礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年4月15日
 
「死の向こうにあるもの」
召天者記念礼拝
 
竿代 照夫牧師
 
ルカ福音書16章19-31節
 
 
[中心聖句]
 
 3  この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。
(ルカ16章22節)

 
聖書テキスト
 
 
19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。22 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。24 彼は叫んで言った。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」25 アブラハムは言った。「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」27 彼は言った。「父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」29 しかしアブラハムは言った。「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。」30 彼は言った。「いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。」31 アブラハムは彼に言った。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」
 
はじめに
 
 
今年も、私達の主キリストが復活された日を記念するイースターを昨週お祝いし、そして今日は、召天者記念礼拝を迎えました。この教会のメンバーとして信仰生活を一緒に送り、今は天国の憩いに入られた方々は、過去30年だけでも203名に上ります。その前の30年も入れると4百人近くになります。今日は、それらの方々のありし日を偲び、彼らの足跡から私達への教訓を学び、さらに、私達も再会の日を待ち望みつつそれに備える日であります。

そのような日でありますので、今日は聖書の示す死生観について、その一端をお話しします。死の先の世界については、色々な見解があります。

「何もない」:
極端な唯物論者は、そんなものは全くない、と言います。私の高校・大学を通じての友人がおり、いまでも文通している男が居りますが、彼は単純に、人間は有機物としての活動が終われば無機物に変化し、何にもなくなる、魂とか霊という存在は認めない、という考えです。

「分からない」:
ある人々は、死後の世界は分からない、と言います。これは一番便利のように見えますが、頼りない意見です。

「違う命に生まれ変わる」:
ある人々は、人間の魂はその存在を別な形に変えて流転しながら生き続けると考えます。「千の風になり」という歌が大ヒットしていますが、恐らくこうした考えが大衆には受けるのではないかと思われます。

「今の世から連続している」:
聖書は何といっているでしょうか。聖書ははっきりと、死の向こうに生きる魂の世界があることを示しています。しかも、その世界こそが本当の意味で生きる世界であり、今の世はその準備段階なのだと語ります。その意味では、この世は、それ自体で生きがいがあるものであるばかりでなく、次の世に続く心備えという意味でも大切です。
 
A.死ぬ前の「金持ちとラザロ」
 
 
その聖書の死生観を示す一つの記事を今日は取り上げます。それは、主イエスが語られた「金持ちとラザロ」という物語です。これは、たとえ話の形式を取ってはいますが、主イエスの時代に起きた実際の話を土台にしたものと考えられます。ですから、死後の世界についての多くの示唆が伺われます。

先ず、物語りからはじめます。
 
1.金持ちの生活態度
 
 
贅沢:
「19 ある金持ちがいた(どうも本当の話しだったらしい)。いつも紫の衣(沢山の貝をすりつぶして染料とした、その紫は、貴重なものであって、特別なお洒落着であったが、彼はそれを普段に着ていた)や細布(高価な柔らかい下着)を着て」

快楽主義:
「毎日ぜいたく(物を余しながら)に遊び(何の生産的な活動もせずに)暮らしていた。」

自己中心:
門前にいた乞食のラザロのことは、名前も顔も、その貧しさも認識していましたが、何の痛痒も感じないほど、自分のことしか考えませんでした。全くの自己虫です。

金持ちであることはそれ自体悪いことではありませんが、金に溺れて、神を恐れず、他の人をも顧みない生活態度は首を傾げざるをえません。現代の日本でもブランドものを着、飽食の中で資源とエネルギーを不必要に使っている生活の無駄を見ると、この金持ちと二重写しに思えてなりません。
 
2.ラザロの生活
 
 
次に紹介されるのがラザロという乞食です。当時、実際に存在した人物のようで、それで名前をわざわざ紹介なさったのでしょう。

病気:
「20 ところが、その門前にラザロという全身おでき(栄養が充分でないために、僅かの皮膚病にも打ち勝つ力が無かったのだろう)の貧乏人が寝ていて」

貧しさ:
「21 金持ちの食卓から落ちる物(残飯)で腹を満たしたいと思っていた(実際に残飯は沢山あったのだろうが、飢えたる人に分けようという配慮はなかったから、ある時はラザロの胃袋に入り、或時には入らずといった具合だったのだろう)。」

孤独:
「犬もやって来ては、彼のおできをなめていた(彼の友達は犬しかなかった。何と寂しい人生だろうか)。」

神の助け(ラザロの意味)への依頼:
さらに想像をたくましくしますならば、彼はその孤独、貧乏、病気、無力さの故に、神の助けをひたすら頼る信仰を持ったと考えられます。彼の名前の意味は、エレアザル(神の助け)だったからです。
 
B.死んだ後の「ラザロと金持ち」
 
1.ラザロの慰め
 
 
報い:
「22a さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによって(彼の信仰がこの様な形で報われたのだろう)アブラハムのふところ(ユダヤ人の祖先で、その懐というのは、最高の慰め、光栄であった。食事の席で一番の上席が懐だったのである。)に連れて行かれた。」

慰め:
ラザロは、信仰の父アブラハムによって、その信仰を愛でられ、生前受けていた苦しみに勝る慰めを得ました。アブラハムの懐はパラダイスとも呼ばれ、最終的な死後の至福を表わす天国の待合所の様なところと見ることができます。

憩い:
そこは、静かな憩いの場所でもありました。聖書は、クリスチャンが死後安息の状態に入り、キリストの再臨の時に復活して、彼と共に世を治め、永遠の喜びと報いの中に入ると記しています。でもその最終的な天国の前段階でも豊かな恵みが注がれている事をこの物語は示しています。
 
2.金持ちの苦しみ
 
 
死と埋葬:
「22b 金持ちも死んで葬られた(多分盛大な葬儀が営まれ、日本流に言えば、多くの花輪が備えられ、立派な霊柩車が用意され、大きな墓が作られたことであろう。しかし、彼の行った場所は?)」

ハデス(暗闇の世界)での苦しみ:
「23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら(ハデスとは、死者の入る暗闇の世界で、悪しき者のその罪の故に苦しむ世界である。この苦しみもただならないが、聖書の教えでは、これとても最終的な審判とその先に待っている地獄の待合所程度なのである。)」

ラザロへの羨望:
「目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた(死後の世界が何の感覚も精神活動も停止してしまうものではなく、魂が存在し、知的な活動を続けることが示唆されている。しかも、そのふところにラザロが見えた。)」

アブラハムへのリクエスト:
「24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』」(彼は、自分の受けている苦しみの当然さを知っていたかのようである。そこから出してくれとも、苦しみをやめてくれとも言わず、ただハンブルに水を、しかも指先の湿し程度でもと乞うたのである。)
 
3.アブラハムの返答
 
 
人生は逆転する:
「25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。(今の人生が逆転するという単純な事ではなさそうである。アブラハムは、金持ちが生きていたときの傲慢な、非情な生活態度を非難し、ラザロの信仰を賞賛したと思われる)」

越えがたい淵:
「26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』」(見えるのに越えられない淵、壁、ギャップ、割れ目。それは、どうしても越えられない淵なのだ。でも今ならば越えられる淵であることを覚えたい。下流では絶対に渡れない利根川でも、上流の小川の時はジャンプすれば渡れる。現世とは小川のようなもの、来世とは利根川のようなものなのだ。死者の為に祈る、冥福を祈るとは、遺族にとって心の慰めにはなる思想だが、聖書は死後の救いの機会を語っていない。)
 
4.金持ちの再度のリクエストとアブラハムの答え
 
 
「ラザロを兄弟に派遣して!」→「聖書の教えで充分」:
「27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』」(あきらめの良さ、しかし兄弟に対する思いやりは素晴しい)→「29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者(聖書の教えが、本の形でもあるし、それを語る預言者も存在している。それで充分である。)があります。その言うことを聞くべきです。』」

「ラザロを復活させれば効果的」→「聞く人の素直さが問題」:
「30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』」(この世界を正確に描写する人間が死者の復活という形で伝道したら効果的だ、と伝道の方法論まで示唆した。)→「31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

実際、キリストは死者の中からよみがえり、永遠の命のあることを宣言されました。しかし、心が曲がっていて受け入れようとしない人々は、それでも受け入れませんでした。要は、聞く人の素直さの問題なのです。神の言葉である聖書の宣言を真直ぐに提示することが私の勤めなのですが、それを取りなさるか否かは皆さんの問題です。ただ、一人一人がその結果について責任を取ること、それは厳粛な結果を生むことだけは、付け加えたいと思います。
 
C.死の向こうの世界
 
1.それは逆転の世界
 
 
今の状況が、すべてではないにせよ、逆転するのが次の世界です。現在の世は、悪しき者が栄え、善なるものが苦しめられる、誠に矛盾に満ちた世界です。しかし、死の向こうの世界では、すべてのことが清算され、報いが与えられ、正当な評価に基づく立場が与えられます。
 
2.それは慰めと静謐の世界
 
 
現在の世界は、忙しく、心配が多く、人と人との摩擦も多く、やりきれないことの連続であります。しかし、かの世では、活動が終わり、神の懐に憩い、静かに憩うときが与えられます。越山勧士も、そして多くの聖徒たちも、今その憩いにあることでしょう。
 
3.それは人格的な交わりの深まる世界
 
 
死の向こうの世界は、静かですが、不活動の世界ではありません。今までになかった、お互いの交わりが深められる世界です。越山さんも、蔦田先生と握手しておられることでしょう。お母さんと再会されたことでしょう。それらの心温まる交わり以上に、愛するイエス様と顔と顔を合わせて相見える栄光の世界です。
 
4.今生きている私達と繋がっている世界
 
 
先に向こうの世界に行った人々は、その過ちについては、私達がそれを繰り返さないようにと願っています。その幸いについては、私達がその幸いに繋がるように願っています。こちらの側から言いますと、私達の今の人生は、先にあの世に行った人々の期待に応える人生として生きているのです。その意味で、この世とあの世は繋がっています。
 
終りに
 
1.召天者の声なき声に耳を傾けよう
 
 
召天者記念礼拝の朝、私達は先に天国に召された人々の思い出を抱きつつ集まりました。一つ想像力を働かせて、彼らは天国で私達にどんなメッセージを語っているかを考えましょう。恐らくその思想は、私達の現在の生き方について、大きな変革を齎すものではないかと思いますが、如何でしょうか。
 
2.それに相応しい生き方をしよう
 
 
何よりも、召天者たちが願っているように、死から蘇ったキリストを救い主としてと受け入れ、永遠の命に与り、天国に相応しい生き方をさせていただこうではありませんか。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」(ヨハネ6:47)
 
お祈りを致します。