礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年3月11日
 
「栄光への計画」
ローマ書連講(26)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙8章26-32節
 
 
[中心聖句]
 
 29  神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。
(ローマ8章29節)

 
聖書テキスト
 
 
26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
 
はじめに
 
 
1.前回は、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。」(ローマ8:26)を中心に、「御霊の助け」について学びました。特に、御霊が私達の救いの完成のためにうめきをもってとりなしてくださる姿に励まされました。それが記されているのが26-27節です。

2.そして28節を通して、神が私達の周辺事態、特に苦難を総合的に働かせて、益を齎されることを知りました。その「益」とは「主を信じる者達が義とされ、栄光を着せられるという過程で御子の像に似せられて行くこと」です。

3.今日は、救いに関する神のご計画を学びます。
 
A. 神のご計画(29節)
 
 
29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
 
1.救いの設計図
 
 
「なぜなら」:
29節は「なぜなら」で始まっていますが、当然これは、28節を受けています。神が周りの出来事、特に苦しみの出来事をみんな上手に働かせて、私達一人ひとりの救いの完成というご計画のために用いなさることが28節の趣旨でした。29節はその目的を示します。

救いの計画の存在:
28節の中で鍵となる言葉は、「計画」ということです。もっといえば神の設計図です。それは、テモテへの手紙で、こう説明されています、「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。」(Uテモテ1:9-10)。神が設計図をお持ちであるとは、素晴しいことではないでしょうか。それは永遠の昔から定められていたもので、(パウロにとっては)今、ベールを脱いでその全容が示されたのです。
 
2.救いの最終目標:キリストのみ姿との一致
 
 
さて、そのご計画の最終目標とは何でしょうか。ここでは二つの言葉で示されています。

その第一は、信仰者達が「御子のかたちと同じ姿に」なることです。この「同じ」という言葉は、英改訳では「一致した」(conform)という訳語が使われています。外形的に似ているのではなく、その本質において「一致したもの」となることが、クリスチャンのゴールです。何に一致するかといえば、「御子のかたちと同じ姿」です。キリストの「姿」と言っているのにも意味があります。それは、キリストは目に見えない神が見える形をもって世にお出でくださった方であり、彼を見るときに神を見るからです。それは、内面的な相似です。外面的にも、復活の体を持つという点では相似でありますが、より本質的には内面的相似です。ピリピ2:5にキリストの心として紹介されているあの姿です。それは、ご自分を無にし、卑しい姿を取られた真の謙遜、僕の形を取り、死に至るまで、十字架の死に至るまで従われた従順の姿です。これこそが私達クリスチャンのゴールでなくて何でしょうか。

キリストと同じ姿になるというゴールは、この場所だけではなく、聖書のいたるところに散りばめられた、共通的な願いです。
@ピリピ3:2では「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」と記され、
AUコリント3:18では「私たちはみな・・・、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」と記されています。
Bさらにヨハネは、「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」(Tヨハネ3:2-3)とその希望を語ります。

キリストとの一致という目標を言い換えると、「御子が多くの兄弟たちの中で長子となられる」ことです。キリストが私達のお兄さんであり、私達はその弟達に当たるのです。この言い方では、「キリストが長兄となる」ことに力が入っていますが、実際的には、私達が「その長兄の弟と呼ばれるのに相応しい者達となる」ことが大切なのです。「親分はイエス様」という映画がありましたが、この節から言えば、イエス様は兄貴分であられるのです。イエス様を兄貴分と呼ぶのに相応しく、彼と同じ姿に作り変えられるのが、救いの究極です。
 
3.誰がこの計画に含まれているか?
 
 
パウロはここで、「あらかじめ知っておられる人々を・・・定め」と語っています。

限定的解釈:
この節は、実に難しい課題を提供します。単純にこの文章を読みますと、神は、誰が救われるか救われないかについて、全部を見通して予めご存知である、(これを「予知」と言いますが)その「予知」に基づいて、その人々を神の子とするように定めなさった(これを「予定」と言います)、その定められた人々を(その人々だけを)招き、その人々を義と認め、その人々に栄光を与えなさる、いう印象を与えます。事実、カルヴァン派の聖書学者は、この節を「一方的な神の定め、選び、抗し難い恵みの賦与」という教理の根拠として捉えます。本当にそう捉えてよいのでしょうか。

バランスの必要:
聖書を解釈するときの原則があります。@一つは、その文脈を捉えて解釈することです。Aもう一つは、総体として神の言葉である聖書全体からバランスの取れた解釈をすることです。@ここの文脈ということから考えると、神が人を救い給うという壮大なご計画が主眼であって、「誰がそこに入るか、入らないか」は、主要な論点ではないということを覚えねばなりません。A聖書の他の場所を公平に見ますと、キリストの贖いがすべての人のためであり(ヘブル2:9)、神はすべての人が悔い改めて神に立ち返ることを望んでおられる(2ペテロ3:9、Tテモテ2:4)という教えはいたるところにありますので、その教えとの調和をもって解釈することが必要です。

予知に関する見解:
そのようなことを念頭に入れて、29節の「予め知っておられる」ということについて、私は以下の点を指摘したいと思います。
@神は私達のような意味での時間を超越したお方であり、過去も現在も未来も、神にあっては同時に現在的なこととして捉えておられるということ
A28節を見る限り、そのご計画はすべての人に及ぶものであり、その計画によって招きがなされ、その招きに応じる(神を愛する)人々を、救いの完成へと導くというスキーム(枠組み)であること、です。

アダム・クラークは、その注解の中で、この場合の「予め知る」とは、前もってデザインするということと述べています。言い換えれば、「計画作成の初期段階を示します。それは、どのような人々に対しても、神の民となるように顧みと特権をお与えになったということです」と説明しています。考慮に値するコメントです。
 
B.計画の諸段階(30節)
 
 
30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
 
1.招き(召し):栄光の計画に従っての呼びかけ
 
 
招き(召し)とは、神の栄光の計画に従っての神の呼びかけです。この呼びかけは、すべての人に与えられるものです。残念ながら、招かれるすべての人が、その招きに応じる訳ではありません。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ22:14)とある通りです。この場合、招待に応じるものを「選ばれる」と表現しているのです。神の方で、あなたは滅びへ、あなたは救いへと選別されることは示唆されていません。そうすると、ペテロが「選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々」(Tペテロ1:1-2)と言っている背景が分かります。この場合、選ばれたとは、選別されたという意味よりも、招きに応答した人々が誇ることなく、神の選びに与ったのだという自覚のための表現であることが分かります。父なる神は、その御心に従ってその恵みをどの人々にも注ごうとしておられます。その結果として、私達はお招きを頂いた福音の恵みの中に入れられるのです。このことは、この手紙の主たる受取人であるユダヤ人が、異邦人が神の教会に招かれているのは単なる偶然ではなく、福音の計画を神が抱きなさったときに定めなさったことであることを見るために、証明付けられるべきものだったのです。
 
2.義認:全ての罪の赦し、聖化の始め
 
 
これについては、3章、4章で触れましたので、詳述はしませんが、簡単に言いますと、「心から悔い改め、真実な信仰をもって神に立ち返るもの全ての罪を赦してくださる」という恵みです。そして、その義認こそ、聖化の基礎であり、その始めです。
 
3.栄化:御子の像への一致
 
 
これは、29節の、御子の形に一致されること、御子を長兄として私達は次兄の立場と実質を得ることと同じステージと考えられます。聖化は栄化の初期段階、つまり、いまここで始まっている栄光のことであり、栄化とは、聖化の最終段階、やがての日に完成されるべききよめのことです。興味深いことに、これは、私達の時間の尺度からは未来ですが、パウロは「預言者的過去」の言い方で、神の御目では既に起きていることとして先取りして語っています。栄化は、私達にとっては未来のことなのですが、信仰的にはもう起きていると言って良いほど「確かな」ことなのです。 
 
C.私達への励まし(31-32節)
 
 
31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
 
1.私達に敵対できるものはいない
 
 
「これらのこと」とは、神の私達に対する恵み深いご計画のことです。こんなにも恵み深い、遠大なご計画をもって私達の救いのためにあらゆる物を動員して働いてくださる神が私達の味方をしていてくださるのだから、誰も私達に敵対できないという確信を持つことが出来ます。
 
2.私達に「すべてのもの」を与えて下さる
 
 
特に、神はご自分の御子を世に遣わし、一番厳しい人生を歩むことを許し、最後には十字架の極刑にお渡しになったのですから、その行為こそは最大の自己犠牲、最大の愛、最大の顧みと言えるでしょう。もし、神がそのようなお方であるとすれば、ご自分の御子キリストと一緒に、他のすべてのものを喜んで下さらない訳がありましょうか、いえ、そんなことはありません、というのがパウロの確信です。私達はパウロの確信を自分の確信と捉えることができますか?捉えさせていただきたいと思います。
 
終わりに
 
1.感謝しよう:神の栄光に満ちたご計画のゆえに
 
 
私達が毎日直面している課題というのは、私達に失望・落胆を与えたり、傷に塩を塗ったり、現代用語でいえば「むかつくような」出来事ばっかりかもしれません。どうか、その問題・課題に囚われすぎて、私達が目指している、神が私達のために備えてくださる栄光ある計画を見失ってしまうことがない様にしましょう。ダビデは、人生のあらゆる苦難を経ながらも、落ち込みすぎることはありませんでした。彼は少年時代、王となるべく油を注がれていたからです。注いでくださったのが神であるならば、必ず成就してくださると確信していました。私達も栄光の体に化せられるというすばらしい希望を持っているのですから、会社の同僚が馬鹿にしたくらいで落ち込んではなりません。明るく行きましょう。
 
2.確信しよう:神は私達の味方であり、私達のために御子に添えて万物を与えて下さる方であることを
 
 
神は、ご自分のお子を惜しまず私達のために渡しきってくださった方です。そんなにキップの良い渡し方をしてくださった方が、それと共に、あれはダメ、これはダメとおっしゃるはずがありません。信じましょう。すべて必要なもの、それが体力的なことであれ、経済的なことであれ、知能的なことであれ、環境的なことであれ、一切の必要を栄光のうちに満たしてくださることを。それを実証する一週間でありたいものです。
 
お祈りを致します。