プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2007年3月18日

天国の原理F
「放蕩息子の兄」

竿代 皓子牧師

中心聖句:ルカの福音書 15章29-30節

『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友達と楽しめといって、子山羊一匹下さったことがありません。

それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰ってきたこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふられなさったのですか。』   

該当箇所 ルカの福音書 15章25-32節

ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。

それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、

しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』

すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。

しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友達と楽しめといって、子山羊一匹下さったことがありません。

それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰ってきたこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふられなさったのですか。』 

父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。

だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』


A.29-30節から

みなさんこんにちは。今回とりあげている29-30節は、放蕩に身を持ち崩し父のもとに返ってきた弟を、最大の喜びと待遇をもって迎え入れた父に対しての言葉です。兄息子の父に対する抗議の内容を詳しく見ていきます。

1)まず、長年、父に仕えたと言っています。「仕える」と言う言葉は尊敬を払っているようにも聞こえますが、そこには奴隷根性が潜んでおります。また彼はその年月の長さを強調しているところから、心から喜んでしていたわけではないことが伺われます。

楽しいことをしている時、人は時間が短く感じられるものだからです。さらに彼は『ご覧なさい。私は・・・』と、抗議の言葉を始めています。これは彼の憤懣が非常に激しいものであったことを表しています。

2)次に、戒めを破ったことは一度もないと言っています。ここに主イエスのパリサイ人たちが主張している律法厳守主義に対してのメッセージがこめられています。

兄息子の言葉に表れているのは強い自負心−自己義の主張・私は正しいと言う意識−です。宗教的な戒律を間違いなく行っていることが彼の自分を正しいと主張する根拠でありました。

3)三番目に、

『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友達と楽しめといって、子山羊一匹下さったことがありません。

それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰ってきたこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふられなさったのですか。』 

と、29−30節にあるように、兄は怒っています。

品行方正な孝行息子の私には子山羊一匹も下さったことがない、しかし、あの放蕩なあなたの息子には肥えた最上のご馳走である子牛を料理したのですかという比較ですが、この考えの根底には、行いの正しい兄息子が一番大きな恵みを受けるべきで、放蕩息子である罪人が父の愛と赦しと恵みを受けるなどとはとんでもないという考えです。

兄にとって、父が弟息子に対して示した愛とあわれみがゆるせませんでした。弟息子は「徹底的に落ちぶれて滅んでしまうのが当然の報いである」と考えていたからです。それなのに父は弟をもう一度、息子として回復し−最上の着物、指輪、靴を与えたこと−受け入れたのですから、怒り心頭に達したのです。

B.私達へのメッセージ

では、この主イエスが語られた兄息子の譬えから、私たちに対するメッセージを学んでいきます。

a)ここでは、主イエスは兄息子をパリサイ人のたとえとして語っておられます。彼らは戒律を守ることが、神の愛顧と恵みを受ける道であると考え、律法を熱心に守りました。15章7節で主イエスが

悔い改める必要のない九十九人の正しい人 

と呼んでいる人々です。つまり自称義人の人々です。

この言い方の中に、主イエスのパリサイ人に対する批判が含まれています。善行、修行、献金、戒律の遵守などは悪いことではありません。むしろ尊敬すべきことです。

しかし、もし、人間の努力で神の恵みや憐れみ、赦しを得られるとなると、それをする力のない人たちは神の恵みを受けられないことになります。全人類に対する救いの恵みは、一部の人々に限定されてしまいます。これは神の御心ではありません。

テモテへの手紙第一2:4 神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられるのです。

とあるとおりです。

その恵みは弟息子の姿が教えています。「悔い改め」を通して、真の自分の姿(罪ある身)のまま、父なる神のもとに帰ってくること、赦しの十字架を信じる信仰によってのみ与えられるのです。

2)兄息子は自分の行いが正しいと考えていましたから、罪に身をゆだねた弟をさげすみました。裁いたのです。弟と呼ぼうともしませんでした。

ちなみに、弟をどう呼んだか覚えてますか?「あなたの息子」と言っています。

本当に冷たい言葉です。戒律遵守主義者の誘惑は、出来ない人々を裁き、自分たちをそれらの人々よりも高く置いて、高ぶってしまうのです。正にパリサイ人は罪人たちと一線を画し、決して交わろうとしませんでした。なぜでしょうか?

けがれないためです。ルカの福音書15章2節にありますが、主イエスに対して

…「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

とつぶやいています。

この呟きが、これら一連のたとえの発端になったのです。彼らは罪犯す人々には全く憐れみの心を持っておりませんでした。しかし、父なる神は罪人を救う為に御子を十字架に架けなさったのです。「罪の故に死んで、いなくなっていた弟が見つかったこと」を無常の喜びと思われる愛の神であるのです。

3)兄息子は父を愛していたのではなく、恐れていました。奴隷根性で父には何も言えずに、唯ひたすら父の機嫌を損ねないように仕えていたのです。

ここに悲劇があります。彼は父を本当に理解していなかったのです。

『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友達と楽しめといって、子山羊一匹下さったことがありません。

は、父に対する甚だしい誤解に基づいた言葉です。願えば下さる優しい父であることは弟息子に対する扱いで分かります。兄息子は父の愛の本質を理解していなかったのです。

彼は弟息子への寛容な愛ある態度を見た時、その恵みは掟を守る私にこそ下さるべきものだと叫んだのです。

罪人を許し、受け入れ、交わるイエス・キリストの態度に、律法学者たちが、許せない神の冒とくだと怒り心頭に達したのも無理もありません。自分たちの努力が無駄になるからです。

詩篇51編17節やヤコブの手紙4章6節にありますように、神は

神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたは、それをさげすまれません。

…「神は、高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

お方なのです。

C.おわりに

父なる神は、怒る兄をなだめ、私のものは全部お前のものだと言い、お前の弟と放蕩息子を呼んでとりなしておられます。

神は悔い改めた弟息子も、律法主義者の兄息子も平等に愛しておられるのです。この譬えから父としての限りない神の愛を感謝したいものです。お祈りいたします。


Message by Hiroko Saoshiro,paster of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.O./March18,2007