プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2007年5月6日

天国の原理H
「失望してはいけない」

渡辺 寛伝道師

中心聖句:ルカの福音書 18章1節

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

 

該当箇所 ルカの福音書 18章1-8節

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。

彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、 

どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」

主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。

まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

  


A.はじめに

ゴールデンウィークの間、どのような休日を過ごされましたでしょうか。

リフレッシュして今日を迎えておられる方もあるでしょう。逆に忙しく休むことができなかった方もあるかもしれません。

しかし、神様はかわらず私達をPWに招いて下さったことをを感謝して、主の恵みを頂きましょう。

今日も天国の原理についてイエス・キリストのたとえ話に心を向けましょう。

ルカの福音書18章1−8節も、とてもわかりやすいたとえ話です。

第1節にテーマともいうべきみことばが書かれています。

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

 

これは、

しかし、人の子が来たとき、…

と8節にあるようにイエス・キリストがこの地上に再び来られる事実と、その時まで

いつでも祈るべきであり、失望してはならない

ことをいっておられるのです。

B.不正な裁判官とやもめのたとえ(2-5)

不正な裁判官とは

この裁判官は、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官です。自分でそういっているのです。こんな裁判官はいるのでしょうか。

神を恐れないとは、真の神様を知らず、信じようともしない、信仰心のないことをさし、人を人とも思わないとは、人を敬う心もなく、同情も情けもないことを表しています。ですから、やもめの訴えを親身になって聞くことはなく、かえってうるさく思い、煩わしさをなくすために、ただそれだけの理由で裁判をしました。

これは、世の中全体を現しています。真の神様を知らないことのゆえに不正がはびこり、人間関係が冷ややかになり、他人のことより自分のことが大切、正しさの基準が全くずれ、正しい裁きのなされない今の世の中を映し出しています。

やもめとは

3節を直訳すると「私の敵に対して、私を正当に扱ってください。」

となりますので、やもめは、ずっと不当な仕打ちを受けてきたことになります。

これは、この世の中でサタンの力の及ぶ正しくない基準の中で迫害を受け、キリスト者として戦っている、クリスチャンを指しています。

このたとえ話を通して

この不正な裁判官でさえ、はじめは取り合わなかったが、利己的な理由ではあるが、やもめの訴えを聞き、正当な裁きをしました。であるなら、なおさら私たちを愛しておられる神様が私たちを公正に裁いてくださらないはずはない と言っています。その通りです。

神様は、不正な裁判官と正反対の公正な裁判官です。神様は、厄介がること無くいつでも聞いてくださいます。そして、速やかに私たちのために正しい裁きをしてくださいます。そのために再び来られるのです。

だからこそ、私達は真実で正しい神様に祈り求め願うのです。期待して祈り続けるのです。ですから、私たちは

天にまします我らの父よ、願わくは御名を崇めさせたまえ、御国を来たらせたまえ・・・

と、日々祈ります。

C.「失望してはならない。」とは?

サタンは、キリストの来臨と正しいさばきを待ち望む者たちを何とかしてあきらめさせ、失望させるかを、いろいろな方法を用いて、たとえば8節の

あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。…

というみことばを逆手にとって試みてくるのです。

ペテロの手紙第二 3章3-4節に、

まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、

次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

とあります。あまりにも、つらい迫害や、不正に対して憤りを覚えるとき、私たちは「主の日が」遅いと思ってしまうことがあります。待ちきれない自分を抑えることが出来なくなる時があります。イエス・キリストはそのこともご存知で、8節後半に

…しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。

と警戒のことばをのこしています。

「遅い」という思いで、もし明日主が来られた時、否、今来られた時本当に裁きの準備はできているでしょうか。私たちも含めてすべての人が裁きの場に立つのです。

そのことを考えるとき、主の日が遅いと思うことでの失望は大きな誘惑です。警戒しなければなりません。

D.失望しないためには

神様の側から

ペテロの手紙3章8-9節には、

しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

とあります。神様にとっては、時とはいつも現在なのです。私たちは、時を過去、現在、未来と一本の線で表現し理解していますが、永遠をつかさどる神様にとっては一つの点にしか過ぎないのです。

実はこれは、私たちにとっては大きな慰めなのです。そしてここに神様の愛と哀れみの理由があるのです。

今は、神様に立ち返るチャンスなのです。一人も滅びることを望まない神様は、今このときを悔い改めの機会としてとどめておられるのです。忍耐しておられるのは神様のほうなのです。

ですから私たちも今は、忍耐を学ぶときなのです。無駄に苦しんでいるのではないのです。すべては、より天国で栄誉を受けるために忍耐の学課を学ぶ時、成長の時なのです。ヘブル人への手紙10章35-36節に、

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。

あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

とありますが、その通りです。 <

私たちの側

自己中心、利己的な心を悔い改める時です。

私たちが神様のご計画、御意に従えず失望してしまうのは、自己中心だからです。私たちの本質は、神を恐れない、人を人とも思わない、そして自分たちの欲望に従って生きる者なのです。それらはすべて自己中心が原因です。

一瞬一瞬神様の前に心を開いて導いていただきましょう。出来ない時は、出来ないと正直にその心をさらけ出しましょう。変えてくださるのは神様だけです。それが可能なのも神様だけです。

E.おわりに

だから、いつも祈り続けなければなりません。失望してはいけないのです。

弱い私たちは、サタンが自由に振舞える今を失望してしまいます。現実を知るという意味で今の世界を失望してもキリストの計画に失望する必要はまったくないのです。サタンの勝手な振る舞いに関係なくキリストの日は来るのです。正しい裁きはされるのです。

キリストの来臨まで私たちは、ひとつでも多く忍耐を学びましょう。それは無駄ではないのです。一つ一つの忍耐が希望に変わり、宝を天に積むことになるのです。 そして、正しい裁判官にすべてをゆだねましょう。

そして、イエス・キリストを救い主と受け入れることに躊躇しておられる方があるなら、今がチャンスです。今しかないのです。正しい裁きの日に悔やむことのないためにも、今日キリストを受け入れましょう。

皆様の上に主の祝福をお祈りいたします。


Message by Hiroshi Watanabe,residential preacher of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.O./May 6,2007