。
この日のイエス・キリストのまわりには、一般の人達から軽蔑されている人達−お金が大切な税の取り立て人、ちょっと派手な装いの遊女、人前に出られない、心にやましさのある人々−が、次から次と大勢集まって来ました。
さらにその一群をあざ笑うように、軽蔑のまなざしで睨みつけるパリサイ派と呼ばれる人達もいました。
このような人達の前にたって、イエス・キリストは話し始められました。時には、5000人を超える聴衆の前で話されたイエス・キリストはどんな思いでいつも話されていたのでしょうか。
私自身みことばを語るご奉仕に携わり、人の前に立つ時は、多少緊張します。話し手としては、せっかく話す機会が与えられたのなら、限度がありますが、大勢の前で話す方がうれしいでしょう 。
さらに、聞きたいと思って来られる方ならなおさら話し易いでしょう。はじめから聞く気がなかったり、何か間違いを言わないかと構えられるととても話しにくいです。
どんな状況でもいつもと変わらないように話すのが本来の話し方でしょうが、やはりその場の雰囲気は気になってしまいます。
イエス・キリストにとっては、ここにいる聴衆はみな歓迎されるべき人達でした。イエス・キリストの目的が十分に果たされる最高の機会でした。この日も、的を得た分かり易い、そして大切な真理を語りなさいました。
B.3つのたとえ話の共通テーマ
イエス様はこの時、3つのたとえ話をされました。前回語られた「いなくなった羊のたとえ(4‐7節)」「失われた銀貨のたとえ(8‐10節)」そして、今日の「失われた息子(放蕩息子)のたとえ(11‐32節)」です。
みな少しずつ違う話ですが、イエス・キリストが伝えようとしていた真理は共通していました。ここでのテーマは簡単に申しますと
失われたものを探し見つけ出す
見つけ出されたなら、大きな喜びがある
です。私たちに対する神の愛がテーマとなっています。みことばで要約するとルカの福音書19章10節にありますように、
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。 ということです。
さて、今日は3つ目の「失われた息子(放蕩息子)のたとえ(11‐32)」のたとえ話を中心に天国の原理を2つあげさせて頂きます。
1. ひとつめは、
神様の一方的な愛
私たちがいくら「探さないでください。大きなお世話です。」と思ってもとことん探し続けて下さる。しつこいくらいに情熱を持って探し当てて下さるのです。私たちを価値あるものと認めていて下さるからです。ここから、第一の原理は
イエス・キリストは、(失われた状態の)私たちをも愛して、探し続けていて下さること
ということがわかります。
イエス・キリストには、いわゆる「捜査打ち切り」はありません。探しに行けない所もありません。2次災害、3次災害が起きても、必ず探し当てて下さいます。このように、失われたものを探し続け、見つけ出して下さるという神様の側のステップです。
2. ふたつめは
我に帰る、悔い改める
ということです。「放蕩息子」のたとえ話に目を向けます。
このたとえ話も「羊」や「銀貨」の話のように、私たちと神様の関係が描かれています。「放蕩息子」は私たちの罪の姿、「放蕩息子の父」は神様をあらわしています。
放蕩息子は、意図的に父の元を離れていきました。それは、一人気ままな自由が欲しかったからでしょうか。父の元を離れて外国へ行くことは神様の支配から遠ざかり罪の世界に行くことです。
その時、まだ生きている父親の財産の中から、自分の分を先に貰い、それを持って遠い外国へと旅立ちました。せっかく貰った財産も有効に使うことなく、無駄に使いとうとう持っていた財産も全て使い果たしてしまいました。
財産を全て失った放蕩息子は深みにはまり、自由を求めて家を出たはずが、結局自由を得られず行き詰まってしまいました。
ヨハネの手紙第一2:16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
今回の聖句で、「大ききん」は予期せぬ出来事に彼は食べるにも困り始めたこと、「豚の世話」=ユダヤ人なら、絶対に避けたい仕事に着かなければならなくなったこと、「豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほど」は空腹と貧しさ、しかし「だれひとり彼に与えようとはしなかった」は孤独。
これらのことばに代表されるように、
「ここまで落ちたか」
というところまで落ちてしまいました。
聖書では、この放蕩息子の姿を私たちの愚かさ、未熟さ、弱さ、神様の前にどうしようもない罪人であることと示しています。
行き着く所まで行ったこの放蕩息子は、そこでつぶれてしまうのではなく、ようやく目が覚めて我に返ることが出来ました。どんなに落ちぶれても、そこに探し続けておられるイエス・キリストの愛がある限り自分のありのままの姿に目覚めることが出来るのです。
ルカ15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
自分の姿に気づいたとき、そこから悔い改めが始まります。「放蕩息子」は、すぐに次の行動に出ました。
ルカ15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
ルカ15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」
父の元を離れた自分がいかに罪深いかを悔い改め、遜ってもう一度父の元へ帰ろうと決断しました。
「我に返る」=意識を取り戻す。気が付く。蘇生する。という意味がありますが、「蘇生する」=まさに生き返る経験をしました。以上のことから、第2の原理は
神の愛を知り帰って来た放蕩息子
ということがわかります。「帰って来た」というのがポイントで、失われた状態にあることを知り、我に返り立ち返る私たちの側のステップです。
C.まとめ
今回の天国の原理は、二つのステップがあって初めて私たちは天国に導かれるのです。神様は、イエス・キリストを通して父の元へ帰り易く、道を備えどこまでも追いかけて探し出して下さいます。
見つけ出された私たちは、またどこかへ迷い込んだりいなくなったりするのではなく、自分のありのままの姿を良く知り180度方向転換をして父の元へ返らなければなりません。
我に立ち返った息子は、その心の罪深さを父に会って謝りたいと願い帰路につきました。その間、昔のように父の愛を思い出していました。今までのような父と子の関係にたとえ戻れないとしても、父の元へ帰りたいと願いました。
このたとえでも父親の姿を通して神様が私たちの回復をどれだけ喜んでおられるかが描かれています。
ルカ15:20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
息子の姿が見えた時、父はかわいそうに思い、走り寄りました。
もう一度、服を整え(最愛の息子として扱って下さった)、指輪をはめ(子としての特権が与えられ)、靴をはかせ(神様のもとで本当の自由を与えられ)父と子の関係をもう一度回復して下さいました。
D.私たちへの適用
私達の日常生活にどのように当てはまるか、3点申し上げて終わりたいと思います。
1.イエス・キリストは、今日も失われた人を探し続けておられることをおぼえましょう。
2.自分が今どこを歩いているのかを確認しましょう。
3.もし、違う道に迷い込んでいたなら、我に立ち返り悔い改めて歩みましょう。
皆様の上に主の祝福が豊かにありますようお祈り致しております。
Message by Hiroshi Watanabe,residential preacher of Nakameguro IGM Church
Compiled and edited by K.O./March 4,2007