プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2007年4月29日

天国の原理G
「不正が誉められた(?)管理人」

竿代 照夫牧師

中心聖句:ルカの福音書 16章10-13節

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。

また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

 

該当箇所 ルカの福音書 16章1-14節

イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。

主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』

管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。

ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』 

そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、

その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。

それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。

イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。  

そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。

また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。 

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。

  


A.はじめに

主イエスの話されたたとえ話が続いています。そのほとんどは大変やさしく、メッセージが明確ですが、今回とりあげる箇所はちょっと手ごわいものです。状況からお話します。

B.たとえ話の状況

1.15章の三つのたとえの続き

パリサイ人、律法学者達に対して、悔い改めた罪人のために、神はどんなに大きな喜びを示しなさるかということを、失った羊、銀貨、息子、という三つの譬えで教えなさいました。

2.弟子達を対象に

弟子達は、パリサイ人、律法学者達に比べると、余りにナイーブで、 「鳩のように素直」ではあっても、「蛇のような賢さ」には欠けていた

ようです。主イエスは、その「賢さ」を教えるために、こんな複雑なたとえをなさいました。

C.たとえ話

今回は、不正を行っていた管理人についての話です。ちょっとわかりにくい話ですので、注意を払っていただければと思います。

1.不正を行っていた管理人

ここで登場するのは、主人の財務を委ねられていた管理人(マネージャー、あるいは番頭さん)です。管理人のたとえは多く出てきますが、多額の財産を与えられて、その運用を任され、報告を求められる、という点では共通しています。ただ、この管理人は相当にワルであった点が顕著です。  

彼は主人の信用をいいことに、主人の金を自分のビジネスに流用したり、自分の飲み食いに使っていたりして、相当の穴をあけていました。分からないようにやっていたのですが、何かのきっかけから、その流用が発覚してしまったのです。

2.不正を叱る主人

主人は当然怒りました。「これだけ信用していたのに何だ」とばかり、失望し、怒り、解雇すると言わんばかりの雰囲気で、会計報告を求めたのです。当然のことです。

3.管理人の必死な画策

その次の管理人の行動が、この物語の焦点です。

この管理人は驚くような行動に出ました。ただでさえ、主人の財産を乱費していたのに、その穴を埋めるのではなく、逆に、

その穴を大きくするような活動

を始めます。まず、

主人から借金をしている債務者を急いで集め、債務額を減免する工作

をするのです。

「油100バテを主人から借りていて、未だ払っていない油商人を呼び、彼の借用書を見せて、50バテに書き換えなさい」とやりました。

小麦を100コル借りている穀物商人を呼び、証文を80コルに書き換えさせます。

これだけ恩を売ったのは、管理人が

「天下り先」を計画したから

です。今の職場をやめさせられても、油屋か穀物商に雇ってもらえればよいと思って就職活動を既に始めた訳です。その時の言い分がふるっています。

私は土を掘るには力がない、乞食をするにはプライドがありすぎる、今のようにお金を右から左に動かすような商売でしか飯を食っていけない

と醒めた目で自分を評価していたのです。

4.狡猾さを誉めた主人?!!!

このような狡猾な管理人を叱って、即時解雇すべき立場の主人が何と彼を激賞したのです。ここがこのたとえの不思議さです。何を誉めたのでしょうか。

その不正ではありません。

その狡猾さでしょうか。ある意味でそうですが、それだけではありません。

主人に対する裏切り行為ではありません。

結論だけ言いますと、

将来のために備え、具体的な手を打った用心深さと思慮深さ

です。特に

今の世で友達を作っておいて、その友達を来るべき世のために役立てるように

と勧めているのです。

D.このたとえからの教訓

さて、このたとえ話は、金銭について多くの教訓を私達に与えます。

1.警戒:お金には、罪への誘惑がまとわりついています。

@ですから、

「不正の富」−新共同訳では「不正にまみれた富」となっていますが−

といわれています。

お金を巡って不正が行われ、争いが生じますから、正にお金には不正がまとわりついています。

Aさらに、お金には

「自分を神と思わせる」魔力

があります。金を集め始め、貯め始め、増やし始めると、私達の頭がお金でいっぱいになり、神様のことは頭から消えてしまいます。

ですから、神と富とに同時に仕えることはできないのです。

2.勧告:そのような、「不正の富」(不正にまみれた富)ではあっても、利用価値は十分にあります。

@まず、富はこの世だけに通用するものに過ぎません。

「三途の河も金次第」というのは大嘘です。金の効用は限定的であり、しかも、それ自体を神としかねない魔力を持ったものではありますが、次の世のために使いでのある価値高いものです。

具体的に言いますと、福音のために労している教会や牧師のためにサポートすることも大切な使い道の一つです。

この教会の中でも、地方にあって経済的に厳しい戦いをしている教会を支えている人がおられます。その人は、正に天に宝を積んでいるのです。

Aつぎに、経済的な活動は、霊的な活動に比べれば小さなことかもしれませんが、

小事(経済)に忠実でなければ、大事(霊的なこと)にも忠実でありえません。

教会の財政もそうです。私は祈りや伝道には力を用いるが、財政的なことはどうも、といいながら、きちんと会計ができていない、不透明な会計が続いている、と言うような教会指導者であってはなりません。

B一番悪いのは、

経済的な問題に真正面からぶつかろうとしない態度

です。このたとえ話を聞いて さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。

と14節に記されていますが、彼らは、本当は金銭が大好きで、それに執着しながら、自分達は金銭欲からは離れた聖い世界に生きていると高言し、偽善的な生活を送っていました。

これは、鼻持ちならない態度です。彼らには、金銭問題に余りに正直に、真正面から取り組もうとする主イエスの態度が、正直すぎて笑止千万と映ったからなのでしょう。  

E.おわりに

1.まず、主イエス様が語られたように、私達は

小さなこと(時間やお金や労力や知力の使い方)において忠実でありたい

ものです。

忠実とは、管理者としての態度のことです。すべては神から与えられたものであり、与ったものであり、その使い方について、報告義務があります。いままでの歩みを振り返って、どんな報告を主にさせていただけるでしょうか。

2.また、

金銭の使い方について、私達はより一層、責任ある態度を取りたい

ものです。

金を儲けたり、貯めたり、殖やしたりという活動を引け目に感じる必要はありません。引け目に感じてならないどころか、金銭を世の中から贖い取り、積極的に神のため、人のために用いるものとなりたいものです。お祈りいたします。


Message by Issac.T.Saoshiro,senior pastor of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.O./April 29,2007