礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年3月25日
 
「前進の時」
年会合同礼拝
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竿代 照夫牧師
 
出エジプト記14章10-20節
 
 
[中心聖句]
 
 15  イスラエル人に前進するように言え
(出14:15)

 
はじめに
 
 
おはようございます。インマヌエル第62次年会合同礼拝の朝を迎えました。主にあってインマヌエルファミリーの参加を歓迎申し上げます。特に、北から南から、この日のために駆けつけてくださったお一人びとりに祝福を祈ります。

このような形で、主にある愛兄姉が一同に会し、心から主を賛美し、心を一つにして礼拝を捧げ、また、主にある家族として交わりを頂くこの時を感謝いたします。年会のあり方が変わるかもしれませんが、このような一体的な礼拝の場が何らかの形で継続することを期待いたします。

組織改革を超えての一年が終了:
昨年2月の17次総会において「組織改革」とそれに基づく新しい体制作りがなされてから、1年と2ヶ月が経過いたしました。組織改革の基本理念は、それぞれの部門がそれぞれの責任と創意工夫をもって、より積極的な方向付けを打ち出し、実践することを期待し、それを助ける仕組みを作ることでした。各部門とも創意と工夫をもって課題に取り組み、よき成果をあげておられることは感謝です。特に、青年の働き・営みが各地でうねりのように盛り上がっていることに、将来の希望を見出す思いです。

具体的な一歩を踏み出す必要:
群れのそのような段階を思い巡らしつつ、今年の年会のキーワードとして与えられた言葉は「前進」であります。各分野の働きが整えられ、具体的な目標に向かって、足を踏み出すべきときが来ているように感じます。

これを思い巡らしておりましたとき、与えられたのは、紅海を前にしたモーセに与えられた主の前進命令でありました。テキストは、出エジプト14:15「イスラエル人に前進するように言え」です。

 
[ 聖 書 ]
 
 
10 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。
11 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。
12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」
13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
14 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」
15 主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。
16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。
17 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとから入って来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現そう。
18 パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現すとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。」
19 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、
20 エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。それは真っ暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。

 
A.イスラエルの前進
 
 
この前進命令から、なぜ前進すべきなのか、三つの理由を学びたいと思います。
 
1.前進以外に道はないから
 
 
出エジプトの直後:
この物語の数日前に、イスラエルの民はエジプトを脱出しました。長い間の奴隷生活からやっと解放されて、しかもその脱出の時が突然に訪れたものですから、取るものも取り敢えず、という形での慌ただしい出発でした。解き放たれたことが夢なのか現実なのか分からないという状況で、ともかく塊となって出て来たものの、まだまだ烏合の衆と言う感じで、規律や秩序もままならない、群衆であったのです。

背後からはエジプト軍:
そこを背後から襲って来たのが、戦車に乗ったエジプト軍です。かれらは、優秀な奴隷を失った喪失感と、出エジプト直前にイスラエルの民から蒙った大きな災害に対する被害者意識とを持て今した。彼らは、イスラエルに仕返しをしてやろうと、闘志にみなぎった戦闘集団でした。勿論、戦車とは言っても、キャタピラのついた今日の戦車ではなく、馬に引かれた戦車の事です。それでも女性、子どもを抱え、家財道具も携えた何万と言う民がノロノロと動いて行くスピードとは比べ物になりません。グングンとその差は縮まって行きます。

正面は海:
イスラエルの民の正面は紅海(または葦の海)です。北端の海岸ですから、大海原というような感じではなかったと思いますが、それでも行く手を阻むには十分の深さを持った海が正面に横たわっていました。

戦闘の訓練もなし:
エジプト軍を迎え撃とうにも、長い間の奴隷生活の結果として、イスラエルの男性達には戦闘訓練が出来ていませんでした。満足な武器も持っていませんでした。これは、正に絶体絶命の窮地でありました。

前進しなければ滅びる:
もし、イスラエルの民がそのまま留まったとすれば、全滅するしかありません。彼らにとって「前進」はオプションの一つではなく、どうしてもなさねばならぬものだったのです。私達の群れも、主が示し給う道に向かって、足を動かして前進しなければなりません。そうでなければ、この地上に居る存在意義を失ってしまいます。
 
2.神の約束が与えられているから
 
 
人間の絶望が神のチャンス:
どうしても覚えたいことがあります。人間が行き詰まる時が神のチャンスであると言う真理です。人間にとって不可能なこと、それこそが神の可能なのです。ルカ18:27には「人にはできないことが、神にはできるのです。」と記されています。神は、海の中に道を設けると語られました。それを信じ、奇跡が起きることを先取りして、前進せよと語られたのです。無謀に見えるような前進です。溺れるための前進にも見えます。しかし、主は、この八方塞がりの危機にあってこそ、その力と栄光を顕わすチャンスと考えなさるお方です。

神の約束と保証:
「前進せよ」とは、隊伍を組んで、海岸線まで真っ直ぐ進めということです。敵を恐れてパニックになった歩みではなく。神の奇跡的なみ業によって海が乾いた道となることを信じての前進です。御使いが雲柱、火柱をもって導き、守り給うその見守りの中での前進です。神は、私達に「ただ進め進め」とかけ声を掛けるだけではなく、一緒にいて下さり、守って下さり、導いて下さる神です。ただ、神の約束と保証を信じて前進しましょう。

ここに至るまでも、イスラエルの民は何度も助けていただいたことでしょう。10の災いにおいて、特にエジプトの長子たちが殺された過越しの出来事で・・・。モーセは、それを知っていましたから、落ち着いて民を静めることが出来ました。
 
3.神の栄光を目的とした前進だから
 
 
危機は神が造り出された:
本当を言いますと、この困難な状況を作りだしなさったのは神ご自身です。神が出エジプトを導かれました。出エジプト後の道筋で、真っ直ぐ進まないで、一旦引き返すような道を導きなさったのも神ご自身です。1-3節を見ますと、わざわざ引き返して、イスラエルが道に迷っているという印象をエジプト人に与えようとされました。かてて加えて、そのエジプト人の心を頑なにし、イスラエル追跡をしようという気持ちを導かれました(9節)。つまり、万事神のシナリオ通りに進んでいたというのが、真実です。

目的は神の栄光のため:
このように、主が作り給うた危機を、主が乗り越えなさることを通して、神が栄光を取りなさるのです。「パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」(4節b)のであります。主が栄光を表わしなさるのは、危機の克服による場合が多いのです。その意味で、私達が危機に陥るとき、それは、神の栄光を表わすチャンスでもあります。Crisis is our chance to reveal God’s glory.です。31節にも「イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」と主の栄光が現れた様が記されています。

現在の「危機」も同じよう:
日本の社会も、その中にある教会も、容易ならない困難に閉じ込められています。しかし、そうであればある程、「今こそ主が事をなさる時」(詩篇 119:126)なのです。聖会第一夜で矢木良雄先生が「必ず私の望むことを成し遂げる」(イザヤ55:11)と語ってくださいました。この危機も神の摂理の中に起きていることであり、その危機を乗り越えることによって、神の栄光が現われる、という風に前向きに考えたいと思います。

呟かないで前進:
イスラエルの民は、呟くな、神により頼め、と勧められています。おお、なんと私達は呟きの多いものでありましょうか。イスラエルも呟きの天才でした。10節以下を見てみましょう。「イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。『エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。「私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。」事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。』」ここまで指導者の動機を曲げて解釈できるものかと、人間の悪知恵に感心させられます。しかし呟きは、何の生産的効果をも齎しません。呟きは真実な人々の志気を挫き、全体を滅ぼす以外の効果を生みません。呟くのではなく、神の善と神の力を信じて黙って進みたいと思います。

神は、「何故叫ぶのか」とモーセに問われました。咎めておられるのではないのです。モーセよ、あなたの祈りは聞き届けたよ、今は叫んでいるときではなく、民に進軍命令を出しなさい、と命じられました。実際、モーセの叫びは、記録されていません。或いは声無き叫びであったかも知れません。しかし、主はこれに耳を傾け給います。私達の溜息、涙、願望も、言葉の祈りと同じく神には届けられます。主は、それらを聞き届けなさった後で、もう祈りは既に聞かれたのだから、と仰り、前進を命令なさるのです。何時までも、助けて下さい、と祈り続けるのではなく、祈りが抜ける、ああ、もう答えられた、大丈夫と立ち上がり、前進をするときがあります。子どもを求めていたハンナが、祈りの答えを確信したとき、もうその顔は悲しそうではなかったのです。

 
B.私達の「前進」
 
 
私達は第62次年会を超えて、前進しようとしています。どこに向かって、どう前進すべきなのでしょうか。私達の歩みは、無目的な彷徨ではいけません。Purpose Driven Life という本の中で、著者のリック・ウォレンはいっています。「私達は神によって造られたのだから、その創造の目的があるはずだ、と。それをしっかりと見極め、それに向かって進む個人、そしてその集まりである教会が、主の祝福を受ける。」と。主が教会にお与えになった明確な目的とは何でしょうか。
 
1.救いの完成に向かって
 
 
個人の救いの完成:
パウロはピリピ人クリスチャンに向かって「恐れおののいて自分の救いを達成してください。」(ピリピ2:12)と勧めています。そして、自分自身をその外に置かないで、「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(同3:13,14)と同じ目標のためにひたすら前進していることを告白しています。

真のきよめの輝きを!:
今日の世界が求めているのは、主の聖めを頂いて、それがキリストらしさの品性となって顕れるキリスト者の存在です。インマヌエルのメッセージは聖と宣でありますが、その聖めが麗しい香りとなってこの世に輝くよう祈り、恵みを求めつつ精進したいと思います。パウロでさえも、未だ完成されていない、と告白しているのですから、まして私達は真剣に祈り求めましょう。聖会第二夜で田中進先生が「わしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と愛の実践を語ってくださいました。特に私達が今求められているのは真の兄弟愛です。愛の溢れた群れとなることです。
 
2.救霊を目指して
 
 
一人ひとりの救い:
「何とかして幾人かでも救うため」(Tコリント9:22):教会に与えられた主の大命令は宣教です。世界に出ていって、あらゆる人々をキリストに従う弟子にすることです。私達が、日本社会を一気にひっくり返すような大きな逆転劇を一夜にして起こすことは難しいかも知れません。でもひとりひとりの魂を掘り起こすことによって、その素地を作ることは出来ます。今年もどなたかの救いのために焦点を絞って祈り始めましょう。主の恵と救いを分かつ機会を祈り求めましょう。色々な活動が教会にはありますが、どんな活動も、「魂の救いのために」という一点に集約して進めたいものです。

日本の救い:
「彼らが救われること・・・」(ローマ10:1)パウロは、異邦人伝道のために力を傾けましたが、同胞の救いが彼の切なる祈りであり、異邦人伝道の動機でもあったのです。私達は日本の救いのためにどれだけ信仰を持って、涙を持って祈っているでしょうか。私は昨2月にシアトルのRJC(日本をキリストへ)大会にお招きを頂いて出席し、講演をさせていただきました。色々な感想がありますが、短くいいますと、日本人に縁もゆかりも無い人々が、この硬い土壌を持つ日本の救いのために真剣に祈っていてくださる姿です。私は本当に心熱くなり、同時に恥ずかしくなりました。私の祈りと労が、彼ら以下であってはならないと。

世界宣教:
「聖名が語られていないところに福音を・・・」(ローマ15:20)目の前に居る一人の魂の救いのために祈り、労すると共に、私達は「地の果てまでの福音の宣証」という大きなテーマを失ってはなりません。感謝なことに、今年、一年間ブランクであったジャマイカに再び宣教師を送り、また、カンボジアにも新たに短期奉仕者を送ることが出来ます。世界宣教のために祈り、貢献する群れでありたいと思います。
 
3.主の共同体の形成を目指して
 
 
連帯と成長:
「からだ全体は、・・・あらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられる・・・」(エペソ4:16):教会に与えられたもう一つの命令は、魂の養いとキリストのみ形への成長です。エペソ書には、キリストの体である教会が連帯によって成長すべきことが明確に示されています。様々な分野での、様々な形での「連帯」前進するように主は期待しておられます。

青年達の連帯、壮年部も女性部も連帯、教会同士、信徒と牧師の連帯・・・:
青年達の連帯が8月の「中高生キャンプ(とにキャン)」、また、来年8月の「全国青年大会」という形で具体化しようとしています。今まで、地道な地ならしがなされてきましたが、このような形で開花しようとしています。かつての青年、かつての中高生の方々も、ぜひとも、次代を担う青年の働きのために、力を尽くして祈り、精一杯の支援をしていただきたいと思います。壮年部も女性部もそれぞれ前進しています。教会同士の連帯も進んでいます。信徒と牧師の連帯ももっと強力に効果的になされることが期待されています。信徒同士の連帯も今より一層強化されることによって、教会が成長することが期待されます。

 
終わりに
 
 
15 イスラエル人に前進するように言え               _
 
モーセへの「前進命令」の意義を考えよう:
もう一度、モーセに与えられた「前進命令」の重さと意義を思い巡らしましょう。現状に留まってはなりません。まして、エジプトに向かって後ずさりしてはなりません。主が示し給うカナンの地を目標に前進しましょう。

「私」のなすべき第一歩を踏み出そう:
モーセへの命令を、私達の今の状況に当てはめましょう。それは、身近な方のために一層祈ることであるかもしれません。同じクリスチャンとの連帯を深めることであるかもしれません。何であったとしても、主が示してくださった、なすべき一歩を踏み出しましょう。主は私達が一歩を踏み出すとき、道を開き、共に居て励ましてくださるお方です。

 
お祈りを致します。

 
天の父なる神様。あなたは、イスラエルの民を羊の群れのように導き、荒海を二つに分け、すべての民の前で栄光を表わしてくださいました。同じ栄光を表わそうと、私達にたいして、前進せよと命令を与えて下さることを感謝します。前途は決して容易ではありませんが、あなたのお約束を信じ、進んで参ります。お約束のように私達とともにあり、力付けを与え、道を示し続けてください。これから始まる年会年度ですが、あらゆる分野で、前進が見られ、あなたの栄光が表わされますように、私達がそのための器として用いられますようにお祈りいたします。ここにおられる兄姉の心からの祈りとともに、この祈りをお捧げ致します。

アーメン。