礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年4月29日
 
「恵みの選び」
ローマ書連講(29)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙9章6-18節
 
 
[中心聖句]
 
 16  事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
(ローマ9章16節)

 
聖書テキスト
 
 
6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。9 約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」
10 このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、12 「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。
18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
 
はじめに
 
 
1.先週から再開しましたローマ書連講ですが、9章3節から「大いなる悲しみと絶えざる心の痛み」に焦点を当ててお話ししました。ローマ書9-11章は、イスラエル民族に対する神のお扱いについて述べている「挿入部分」です。神に選ばれ、救いの器となった同国のイスラエルが全体として何故キリストを拒んでいるのだろうか、何故神に捨てられてしまったのだろうか、これはパウロにとって正に「大いなる悲しみと絶えざる心の痛み」でした。

2.今日は、そこから一歩進んで、神の選びのご計画、その原則を述べるところから始めます。
 
A.神の約束は確かである(6-13節)
 
 
6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。9 約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」
10 このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、12 「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
 
1.第一の質問:イスラエルに対する神の約束は無効になったか?
 
 
4-5節において、パウロはイスラエルに関する9つの特権を数え上げました。こんなにすばらしい恵みを約束されているイスラエルが神の救いを拒んでいる状況は、一見、神のみことば(約束)が反古にされてしまったような印象を与えます。本当にそうなのでしょうか、と言う問いから議論が発展していきます。冒頭の「しかし」とは、イスラエルが捨てられてしまったように見える現状が、神の約束の失敗からもたらされたというと見方への反対論を表わしています。
 
2.質問への回答:神の約束は、「約束の子」によって継承された
 
 
イスラエルに対する祝福の約束は、単にアブラハムと血が繋がっているとか、イスラエルの国土に生きているという民族的な理由だけで継承されるのではなく、神の選びによって定められた小数のものによって引き継がれる、とパウロは論じます。その選びの計画は、神の御心によるのであって、私達人間がとやかく言うべきではないとパウロは強調します。この「少数のもの」は、イザヤが繰り返し言及した「遺残者(レムナント)」思想と共通しています。イスラエルの多数者は神に背き、審判を受け、或いは滅ぼされ、或いは外国に連れて行かれます。しかし、切り株から生えてくる「ひこばえ」が木の生命を継承していくように、レムナントこそが民族の真の霊的な生命を継続していく、というのが旧約の歴史でした。
 
3.回答の裏づけ@:アブラハムの子イサク
 
 
このことが例示されているのが、アブラハムの子等です。アブラハムにはイシマエルのように正妻以外から生まれた子どもがいましたが、彼らはアブラハムの正統的な継承者ではなく、サラから生まれたイサクのみが霊の継承者と定められたのです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」ということばは、創世記21:12のそのままの引用です。イシマエルではなく、イサクを通してアブラハムが子孫を増やすと言う約束です。
 
4.回答の裏づけA:イサクの子ヤコブ
 
 
イサクとリベカの間に生まれた双子のエサウとヤコブについて、神の選びの角度から説明がなされます。

神の主権は、人間の行いによって左右されるものではありません。ヤコブは、その行いの前に、既に選ばれていた、とパウロはマラキの預言(1:2,3)を引用します。実際を言いますと、このマラキの預言は、必ずしも「生まれる前の」選びを指してはいません。むしろ、エサウとヤコブが民族をなし、その後に異なった道筋を辿ることの予言です。エサウとヤコブの行く先の予言は、創世記25:23の方がより明確です。ここでも、双子が成人となり、民族の祖となった後にその民族の強さにおける差異を予言したものです。個人的に、愛されるか憎まれるかという差異は示唆されていません。「憎んだ」という表現は、選ばなかったという意味で使われているだけで、エサウの性格や罪のゆえに神が憎まれた、と言うのではありません。ルカ14:26に「父母兄弟姉妹を憎む者とならなければならない」という主イエスの勧めがありますが、その平行記事であるマタイ10:37は、「私よりも父母・・・を愛してはいけない」と言い換えています。つまり、憎むとは、愛の優先順位が低いことを指します。

人間の混乱と神の摂理という角度から、蓮見和男先生がこの部分を扱っておられます。人間の角度から見ますと、このエサウとヤコブの葛藤は、人間の愛憎のドラマそのものです。双子の兄弟でありながら、性格は全く違う、ヤコブは母の偏愛を利用して家督の権を騙し取る、エサウはそれを恨んで殺そうとする、正にどの過程にもあるようなドラマです。しかし、神はその混乱を用いてそのご計画を成就なさる、というのが正にヤコブの選びの真髄です。いわば、神の選びとは、人間が自由に振舞っているように見えるが、結局は神の大きなご計画の中で踊っているに過ぎない、それを後から振り返って一言で言うと、選びなのです。人間の一挙手一投足まで全部神にプログラム化されていて、私達はその通りに動く操り人形ではないのです。

私達の職場、家庭、果ては教会でさえも、人間のいろいろな感情が渦巻くドラマで、混乱に満ちている場合があります。でもそれらの上に、中に、神のご計画があります。
 
B.神の公正と正義(14-18節)
 
 
14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。
18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
 
1.第二の質問:神の選びには公正さがあるのか?
 
 
「それでは、どういうことになりますか。」という質問は、その前の文節を受けています。イサクを選び、ヤコブを選ばれた神の選びとは、神の気まぐれによるのでしょうか、と言うのが、この質問の背景です。そこから、「神に不正があるのですか。」というダイレクトな質問が生まれます。本当に神に不正があるのでしょうか。
 
2.答え:神は、絶対的な主権者であられる
 
 
パウロは、この質問に「絶対にそんなことはない。」と断定します。神は主権者であります。人間の都合や、願望によって縛られない神ご自身の自由を主権と言うならば、神は絶対的な主権者であります。神が人間を選ばれるのは、決してそのメリットの故にではありません。もし、そうだとしますと、選ばれた人々には誇るところが出てきてしまいます。決してそうではなくて、選びは、神の一方的な憐れみによるのです。
 
3.その実例@:モーセ
 
 
神がモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われたことがその実例として挙げられています。これは、出33:19の引用ですが、この背景には、金の子牛を拝んで捨てられそうになったイスラエルの民について、モーセが赦しを求めた祈りがあります。モーセがさらに神のご臨在と同行を求めたのに対して、神は、ご自身の自由な選択によって恵むのだ、と語られたのがこのことばです。神の自由は、人間の願いや都合で左右されず、ご自身の主権的な意思で恵むという形で表わされます。
 
4.その実例A:パロ
 
 
それを示すもう一つの例として、出エジプトのときのパロ(エジプトの王)が挙げられます。神はパロに対して「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」(出9:16)と語られました。つまり、パロは、神の名前を全世界に知らせ、神の力を誇示するための道具として用いられたのです。どのようにかと言いますと、その頑固さの故でした。彼は、イスラエル人を奴隷状態から失うことを大きな損失と考え、あらゆる手段でイスラエルの釈放を阻害し、遅延させました。しかし、その妨害工作の故に、神は奇跡的な方法をもってイスラエルをエジプトから釈放なさいました。そのことで、神の栄光が現れたのです。

さて、聖書は、もともと頑固であったパロを、神がもっと頑固になさった、と言います。パロは、元々何も悪くなかったのに、神によって頑固にされた訳ではありません。神は人を悪に誘うお方ではありません(ヤコブ1:12)。でも人が悪に向かうとき、それに委ねるという形で、それを許しなさいます。それを短くいうと、「かたくなにし」という表現となるのです。パロは自己中心で,わがままで、頑なでした。しかし、神はそれを許し、そればかりではなく、神の大いなる救いの目的のためにお用いになりました。この物語は、人間の弱さ、失敗を通しても神はそのご計画を進め給うという雄大な歴史観を示します。パロの頑固ささえも、神の偉大さのデモンストレーションに用いなさるのが神です。人間の反逆の極め付けである十字架でさえも、神は全人類の救いのために用いなさるお方です。

神はパロを頑なにされましたが、あるものには憐れみを示されました。神が憐れむと決めたものを神は憐れむのであって、人間的な要素はそこに含まれていない、と言うのがパウロの論理です。人間の自由意志はないのでしょうか。いいえ、あります。しかし、自由意志を乗り越えた大きな神の意思が歴史を動かしておられます。

歴史は、人間の自由意志と、神のご意思という二つの糸で織り成されています。私達は神に選ばれたものですが、それは宿命論的ではありません。選ばれたことは恵みなのです。それを特権と考えると傲慢になります。選ばれていても捨てられてしまいます。イスラエルは正にこの道を選び、捨てられました(2:17)。

これは、10章と11章に詳しく述べられますが、実は、イスラエルの捨てられたことが異邦人の救いとなりました(11:12)。神の知恵と知識の富は深いのです。へりくだりましょう。
 
終わりに
 
 
今私達は選ばれた事実を感謝しましょう。それは何かのメリットの故ではありません。誇ってはなりません。選びに安住してもなりません。他を見下げてもいけません。何故と追求する必要もありません。今日締めくくりに歌います賛美歌の中に、「知るを得ず、知るはただ、罪に染みし来し方」とあります。

神の深い御心を私達は探り当てることは出来ません。ただ知ることが出来るのは、私などは神の選びに与る何の理由も価値も持っていないものだということです。私達がただ知ることが出来るのは、神はこんなに価値のないものを愛してくださったという事実だけです。

終わりに、「いかなる恵みぞ」の作者であるジョン・ニュートンの遺言を紹介します。奴隷売買の船の船長という生活から、方向転換させられて、牧師にまでなったニュートンは、神の恵みをほめたたえつつ、80年の生涯を閉じました。「私は自分の魂を救い主である恵み深い神に委ねる。私が背教者であり冒涜者であり不信仰者であった時に、主はあわれみをもって見過ごし、守ってくださった。そしてアフリカの海岸で邪悪な生活をしていたときみじめな状態から救い出し、このようなものを主のすばらしい福音を宣べ伝えるものとしてくださったのである。私は謙遜な信仰をもって、神であり人である主イエス・キリストの贖いととりなしに信頼する。これこそ、罪人が希望を託しうる唯一の基礎であると、私は再三宣べ伝えてきた。主は、私の残りの人生をも守り、導き、天の御国において私を主の御前に立たせてくださると信じている・・・。」

私達も、ニュートンと共に、主の恵みを賛美しましょう。
 
お祈りを致します。