礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年3月18日
 
「圧倒的な勝利者」
ローマ書連講(27)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙8章31-39節
 
 
[中心聖句]
 
 37  私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
(ローマ8章37節)

 
聖書テキスト
 
 
31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。 35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
 
はじめに
 
 
1.前回は、「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」(8:29)を中心に、クリスチャン生涯のゴールである、栄化(キリストの姿に一致すること)について学びました。そのようなすばらしい生涯へと招かれたものに敵対するものはないというお約束は、大きな励ましでした。

2.今日のテキストである31-39節は、昨そのパウロの確信を述べています(その内、31-32節は昨週触れました)。この文節は、大きな四つの質問と、それへの答えという形で論議が進んでいきます。四つのうち、第二と第三はほぼ同じ内容ですので、以下三つに分けて進めます。
 
A. 私達に敵対できるものは?(31-32節)
 
 
31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
 
1.私達に関する救いの計画
 
 
31節は、「これらのことから・・・」と始まります。どんなことなのでしょうか。それは、先々回と先回に亘って学びましたように、18-30節までに述べられている、私達の救いに関する神のご計画のことです。何の価値も、取り柄もない私達に対して、神は尊い招きを下さり、罪を赦し、きよめ、性格を練り上げ、キリストが持っておられた麗しい品性に一致するほどまでに作り変えてくださいます。そしてキリストの弟分として、神の国の栄光と富とを受け継ぐ共同相続人にしてくださいました。これが本当に分かりますと、何があっても怖くはなくなります。矢でも鉄砲でも飛んで来い、という位腹の据わった人間になることが出来るのです。本当です。
 
2.私達には誰も敵対できない
 
 
(この部分は、先週お話しましたので、省略します。)
 
3.私達にすべてを与えて下さる
 
 
(この部分も、先週お話しましたので、省略します。)
 
B.私達を訴え、断罪するものは誰か?(33-34節)
 
 
33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。 34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
 
1.私達を訴え、断罪する者とは?
 
 
「神に選ばれた人々」、つまり、信仰によって救われた人々を、何らかの落ち度で訴えようとする者は沢山います。

その親玉はサタンです。彼はスキャンダルを見つけ出し、私達にそれを指摘して、落ち込ませることにかけては天才です。幾つか例を挙げましょう。

@ヨブ:ヨブが神を畏れた人生を歩んでいたときに、「あれはご利益を目的として信心をしているのだ。ご利益がなくなれば、神を呪うのが関の山だ。」と非難しました(ヨブ1:11)。

A大祭司ヨシュア:捕囚から帰り、神殿建築を指導していた大祭司ヨシュアに対して、サタンは「彼の服が汚れている(言い換えれば、彼の行動に道徳的問題がある)」と非難しました(ゼカリヤ3:1-5)。

人間、叩けば埃がでる、とはよく言ったものです。政治家などが目立つ場所に立つと、週刊誌は目を皿のようにしてスキャンダルを探します。不思議なように、何かが出てくるものなのですね。

皆さんの中には、明るく楽しい社会生活、家庭生活、教会生活を送ろうと思うと、「お前はあそこであんな失敗をしたどうにもならない人間だ。いつかはバラしてやるぞ」といった影の声に怯えてしまうという経験はないでしょうか。はっきりいって、そんな経験の全くない人はいないでしょう。それほど、私達はみな、罪深いものなのです。

残念なことに、粗探しの天才であるサタンには助手が大勢います。私達を非難する人々は多くの場合、気がついてはいないけれども、サタンの攻撃の片棒を担いでいるのです。非難している論点には真実が含まれている場合がありますから、私達は人から非難を受けたときには、反省し、イエスの血潮を仰いで赦していただく必要はあります。しかし、顧みて心に曇りがないのに失望・落胆に陥ったとすれば、それこそサタンの思う壺です。

一つだけ、気をつけねばならないのは、私達もサタンの助手になってはいけないということです。人に欠点を見つけた場合に、愛をもって、柔らかい言葉で、直接にそれを申し上げることは大切ですが、そうではなくて、当てこすり、皮肉、冗談ごかしの指摘などを通して、相手に立ち上がれないほどの傷を与えてしまうことがありえます。こうなると私達自身がサタンの手先になってしまいます。気をつけましょう。
 
2.義と認めなさる神 (絵図@参照)
 
 
さて私達が、たとえサタンの手厳しい訴えを受けたとしても、そして、それが私達の実態を表わすものであったとしても、私達はガタガタすることはありません。主キリストが私達のすべての罪を背負って十字架にかかり、「救いは完成された」(ヨハネ19:30)と勝利宣言をしてくださったのです。そして、「私は、もはや決して彼らの罪と不法を思い出すことはしない。」(ヘブル10:17)と約束してくださったのです。

マルチン・ルターが、その改革運動を進めていたとき、サタンが現れ、かれを訴えたそうです。「お前は、宗教改革者ぶって偉そうなことを言っているけれども、おれはお前の弱みを全部握っているんだぞ。お前は、嘘つきで、弱虫で、だらしがなくて・・・」とルターの欠点をリストアップしたのです。ルターは、そうだ、そうだ、お前の言うことはみんな本当だ、と頷きながら、最後に赤いインクで、それらに全部バツ印を書き込み、「イエス・キリストの血は、すべての罪から私達をきよめます」(1ヨハネ1:7)と書き込んだところ、サタンは尻尾を巻いて逃げていったそうです。

今日は聖餐式に与ります。新たに血潮を仰いで、すべての罪を赦し、きよめ給う恵みを信じましょう。
 
3.とりなし給うキリスト
 
 
私達を訴えから守るのは、義と認めるという神の宣告だけではありません。現在的に、私達を罪から守るように心を込めてとりなしの祈りをしてくださるキリストが守っていてくださいます。34節には「死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」へブル7:25にも、生きて、とりなし給うキリストの姿が描かれています。ヨハネもまた、活けるキリストのとりなしについて語っています。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。」(Tヨハネ2:1-2)

先々週に、私達は御霊のとりなしを学びました。イエス様も御霊と一緒に私達の魂のためにとりなしの祈りを捧げていてくださいます。イエス様が十字架にかかって、それで終わりだったならばどうでしょうか。私達の罪の身代わりとなってくださったらしい、ということは分かりますが、今ひとつ確信を持てない状態になってしまうでしょう。しかし事実は、主イエスは、死から甦り、天に昇り、父なる神の右の座について、私達のために祈っていてくださるのです。何を祈っておられるのでしょうか。御霊と同じように、私達の救いの完成のために、罪からの守りのために、と思います。というのは、ルカ22:31,32には、「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とペテロのために祈られました。この祈りが、ペテロのみならず、私達のための祈りでもあります。
 
C.私達をキリストの愛から引き離すものは?(35-39節)
 
 
35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。36「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
 
1.私達をキリストの愛から引き離すものはあるか?(絵図A参照)
 
 
このキリストの愛とは、私達が持っているキリストへの愛という意味ではなく、キリストが私達に持っておられる愛のことです。もし前者であれば、それは増したり減ったりする可能性はあります。しかし、キリストの私達への愛はどんなことがあっても変わらない誠実な愛です。その愛から私達を引き離すということは、全く考えられません。その不可能性を強調するために、二つのリストが使われています。
 
2.人が与える大きな苦しみもNO!
 
 
「患難ですか、苦しみですか迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」というのは、仮想的な質問ではなく、実際にパウロがその宣教師生涯で経験しているあらゆる苦しみを列挙したものです。もっと詳しい苦しみのリストがコリント人への手紙にあります。「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」(Uコリント11:23-29)そんな苦しみが大波のように押し寄せてくる毎日を送っていましたが、そんな苦しみは、パウロが持っていたキリストの愛に対して疑いをさしはさむ理由にはならない、と言っているのです。むしろ、その苦しみの中で、弱さに徹底し、その弱さの中でキリストの力を実感する、とも言っています。

さて、ここでパウロは、詩篇44:22の「だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。」という句を引用します。詩篇44篇は、イスラエルが諸国の餌食となり、世界中に離散してしまった苦境を主題にした歌ですが、正に、パウロはそれを自分の生涯にあてはめているのです。

私達に当てはめてみて、何が言えるでしょうか。私達の経験している苦しみは、多分、パウロのそれに比べると、ずっと小さなものでしょう。でも、神が私達を愛し給うという単純な事実を見失うと、神は愛のお方なのになぜ?と呟いてしまいます。しかし、もう一度、神のご計画のすばらしさに目を留めると、その呟きは空中分解してしまいます。
 
3.天的な大きな力もNO!
 
 
35節で述べられている苦しみのリストが、人間界から起きる大波のような問題と譬えると、38-39節のリストは、天の世界に起きる大風のような諸問題に譬えられます。38節の「御使い」から以下の項目は、全部天的な諸勢力を表しています。それは時間的にも、空間的も広がりを持って、私達を支配しているように見えます。特に、神に敵対する勢力は、私達に対する神の愛を疑わせ、私達と神との信頼関係に水を差そうとします。しかし、どんな画策も、神の救いのご計画には勝つことが出来ません。
 
4.圧倒的な勝利者に
 
 
パウロは、このような神の愛の大きさを確信して、「これらのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となる」と凱旋的な叫びをあげるのです。三つのフレーズに心を留めましょう。

「これらのすべてのことの中にあっても」:
これらの問題の外に出る、とは言っていません。問題課題、嵐や大波の真っ只中にあっても、との意味です。「すべて」という言葉にも注目しましょう。この問題は大丈夫だが、あの問題ではへたばってしまう、とも言っていません。あらゆる課題の真ん中にいても大丈夫という強い確信がこの言葉から伺えます。

「圧倒的な勝利者」:
余裕をもって勝つ(ヒペルニコーメン=ヒペルとは「より以上」という接頭語、ニカオーは勝つ)というのが原義です。やっと勝つのではなく、勝って、勝って、おつりが来るような勝ち方です。サッカーで言えば、2−1で勝つのも勝利ですが、そんな勝ち方ではなく、20−0位で勝つ勝ち方です。ゆとりの勝利です。

「愛してくださった方により」:
自分の頑張りで勝つのではありません。私達のために命を捨ててくださったキリストの愛に対する確信、活きて働き給う神への生きた信仰が、この確信を齎します。
 
終わりに
 
 
これから、聖餐式に臨みます。キリストの十字架に顕れた神の大いなる愛を、感謝と信仰とをもってしっかりと受け取らせていただこうではありませんか。
 
お祈りを致します。