礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年4月1日
 
「悲しみの人、イエス」
受難週に入って
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書53章1-6節
 
 
[中心聖句]
 
 3  彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
(イザヤ53章3節)

 
聖書テキスト
 
 
1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。 2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。 3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
 
始めに
 
 
1.今年の受難週を迎えました。今から2千年前のこの一週間、主イエスは、地上における最後の一週間を過ごされました。主イエスの生涯を記した4つの福音書の、実に3分の1以上の記録がこの一週間に集中している点から見ても、この受難週の意義の大きさが分かると思います。この週の出来事を以下の表にしましたので、ご覧ください。そしてこの一週間、主のみ足の跡を辿りつつ、敬虔な思いをもって時を過ごしましょう。

受難週の出来事
1日(日) エルサレムへロバに乗って入場
2日(月) 実のない無花果の呪い、宮聖め
3日(火) 多くの論争
終末についての預言
4日(水) ベタニヤでの休息とマリヤの塗油
5日(木) 最後の晩餐
ゲッセマネの祈り
捕縛
深夜の裁判、ペテロの裏切り
6日(金) 早朝の裁判
十字架刑
死と埋葬
8日(日) 復活と顕現

2.今日は、苦難を受ける救い主を予言したイザヤ53章から、それも章全体ではなく、前半の一文節(1-6節)を取り上げ、さらに、3節の「悲しみの人」としての救い主に焦点を合わせてお話しします。
 
A.「主の僕(しもべ)」は、見栄えのしない人物
 
1.主のしもべとは:神の使命を帯び、それを実行すべく力と権威を与えられた人
 
 
イザヤ書後半部分に特徴ある人物として紹介されているのが「主のしもべ」です。神の使命を帯び、それを実行すべく神の力と権威を与えられた人間が「主のしもべ」という呼称で登場します。52:13の「見よ、私のしもべはさかえる・・・」から、53章全体は、主のしもべの紹介文のクライマックスにあり、主のしもべが、その苦難を通して救いを成し遂げることが予言されています。その予言は、実に数百年を経てイエスにおいて成就しました。
 
2.主のしもべの特徴
 
 
さて、1-6節までのしもべの姿から、以下のポイントが浮かんでまいります。

余りにも平凡
イザヤは、主のしもべについての幻を、神から示されたまま記します。彼の人間的な評価基準からは、信じがたいほどのみすぼらしさがそこにありました。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。」とその信じがたい有様を告白します。主のしもべは、平凡な生い立ちをしました。「2節 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」彼のルックスも誠に平凡で、これといった魅力は何一つ備えていませんでした。

余りにもみじめ
今日で言えば、いじめられっこの典型です。「3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」ここで紹介される人物は、人々の支持を失い、悲しみを生涯の特色とした人であり、肉体と精神の悩みを彼の経験の一部としていました。イザヤは、一般人の理解に立って、私達も彼を尊ばなかった、と痛恨を込めて述懐します。
 
3.その苦しみは「身代わりのため」であった!
 
 
4節に至って、この人物の苦難は私達の罪の身代わりであることを発見します。「4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」この「まことに」という言葉の中に、神の啓示に触れた者としての、愕然たる様を現しています。

それまで預言者は、しもべが自分の罪の為に苦しんでいるという因果応報的な観念でしか彼を見られなかったのです。しもべを外見で蔑視していたのです。しかし、しもべの近くに寄って観察すると、彼の苦難は私達の「病を負い」「痛みを担い」、そむきの罪のため、咎のためだったと発見します。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とは預言者がしもべの受難を自分のためとして捉える一体的な信仰(自分と主のしもべを一体として捉える信仰)を物語ります。

それから、背きの罪からの救いという風に思想が発展します。「6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」私達は皆、羊のように牧者なる主から離れて、自分勝手な人生の道を歩きました。神よりの離反、自己中心、これが罪の本質です。正しい道からの逸脱(この場合の「咎」ヘブル語のアウォンとは道からの逸脱)の責任が、主のしもべの上に乗せられました。そこで贖いが完成したのです。
 
B.悲しみの人
 
1.痛みを知る人
 
 
「悲しみ」とは、直訳すると「痛み」(マコボテ=sorrows)です。マコーブということばは、カーアブ(痛くなる)という動詞から来た言葉で、肉体的または精神的な痛みのことです。聖書に使われているのは、精神的苦痛の例の方が多いのです。例えば、出エジプト3:7は「彼らの痛みを知っている。」と言って、イスラエルの民の奴隷状態の苦しみを神が知っているよ、と声をかけなさったのです。詩篇32:10には、「悪者には心の痛みが多い。」とあります。

ですから、「痛みの人」とは、痛みに敏感な人との意味です。実際、主イエスは完全な人間性を持っておられ、痛いものは痛いという感覚をお持ちでした。十字架にかかり、悶絶するほどの苦痛を経験なさいました。スーパーマンのように、苦痛を苦痛とも思わぬ人ではなく、本当に死ぬほど痛かったのです。それと同時に、その苦痛を通して、私達の悲しみ、痛みに対しても、私は同じような痛みを経験したよ、と理解を下さる救い主です。
 
2.弱さへの同情的理解
 
 
「病」と訳されている言葉は、カリー(chalii&ltchalah=to be weak, sick)と言い、第一義的には肉体的弱さのことです。ただ、象徴的にすべての患難をもさす場合もあります。「病を知る」とは、彼自身が弱いとか病気である、というよりも「病に対して同情的理解がある、親近感がある」という意味です。私達の弱さを本当に、経験的に知り給うお方となるために、ご自分も弱さの中に身を置きなさったのです。
 
C.「しもべ予言」そのままの主イエス
 
1.いつも悲しい顔をしておられたのではない
 
 
主イエスは、人間の悲しみの思いを良くご存知の方ではあられましたが、だからといって、いつも伏し目勝ちに下を向いて、悲しそうな顔で人生を歩んでおられたわけではありません。むしろ、大いに人生を楽しんでおられた様子が福音書のあちこちに見られます。

例を挙げましょう。「ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。『私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。』イエスは彼らに言われた。『花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。』」(マタイ9:14-15)イエス様と弟子達は、丁度花婿がその友達と楽しくお祝いしているような雰囲気であったことが伺えます。

「人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。」(ルカ7:34)イエス様は、その仲間達と楽しく飲食をなさった様子がよく分かります。修道院のお食事のように、黙々と前にあるものを平らげるのではなく、食事の時間を心から楽しみ、語り合っておられる姿が彷彿として浮かんで参ります。余分なコメントですが、日本人の食事時間は短すぎるということを外国に行くと感じます。食事の時間は栄養補給時間ではなく、交わりの時間なのです。大切にしたいものです。
 
2.人の悲しみを深く理解しておられた
 
 
主イエスが「悲しみの人」「痛みの人」である、と言う意味は、神としてのご性質を持っておられましたが、同時に人間としての性質を持ち、私達の弱さや苦しさを経験して、理解してくださる方でもありました。「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:18)「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)同じ目線で物を見、同じ肉体で苦しみや痛みを経験されたものだけが、私達を理解し、励ましてくださいます。子どもを亡くして悲嘆にくれている母親に、私も子どもを亡くしました、という一言が、どんなに大きな励ましとなることでしょうか。

イエス様の柔らかい心が一番良く表わされているのが、「イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:35)という言葉です。英語では、聖書の中で一番短い節(たった2語でJesus wept)として有名です。イエスが格別に愛しなさった家族の一人であるラザロが死に、お墓にいき、嘆いている家族を見たときに、もらい泣きなさったのです。罪の結果としての死という現実にぶつかって怒り、悲しみなさったという注釈を読んだことがありますが、私は単純にもらい泣きをなさったのでは、と思います。もらい泣きというのは、その魂が柔らかくて、感じやすい方である徴と思います。
 
3. 悲しみの源である罪を身に負いなさった
 
 
主イエスは、悲しみを理解するだけではなく、その悲しみ・病の大元である罪を自分の身に引き受けて、背負ってくださいました。イエスは、癒しの業を沢山なさいましたが、それは身を削るようなエネルギーで、他人の病を身に負うことによって可能となったのです。自分の魂にも肉体にも何の影響も受けないで、神通力みたいなもので、エイヤッと直して、自分は涼しげに澄ましておられたのではありません。その様子が記されているのが、マタイの記事です。「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」(マタイ8:16-17)何という救い主でしょう。賛美歌の中に、Man of sorrows, what a name! という歌があります。
 
”Man of sorrows”- what a name, For the Son of God, who came, Ruined sinners to reclaim. Hallelujah! What a Savior
(悲しみの人、それは何という名前でしょう。損なわれた罪人を回復するためにお出でくださった神の御子に対するお名前としては。ハレルヤ!すばらしい救い主)
 
そして、その悲しみ、痛み、病のすべてを最終的に担われたのは十字架の上でした。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(Tペテロ2:22-25)
 
終わりに
 
1.私達の悲しみと痛みのすべてを主に委ねよう
 
 
私達のすべての悲しみと痛みを負ってくださった救い主、今も背負ってくださる主に、すべてを委ねましょう。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Tペテロ5:7)とあるとおりです。
 
2.私達も、他人の悲しみと痛みの分かる人間となろう
 
 
主が「悲しみの分かる人」となって、私達の重荷を背負ってくださったように、私達も、他人の悲しみや痛みの分かる人間となりたいと思います。能登地震のニュースがありました。テレビで見たからといって、本当にそこで苦しんでいる人の痛みが分かるわけではありません。でも僅かでも私達の財布を痛めることで、彼らの痛みの何万分の一でも共有することは出来ます。

私達の周りの人々に対しても、このような理解と同情の思いをもって見ることは大切です。私達が理解に苦しむような変わった人が周りにいるかもしれません。でもすべての場合、人がこのような行動をするには、それなりの理由というものがあります。全部は分からなくても、その人を理解しようという心の大きさと柔らかさを絶えずもち続けたいものです。
 
お祈りを致します。