礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年5月13日
 
「憐れみの器として召される」
ローマ書連講(30)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙9章19-33節
 
 
[中心聖句]
 
 24  神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
(ローマ9章24節)

 
聖書テキスト
 
 
19 すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。 21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。 23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。 24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。 25 それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。 26 『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」 27 また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海ベの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。
28 主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」 29 また、イザヤがこう預言したとおりです。「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」
30 では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。 31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。 32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。 33 それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
 
はじめに
 
 
1.先回は、9:16の「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」という御言を中心に、人間の救いの業は神の一方的な憐みによると言う大切な真理を語りました。

2.今日はその続きです。パウロは、反対者の反論を紹介し、それに答えるという形で議論を進めます。
 
A.陶器師として主権を持ち給う神
 
1.神の主権に対する質問(19節)
 
 
19 すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」
 
「すると」というのは、前の節の声明を受けています。18節でパウロは、「神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。」と言って、人間の都合に捉われない神の主権と自由を強調しました。その例として、神がモーセを憐れみ、パロを頑なにされた事実を挙げます。実情を言いますと、神はパロの心を操り人形のようにギュッと頑なにしたのではなく、パロが自分で選んで頑固になっていくのを許容なさった、と言うことなのですが、それはともかく、神がパロを頑なにされたのは事実です。

「すると」というのは、その神の主権と自由から論理的に導き出される推論を述べるわけです。神がその主権と自由裁量をもって、ある人をかたくなにされるとするならば、頑なになった人はどうやって責任を持てばいいのですか?自己責任で頑なになった訳ではないのに・・・、と言う疑問です。さらに、神が、例えばエジプトのパロを頑なにしようと定めなさったのならば、パロはその神の意思とご計画に逆らえないでしょう?という理屈が生まれます。実に、もっともらしい理屈です。
 
2.陶器師なる神は、器作りの自由を持ち給う(20-21節)
 
 
20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。 21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
 
パウロは、このような理屈に正面から答えないで、そんな質問をすること自体がおかしいと論断します。神は創造主であり、私達は被造物です。神と人間との間には、絶対に超えられない隔たりがあります。その隔たりは、距離の問題ではなく、立場の問題です。神は陶器師であり、私達は土器のようなものです。土瓶が陶器師に向かって、何故私の口は長細いのか、お茶碗が陶器師に向かって、何故私はすわりが悪いのかと文句をつけたためしはありません。

一言付け加えますが、神は私達人間を無機物の陶器としてではなくて、神のかたちを持った自由な人格としてお造りになりました。ですから、陶器師と陶器と言う譬えは神と私達との関係を完全に説明するものではありません。人間側の責任を全く否定しているわけでもありません。人間側の責任については10章で語られますので、今日は詳しくは触れません。さらに、神の人間に関わるご目的は、始めから終わりまで、愛と憐れみによって貫かれていることも忘れはなりません。

もとの議論に戻ります。創造者に対して被造物である私達が、理屈を並べ立てて、文句を言うこと自体が不適当であるということは、基本的に弁えねばなりません。いかにしばしば、私達は神と自分を同列に考えて、私達の理屈を神に押し付けて議論を吹きかけてしまうことでしょうか。神が愛ならば、どうして世の中にこんな不幸な人々がいるのかとか、神が正義ならば、どうして悪人がのさばって善人が苦しむのかとか、神が公平ならば、どうして世の中に不公平がまかり通るのかとか、もろもろです。世の中の問題のすべての原因は神にあると言わんばかりに神を非難する態度自体が問題なのだと言うことを被造物として弁えなければなりません。私達は神に対して責任を負って生きていますが、神が私達に対して説明責任を持つと考えること自体、愚かであり、傲慢であります。
 
3.神は豊かな憐れみを示し給う(22-24節)
 
 
22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
 
19節の疑問に対して、パウロは、20,21節で、疑問形で切り替えします。その続きとして、22-23も疑問形で読者に問いかけます。新改訳聖書では、22節だけが疑問形ですし、英訳聖書は22-24全体が疑問形で括られていますが、原文では22-23だけが疑問形で繋がっています。どうしてこんな面倒なことを言うかと言いますと、この区切り方で文章のニュアンスが違ってきてしまうからです。

さて、22節の「怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられる・・・滅ぼされるべき怒りの器」とは誰のことでしょうか。これは、神の怒りを受けるのが当然なような罪の生活を送っている人々のことです。具体的に誰かと言う示唆を与えているのではなく、罪人一般を指すものでしょう。しかも、「怒りの器」と運命的に決められている決定論を指してはいませんで、「怒りを受けるのに相応しいような」という罪人のことです。神が、その「怒りの器」に対して、すぐには滅ぼさずに、豊かな寛容をもって忍耐してくださいました。それは、キリストが世に現れる前までの無知と罪について、神が寛容をもって見逃しておられたことを意味します(使徒17:30)。そして、キリスト来臨に及んで、その福音をもって異邦人を祝福の中に入れてくださったことをも意味します。22節は、神がそんな風に憐れんでくださったとすれば(それは事実なのですが)、「どんなにすばらしいことでしょう」という答えが表現されていませんが、含まれています。

23節は、疑問文の続きです。「神が怒りの器に憐れみを示してくださったのは、栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、(それ以上の)豊かな栄光を知らせてくださるためであったとすれば、どんなにすばらしいことでしょう?」と、パウロは感激を隠すことができません。

24節は、その「憐れみの器とは誰か」という挿入分です。「神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」簡単に言えば、ユダヤ人からも異邦人からも同じようにクリスチャンを召してくださった、というのです。それも「憐れみの器として」です。ここでパウロは「選別」という意味での選びではなく、「自由で愛なる神がおられ、自由な人格を持つ私達を召しておられる」(蓮見和男)という意味での選びについて語っておられます。先ほども申し上げましたが、人間は、自由意志を持っていない土器ではありませんから、神の召しに応答するかしないかの自由も持っています。私のようなひねくれたものを、見棄てないで尊い永遠の救いに向けて召してくださったその恵みに感謝して、心からの応答をさせていただきたいものです。
 
4.異邦人の救いについてホセアが引用される(25-26節)
 
 
25 それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。 26 『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」
 
異邦人が神の民と呼ばれることについて、ホセア2:23が引用されます。尤もこのホセアの文脈は、イスラエルがその背信の故に捨てられるが、もう一度受け入れられるという意味です。ホセアは、その妻ゴメルによって子どもを得るのですが、本当に自分の子であるか怪しかったのです。ですから子どもをロ・アミ(自分の民でないもの)と名づけます。イスラエルが神の民でありながら、神の民でないように見なされねばならない、という悲劇の象徴でした。2:23は、そのような「民ならざる民」が神の民として再び受け入れられる、と予言するのです。しかし、パウロはこれを広い意味で受け取って、異邦人が受け入れられるという事実の予言と捉えます。
 
5.イスラエルの裁きについてイザヤが引用される(27-29節)
 
 
27 また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海ベの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。 28 主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」 29 また、イザヤがこう預言したとおりです。「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」
 
イザヤ書の最初の引用は、イザヤ10:22,23からです。そこでは、イスラエルはその背信の故に裁きを受け、壊滅状態となるが、残された少数のもの(レムナントと呼ばれる者達)によって、救いの歴史が継続されていくという真理が予言されています。

次の引用は、イザヤ1:9ですが、同じ思想です。ここで残されたものと言われているのは、種のことです。穀物は消費しつくされても、種が残ってそれが子孫に受け継がれると言う思想を示します。不信仰のイスラエルは、神の裁きを受ける、しかし、その中で少数の信仰者が、救いの恵みを受け継いでいく、これも神の憐れみの表れの一形態です。
 
B.救いに関する「逆転劇」
 
1.異邦人が義とされる(30節)
 
 
30 では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。
 
「義を追い求めなかった異邦人」については説明を要します。全く求めなかったわけではなく、律法の行いによって求めることをしなかった、というのがパウロの趣旨でありましょう。追い求めるとは、追求すると言うひたむきな姿勢です。「得ました」とは、ゴールに向かって走ったものが賞品を得た、というイメージです。その異邦人が救われたのは、一重に行いに頼らず、信仰によったからだ、とパウロは言います。ひたすら追求したわけでもなく、気がついたら獲得していたという絵なのです。気がついたらと言いましたが、たなぼたという意味ではありません。主イエスの福音を聞いた取税人や遊女達が、自分達の罪深さをよく自覚していたために、謙って神の救いを受け入れたのと相通じるものがあります。
 
2.イスラエルは捨てられた(31-33節)
 
 
31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。 33 それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
 
イスラエルは、一生懸命律法を守り、その良い行いによって救われようとしました。その分、自分の弱さを自覚して、キリストの贖いに縋るという必要性を認めませんでした。イスラエルは救いに関する神の方法を無視して、自分の考え、哲学を押し通そうとしたからです。はっきり言えば、頑なで傲慢でさえありました。それだけ、信仰による救いと言う単純な真理を捉えそこなったのです。

具体的に言えば、かれらの躓きはキリストの十字架でした。普通の人として世に生まれ、生き続けられ、終わりには十字架につけられたイエスを救い主キリストと受け入れるのは、彼らにとって信じがたいことでした。イスラエルが、ナザレ人イエスに躓いたのは、人間の傲慢を示す意味で、非常に象徴的です。イスラエルは、自分の考えが正しいという大きな傲慢を持っていました。ですから、謙りの極致であるキリストの存在は「躓きの石」でしかありませんでした。イスラエルは、イエスを拒絶し、十字架につけました。

しかし神は驚くべきことをなさいます。神は、ユダヤ人の背信を、世界の民が福音を受け入れるに至る契機と用いなさいました。躓きの石を救いの石に変える、これは、神のなさる常套手段のようなものです(イザヤ28:16)。キリストの十字架は、傲慢な人々には嘲りや躓きの材料です。しかし、自らの罪の深さを本当に自覚する謙った魂には、救いの拠り所です。
 
おわりに
 
 憐れみの器として召されたことを感謝しよう
 
 
私達を憐れみの器として召してくださった神を賛美しましょう。傲慢の罪から救われて、本当に謙って、神の憐れみにすがりましょう。また、こんな人間でも、神の憐れみを受けるとこんなにも恵まれるのかと言うことを、世の人々に証しましょう。
 
お祈りを致します。