礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年4月8日
 
「本当に、主は甦り・・・」
復活節に臨んで
 
竿代 照夫牧師
 
ルカ福音書24章28-43節
 
 
[中心聖句]
 
 3  ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。
(ルカ24章34節)

 
聖書テキスト
 
 
28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
 
はじめに
 
 
イースターとは、今から2千年前、私達の罪の身代わりとなって十字架にかかり、死んで墓に入れられた主イエスが、その三日後に生き返られことを記念する日であります。そんな馬鹿なことがあるのか、と多くの人はお考えかもしれません。でも聖書は、それが間違うはずのない事実であり、キリスト教の中心的信仰であると主張しており、私もそのように信じています。私達クリスチャンが何故、日曜日に礼拝を守っているかというと、キリストが甦られたのが週の初めの日、日曜日であったからであり、その日を記念して弟子達が集まる習慣が始まり、そして世界に広がっていったからなのです。日曜日はその意味では復活記念日なのです。私達は毎日曜、復活を記念して集まってくるのです。その日曜日の中でも、今日のイースターが一年で一番大切な日曜日であります。
 
A.イースターの出来事
 
1.イエスの十字架
 
 
・十字架にかけられる(今年でいえば4月6日、金曜日の朝9時)
・息を引き取られる(同日午後3時)
・アリマタヤのヨセフの墓に急いで葬られる(同日夕刻前に)
・墓に封印がされ、番兵が置かれる
 
2.復活の日(今年でいえば4月8日、日曜日)
 
 
・未明に復活をされる、地震とともに墓石が転び去る
・香料を塗りに来た女性達が、空虚な墓を発見、復活の使信を受ける
・マグダラのマリヤ、復活の主に出会う@
・他の女性達も、復活の主に出会うA
・午後、クレオパと他の弟子がエマオへの道で主に出会うB
・ペテロ、主に出会うD
・夕、10弟子が主に出会うE
 
3.復活日以降
 
 
・一週後の日曜夕、11弟子に主が現れるF
・暫く後、ガリラヤの岸辺で7弟子に現れるG
・ガリラヤの山で、500人以上の弟子達にH
・イエスの弟ヤコブに個人的に現れるI
・復活後40日目、エルサレム郊外オリブ山で、約120名の弟子達に顕現J、そして昇天

このように、復活の主は、色々な場所、色々なグループ、そして色々な時間に顕現されました。それは、主が本当に復活されたということを証拠づけるためでした。さらに、その復活の事実を証する手紙が早くから書かれ、回覧されていました。復活が荒唐無稽なでっち上げ立ったならば、こんな手紙が書ける訳がありません。
 
B.ペテロへの顕現
 
1.第一コリント書にも記録
 
 
今日は、その多くの顕現のうち、ペテロへの個人的な表れを取り上げます。これは、今日のテキストであるルカ福音書だけではなく、キリストの十字架の出来事から25年後に書かれたコリント人への手紙第一にも記されています。その前後も含めて引用します。「3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。」(Tコリント15:3−7) 
 
2.何故ペテロに?
 
 
他の顕現とは違って、ペテロへの現れは、その詳細が記録されていません。しかし、とても大切だったことが示唆されています。というのは、ペテロは、イエスが十字架にかかる直前、イエスを知らないと3度も否認した大失敗をしてしまったからです。主は、この落ち込んでいる愛弟子を励まそうと、個人的に現れてくださったものと思われます。
 
C.復活の確かさと喜び
 
 
ペテロは、その出来事を他の弟子達にも喜びをもって知らせました。その弟子達が、二人に対して語った言葉が、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」です。この聖句から3つのことを汲み取って、私達への励ましと受け取りたいと思います。
 
1.主の甦りの事実性
 
 
「本当に」(オントース)という言葉はとても強い言葉です。23:47には、十字架の目撃者であった百人隊長が「本当にこの人は正しい方だった」と言った、その「本当」と同じ言葉です。夢でもなく、幻でもなく、また、単なる「精神的な復活」でもなく、事実的な、肉体的な復活を聖書は主張します。そんなことが科学的に説明できるのか否か、聖書は一つも解明していません。少なくとも、イエスの死が不完全であって、ただ、気を失っていたのが蘇生したのだという可能性はゼロです。十字架の死とは、何かの発作で仮死状態になり、心臓マッサージか何かで蘇生するというような現象との類似性を許さないものです。両手両足を釘付けにして、宙吊りにし、数時間暑さと渇きと激痛に苦しんだ肉体が、仮死程度で終わるわけがありません。昨年BBCの特集で、イエスの奇跡と復活とを疑うという視点から、あらゆる可能性を現地取材した番組がありました。疑いから出発していましたが、結論は、聖書の記述はそのまま受け入れるほかはないというものでした。ペテロはそれを立証し、それを聞いた弟子達もそれを受け入れました。他の女性達もそれをサポートしました。
 
2.主の甦りは、喜びを齎した
 
 
この物語り全体を貫くスピリットは、喜びです。ペテロは勿論興奮していましたし、エマオへの道でイエスに出会った2人の弟子は、この喜ばしいニュースを仲間に伝えるために、約10キロの道を走ってエルサレムに戻りました。彼らが話し合っている真っ最中に、もう一度イエスはご自分を現しなさったのですが、彼らは余り嬉しくて、それが現実であることを信じられなかったほどだった、というのです(41節)。
 
3.復活の証人として世界へ
 
 
弟子達が経験した喜び、復活の事実への確信が、弟子達を世界宣教へと押し出すエネルギーとなりました。殆どのものが無学で、貧しく、臆病で、しかも自分の今年か考えられないような弟子達、世界の中心からいえば片田舎のガリラヤ出身の漁師たちを中核にした一握りの弟子達が、あらゆる迫害、非難、攻撃を乗り越えて世界に向かっていった唯一つの動機付けは、イエスが甦った、救い主となってくださった、今も生きて助けていてくださるというすばらしいメッセージへの確信でした。ルカ24:46-48で、主イエスは「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。 あなたがたは、これらのことの証人です。」と、証人としての宣教を示唆しておられます。同様なことが使徒たち自身にも自覚されていました。12使徒の一人、イスカリオテ・ユダが欠員となったとき、ペテロはそれを補充するために、こういいました。「ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」(使徒1:22)と。そして、実際、説教活動が始まったとき、ペテロは、復活の事実を前面に出しました。「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(使徒2:32)

この他にも多くの引用が出来ますが省略します。復活が幻想であったり、妄想であったり、単なる「精神的なもの」だけだったとすれば、そんな幻想のために誰が命を賭けるでしょうか。復活こそ、弟子たちの喜びと力の原動力でした。

私達は復活の出来事をこの肉眼で見たわけではありません。しかし、私達は100%の確かさをもってこう証しできます。次に紹介する歌は賛美歌438です。この歌を、本当にそうだ、といういう頷きをもって歌いましょう。
 
He lives, He lives, Christ Jesus lives today.
(キリストは今も生き給う)
He walks with me and talks with me along life’s narrow way.
(主は、人生の細き道を通して私と共に歩み、私に語り掛け給う)
He lives, He lives, salvation to impart.
(主は救いを与える為に生き給う)
You ask me, “How I know He lives?”
(主は生き給う、とどうして分かるのか?)
He lives within my heart.
(主は私の心に生き給う)
 
終わりに
 
 
1.主が甦り、今も生き、信じるものの心に働き給うお方であることを感謝しましょう。

2.私達は、復活の証人として、主は本当に甦って、私に現れてくださった、と証する証人となりましょう。
 
お祈りを致します。