プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2007年4月15日

イースターに臨む
「逆転の勝利」

竿代 皓子牧師

中心聖句:コリント人への手紙第一 15章57節

 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

該当箇所 コリント人への手紙第一 15章55-58節

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。  


A.はじめに

みなさんこんにちは。今回とりあげているみことばは、なんと慰めに満ちたものでしょうか。

といいますのは、私たちの教会で、ひとりの兄弟の告別式が執りおこなわれたからです。

87歳まで、クリスチャンとして神と人を愛し、その敬虔な信仰と祈りのゆえに、大勢の人々に影響を与えました。

その証しとして、毎朝100人以上の人々の名前を挙げて神にとりなしの祈りをされていたということです。とても普通の人には出来ない尊いご奉仕を神と人とに対してなさっておられた稀有な方でした。

その兄弟の敬虔な信仰と愛とのゆえに、人間的には非常に寂しく、お別れが残念でしたが、清らかな希望に輝いた、明るい、「凱旋」ということばがあてはまる告別式でした。クリスチャン生涯の勝利の模範が示され、本当に神さまの栄光を拝させていただきました。

それと比較して、

露と置き露と消えぬるわが身かな。難波のことは夢のまた夢

と辞世の句を詠んだ豊臣秀吉は、何と死に際しての希望のない深い悲しみを表していることでしょうか。

栄華の粋を極めた秀吉の死は大変惨めなものであったことは、歴史をご存知の方は周知のことでありましょう。

死は避けることの出来ない現実です。だれも避けるこの出来ない現実です。死後のことは何も分かっていません。ですから人は死を恐れます。

過去の歴史で秦の始皇帝は死なないことを求めて、不老長寿の薬を探させたとあります。結果は水銀を含むその薬によって精神がおかされてしまったということです。どんなに力がある偉大な支配者であっても、人には死を克服する力はありません。だれもが死ぬのです。

しかし、聖書は

死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。…

と大胆に死に対する勝利を宣言しています。その力を持った方が神の御子イエス・キリストです。その死に打ち勝って復活されたお方がイエス・キリストです。その宣言が今日掲げさせていただいた御言葉です。この御言葉から「死に対する逆転の勝利」を学びます。

B.死の始まりとその現実

1)死はもとからあった自然的なものではなく、宣告されたものです。

これは驚くべき記述です。死は自然にあるものと考えるのが普通です。

しかし、創世記2-3章の記述から、

人間は神のかたちに創造され(創世記1:27)、神との交わりのうちに完全ないのちが与えられていた。しかし人間は、善悪を知る木の実を食べてはならないという戒めを破ることによって、不従順と自己に頼るという傲慢の罪を犯した。この原罪が人間に死をもたらしたのである。人間が死ななければならないということは、罪に対する神の罰である。(創世記2:17,3:19)

と宣言されています。この宣言は至極納得できるものではないでしょうか。(参考:『新聖書辞典(P523)』)

人間は自分が神になりたいという傲慢のゆえに神に反抗したため、自分が神であるという自己中心性を持ちました。この自己中心性が人格の核となりました。

この現実は今も脈々と人間の血の中に流れています。このことが次のポイントに続きます。

2)この死は肉体の死であると同時に、神から離反(敵対)するという結果を生じました。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいたものであって、

とエペソ人への手紙2章1節にあるように、人は神の前に死んだものとなったのです。それで生まれながらの人間はまことの創造主である神を知らないのです。

自分が神ですから、自分中心の生き方が至極当然です。神との敵対関係に生きるのは当然です。このような状態を霊的な「死」と言います。

神との離反の結果、ガラテヤ人への手紙5章19-20節にありますように、人は

…不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、…

といった罪を犯すのです。

以上が聖書で主張している「死」です。静かに自分の心の営みを反省する時、聖書の宣言は正しいと気づくのではないでしょうか。この肉体的、霊的死からの解放と勝利のために神はイエス・キリストを遣わされたのです。

C.死に対する「逆転の勝利」−−−キリストの復活

1)神と人との和解とのために、贖いの犠牲となってキリストは十字架で死なれました。

見よ。世の罪を取り除く神の子羊。

とキリストは洗礼者ヨハネによって呼ばれました。

キリストは実に人類の罪の身代わりとなって十字架上で死なれたのです。

神ご自身が人となって肉体を持ち、全ての人間の苦しみを味わって後、罪のないキリストが罪となって身代わりに死なれた十字架刑は残酷極まりのないものでした。それほど人の罪は深いこと、それほど神は人を愛されていることを示したのが十字架です。

キリストのシンボルが十字架であるのは、このように深い理由があるからです。

キリストの死は、一見完全な敗北に見えます。死は全ての終わりだからです。人の世でも死を以って全てを清算することが出来ると考えている人は、多いでしょう。

しかし、死は全ての終わりではないのです。魂は永遠です。肉体は滅びても魂は永遠です。このことがある意味では人が死を恐れる一つの理由であるかもしれません。

ここに、どうしても死の解決者が必要です。

神はその方法として、悟りでもなく、修行でもなく、善行でもなく、ただキリストを信じることによって、死からいのちへ移されるために十字架の道を備えられたのです。

2)十字架による死によって神と人を和解させなさった神はさらに圧倒的な死に対する勝利として、実に復活なさったのです。

三日間だけキリストは死の中にありました。全くの敗北に見えました。しかし、驚くべきことに新しい復活の体を持ってよみがえられました。これは多くの目撃証言者が語る歴史的事実です。とくに、コリント人への手紙第一 15章3-8節をお読みいただくことをお薦めします。

キリストの復活は、私たち信仰者にも約束されている、驚くべき現実です。私たちも、キリストのように新しい復活体を頂くのです。死に対して全くの勝利が約束されております。これこそ逆転の勝利です。

この地上の肉体は滅びますが、復活によって選りすぐれた別の復活体を頂くのです。病もなく永遠に生きる復活体です。クリスチャンはこの望みを持っていますから、死が恐ろしくないのです。

かえって新しい命への準備であり、入り口に立つことになるのです。キリストの復活は死に対する巴投げのような大技の勝利です。

ですから、

しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

と勝利を歌っているのです。この確信があるとき信仰者は堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励むことが出来るようになるのです。素晴らしい特権の中に信仰者は置かれています。

その結果は豊かな報酬です。それも、限りない栄光に包まれた神の子としての計り知れない報酬です。あまりの素晴らしさに想像できないくらいのものであることは確かです。本当に

「神に感謝すべき」

なのです。

D.おわりに フランチェスカの『キリストの復活』から

最後に、フランチェスカの『キリストの復活』という絵のお話しをします。

1463年に描かれ、現在サンセポルクロ美術館(イタリア)にあるこの絵は、NHKの美術番組での解説によりますと、本当に小さなイタリアの片田舎で描かれたものだったそうです。

この絵の価値のわからなかった時に漆喰で塗り固められてしまった故に奇跡的に残ったこと、また第二次世界大戦の折にイギリス軍がこの小さな村を攻撃しようとしたとき、一人の兵士がこの絵のことを知っていて、決して失ってならないと必死で攻撃を止めたとの逸話が残っています。

死から復活したキリストの堂々とした勝利の姿が遺憾なく発揮されています。フランチェスカも復活を信じていたことが、この絵を通してわかります。

復活は全ての人類の希望です。死から命に移されるためにキリストを信じましょう。これが唯一伝えられるべきメッセージです。お祈りいたします。


Message by Hiroko Saoshiro,paster of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.O./April 15,2007