礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年4月22日
 
「心の悲しみと痛み」
ローマ書連講(28)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙9章1-5節
 
 
[中心聖句]
 
 2  私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
(ローマ9章2節)

 
聖書テキスト
 
 
1 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。5 先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン
 
はじめに
 
 
3月18日に年会前の聖餐式礼拝で8章の終わりを語りまして以来、年会・受難週・イースター・召天者記念礼拝と特別なことが続いて中断していましたローマ書連講に戻ります。特別な食事もおいしいのですが、常食も必要でしょう。
 
<9-11章の意義>
 
 
1.福音を提示した1-8章の後の「挿入部分」
 
 
前回のキーワードは「これらのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となる」という凱旋的な叫びでした。キリストの贖いについて第1章から縷々と述べてきたパウロがその締めくくりに述べた凱旋的な声明がこれです。パウロは、キリストの与えてくださった豊かな救いの恵みに心が満たされた後で、その喜びが大きければ大きいほど、あることで彼の心は痛み、悲しみます。その「あること」とは何でしょうか。
 
2.イスラエルが福音を拒絶している現実をどう理解するか?
 
 
それは、パウロの同胞であるユダヤ人の多くが、福音を受け入れていないという深刻で悲しい現実があったからです。福音に対するこの「ユダヤ人の壁」は、パウロが伝道したあらゆるところで感じた現実でした。彼が新しい町で伝道を開始するときには、必ずユダヤ人の会堂に入って礼拝を共にし、招きに応じて説教をし、そこで信じたユダヤ人を基礎にして教会を立てる、と言う方法を取りました。ある少数は信じましたが、多くは反発し、むしろパウロを迫害しました。逆に多数の異邦人が喜んで福音を受け入れました。パウロが未だ訪れていないローマ教会の状況も似たようなものであったと考えられます。
 
3.イスラエルを選ばれた神の正義はどうなるのか?
 
 
このイスラエル問題を扱っているのが9-11章です。キリストの福音という角度から考えると、やや脱線というか、挿入的エピソードのように思える場所ですが、ここは大事な場所です。神が人類の救いのために選びなさったイスラエル民族が、宇宙ロケットのブースターのように、救いのためのお膳立てを終えたら、もうお払い箱というのでは、冷たすぎます。神は先祖アブラハムに与えた約束に忠実なお方ですから、その約束に含まれているイスラエルへの祝福を取り下げなさるはずはありません。かといって、無条件で選民を受け入れたのでは、神の正義がなりたちません。神はこの「矛盾」をどう解決なさるのか、これがこの「挿入部分」の問題です。
 
A. パウロの痛みと悲しみ(1-2節)
 
 
1 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
 
1.パウロは真情を吐露する
 
 
パウロはここで、自分の心の奥底にある感情を正直に告白します。1章から8章までは、福音に関する論文であり、かなり客観的な書き方をしてきたパウロでしたが、一区切りついたところで、こんなにすばらしい福音が示されたのに、それを受け入れようとしない自国民のための悩みを告白します。そのことを強調するために、「キリストにあって真実を言い、偽りを言わない」と、主キリストと共に、もっと言うとキリストに結び付けられたものとして考えていることを言い表します。それをもう一度「私の良心も聖霊によって証する」と言いなおします。ずいぶん大げさな言い方のように見えますが、それは偽らないパウロの心が表れているからです。
 
2.大きな悲しみと絶えざる痛み
 
 
民の苦しみは自分の苦しみ:
そのパウロにあったものは「大きな悲しみ」と「絶えざる痛み」です。その内容はおいおい明らかにされますが、神に選ばれ、救いの器となった同国のイスラエルが全体として何故キリストを拒んでいるのだろうか、今まで聖書も殆ど知らなかった多くの異邦人がキリストの福音に触れて喜びの生活を送っているのに、同国人は何故頑ななんだろうか、自分の親戚のあの人もこの人も、未だ救いを受け入れないどころか、クリスチャンたちを異端視して迫害をするのだろうか、彼にとっては耐え難い痛みでした。彼はイスラエルを外から冷ややかに見ていたのではありません。民の苦しみを自分の苦しみとする心、自分は民の一員だと言う立場から苦しんでいるのです。

日本に対する痛みと平行:
私達はこのパウロの真情を見ますと、同じ心の痛みを感じます。私達は日本の大多数が、宣教開始以来450年(プロテスタント宣教開始からでも150年)経っているのに、1%の壁を超えられない現状、経済的にも文化的にも、そして豊かな自然環境にも恵まれているのに、肝心の福音に対して心を閉ざしているわが同胞を思いますと、本当に心が痛みます。
 
B. パウロの切なる願い(3節)
 
 
3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
 
1.同胞・イスラエルの救いを切望
 
 
「私の同胞、肉による同国人のため」といいます。勿論、救いのため、と言う意味です。
 
2.そのためには自己犠牲を厭わない
 
 
のろわれる覚悟(ガラテヤ3:13「キリストは、私達のためにのろわれたものとなって・・・」):
その救いのために、自分は「のろわれた者」となってもよい、とまでパウロは考えるのです。「のろわれた者」とは、キリストが十字架にかかってのろわれた者となったというガラテヤ3:13と共通の思想です。つまり、自国民の救いのために自分は犠牲となってもかまわない、という真実の同胞愛を示しています。

キリストから捨てられる覚悟:
彼は、キリストを愛し、キリストの愛に包まれ、キリストをより深く知ることのために命を賭けていた男です。キリストの愛から何者も私を切り離せない(8:39)と宣言した人間です。そのパウロが、愛するキリストから捨てられてもよい、と語っているのですから、これは尋常なことではありません。

モーセと類似:
この苦しんでいるパウロの姿は、イスラエルの民がその反逆の故に神から捨てられそうになったとき、自分を滅ぼしても良いから民を救ってくださいと願い出たモーセを思い出させます(出32:32「書物から私の名前を消し去ってください」)。自分自身の課題のために悲しみ、痛みを感じる人は多くいますが、他の人々のために心から悲しみ、痛むパウロの姿を学びたいと思います。特に、私達は、同胞である日本の民のためにパウロのような痛みと悲しみを共有したいと思います。

本当の愛国心とは?:
日本のクリスチャンは、しばしば非国民、非愛国者というレッテルを貼られました。特に、太平洋戦争中はアメリカ・イギリスのスパイという偏見を持たれました。神社礼拝を拒絶したために日本人ではないという攻撃も受けました。今また、靖国神社を国家護持にしようという方向に反対しているために、同じ非難を受けています。日の丸・君が代に同意しないクリスチャン教員が「愛国者でない」という非難を受けています。しかし、クリスチャンは、本当の意味で愛国者であります。内村鑑三は、「ご真影」に対して最敬礼をしなかったために、一高の教師職を追われ、自宅に石を投げられるなどの迫害を受けました。日露戦争に反対したために非国民と非難されました。しかし、かれは日本を心から愛し、その救いのために祈り、戦った人間でした。パウロのこの発言と重なって参ります。
 
C. イスラエルの特権を数える(4-5節)
 
 
4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。5 先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。
 
1.イスラエルに与えられた恵み
 
 
パウロはここで、イスラエルに与えられた恵み・特権を数えます。ここでは9つあります。

イスラエル:
ヤコブへの神の約束の継承

子とされること:
神の子ども(出4:22「イスラエルは私の子」、ホセア11:1「イスラエルが幼い頃私は彼を愛し、私の子をエジプトから呼び出した。」)

栄光:
幕屋・神殿に表わされた栄光(出40:34「主の栄光が幕屋に満ちた。」、T列王8:10以下、エゼキエル1:28)

契約:
アブラハムに対して(創世記15:18「その日、主はアブラムと契約を結んで・・・」);シナイ山で(出24:8「主があなた方と結ばれる契約の血・・・」);ヨシュアに対して(ヨシュア8:30「ヨシュアはエバル山に、・・・一つの祭壇を築いた」);ダビデに対して(2サムエル7:13「私はその王国の王座をとこしえに立てる」)

律法:
十戒(出20:1)

礼拝:
神殿における公的礼拝

約束:
特にメシアに関わる予言(イザヤ55:3「ダビデへの変わらない愛の契約を」)

先祖たち:
(アブラハム、イサク、ヤコブなど偉大な信仰の父達)

キリスト:
肉においてイスラエル出身(ガラテヤ4:4「この方を女から生まれたものと・・・」、マタイ15:24)
 
<恵みの大きさは、福音の恵みを受け損なう痛恨の大きさに>
 
 
これらの恵みは、正に恵みとして与えられたものであり、イスラエル民族であること自体に何かの特権が自動的に与えられているものではありません。つまり、肉的な民族主義を礼賛しているのではなく、神の恵みと(神のご目的の故に与えられた)特別な立場を強調しているのです。彼らは、その恵みの延長である福音の恵みに真っ先に与るべき立場にあったのに、福音の恵みに与り損なったことは、痛恨の至りです。日本から始まり、日本のお家芸であった柔道が、オリンピックで金メダルを失う以上の残念さです。
 
2.キリストへの賛美
 
 
その残念さはこれから述べることとして、まずパウロは神なるキリストに賛美を捧げます。譬えが適当でないかもしれませんが、戦争中、天皇が神と思われていたころ、天皇と言う言葉が発せられるたびに、直立不動の姿勢と取ったことがあったそうです。パウロは、このキリストのお名前を紹介するときに、文脈に拘わらず、賛美せずにはおれなかったのでしょう。
 
終わりに
 
1.日本の救いのために、心からの痛みをもって、もっと真剣に祈ろう
 
 
「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。」(ローマ10:1)
 
2.その一人を主に導くために祈り、行動しよう
 
 
国全体を一気に救うのは難しいでしょう。しかし、コツコツと、一人また一人を救いに導きましょう。今年の目標はどなたですか?その魂の救いのために祈り始め、祈り続けましょう。
 
お祈りを致します。