礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年5月20日
 
「主の御名を呼び求める者はだれでも・・・」
ローマ書連講(31)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙10章1-13節
 
 
[中心聖句]
 
 13  主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。
(ローマ10章13節)

 
聖書テキスト
 
 
1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。5 モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。 6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
 
始めに
 
 
昨週は、「神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」(ローマ9:24)から、憐れみの器として召されたことを感謝しました。今日は、召されているユダヤ人が神の恵みを拒んでしまっている悲しい現状が述べられます。
 
A.自己義を立てたイスラエル
 
1.同族の救いのために祈る(1節)
 
 
1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
 
パウロは、9:1を繰り返してもう一度、彼の真情を吐露します。心の望み、切なる願いは、同族であるイスラエルの救いであると。これは、心に願っているという願望だけではなく、実際に彼の祈りの中で繰り返し繰り返し神に訴え続けていたことでした。一方において、異邦人の中に救われる魂が次々起こって、嬉しい心をもちながら、彼の心は、その殆どが救いを拒んでいる同族イスラエルのために痛んでいました。彼は同族イスラエルを突き放して、外から見ているような冷たい人間ではありません。何とかならないだろうか、という断腸の思いを持って、彼らの救いのために祈り続けていました。日本人に対する私達の祈りもこのようでありたいと思います。昨週福音自由教会の全国女性大会で説教させていただきました。その集会で3人の方々が救われました。それと言うのも、お友達のために真剣に祈り続けた方々があったからです。中には30年も祈られていた方が、この大会で救われました。祈りは、決して無駄ではありません。
 
2.知識によらない熱心(2節)
 
 
2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
 
パウロの悲しみは、イスラエルの民が神に背を向けているからではありません。まったく逆です。「神に対して熱心」なのです。それは、同族であるパウロはよく分かっていました。このパウロのユダヤ人評の中に、何とも暖かさを感じます。確かに頑固で、迫害を加える同族ではありましたが、パウロは一刀両断で断罪するのではなく、その良い点を認めようとします。私達も、どんな絶望的に見える人々、長所を探しても一つも見つからないような人々であっても、同情的な見方をするものでありたいと思います。

さて、ユダヤ人は押しなべて神に対して熱心な人々でしたが、救われる前のパウロは、熱心さにおいては誰にも負けないほどでした。「また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。」(ガラテヤ1:14)と語っている通りです。こんな無知でおろかな自分さえ救われたのだから、まして、一般ユダヤ人に望みがないはずはないとパウロは希望をつなぎます。

ただ、イスラエルにとって残念なのは、彼らの長所である熱心さが、そのまま救いへの妨げとなっていたのです。彼らの熱心さの中心には、「自分」がありました。自分の行い、自分の熱心さ、自分の正しさ、自分の親切、自分の奉仕・・・など、自分がその中心でした。そうなると、信仰もいつの間にか自己主張になりかねません。熱心の方向が違っていたのです。知識に基づかない、とはまったく無知であったというよりは、神が与えなさった知識を受け入れようとしない頑固さです。
 
3.「自分の義を立てる」誤り(3-4節)
 
 
3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
 
その神の知識とは、神が与えなさる義のことです。自分は正しいものではない、むしろ罪人だ、という深い自覚に立ちますとき、神が与えなさる義を求め、それに信頼するようになる筈です。この自覚と反対なのがイスラエルの民です。彼らは、自分は正しい、一生懸命神に仕えている、自分は律法を完全に守っている、という自信のゆえに、神の義に頼ることなんか考えられなかったからです。

モーセの律法の中心は、これを行え、そうすれば生きる(救われる)というものです。「あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。」(レビ記 18:5)と記されている通りです。律法をしっかり守ることが義なのだと理解していたのです。逆なりに言えば、「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3:10)という強迫観念がありました。実際、イスラエル人のうち、誰一人として、完璧に律法を守った人は居ませんでした。

キリストの十字架は、律法を終りにしてくださいました。この終わりとは、お役御免で捨てられると言う意味ではなくて、その役割を成就した、と言う意味です。その役割とは、人の罪を自覚させ、その結果、キリストによって与えられた赦しときよめをいただく信仰へと導く、と言う意味合いにおいてです。
 
B.救いは身近にある
 
1.行いによる救いの限界(5節)
 
 
5 モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。
 
先の文節で5節の内容は既に説明しました。それは、律法による義、つまり自己努力の結果として救いを得る道についてです。これに限界があることは、今までしばしば強調されていますので、繰り返しません。
 
2.救いは高いところにはない(6節)
 
 
6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
 
救いというものは、私達の手の届かないほどの高いところにある、と考えると、だから、必死に努力して、這い上がって獲得しなければ、という勉励克己型の生き方、或いは奮闘努力の生き方を生みます。パウロは言います。自分を高める、つまり自己努力で救いを得ようとすることは、キリストが成し遂げてくださった十字架の救いの意義を薄めてしまう、または、無き者にしてしまうことなのです。それを補強するために申命記30:12を引用します「これは天にあるのではないから、『だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。』と言わなくてもよい。」と。これは、引用と言うよりも自由引用でして、申命記ではこの場所で、心を尽くして神を愛するようにという神の命令は難しいものではない、と強調しているのですが、パウロは、その精神を捉えて、救いは遠いところにあるのではないという意味で引用しています。主イエスが、十字架の犠牲という高いところに上って私達の罪を背負って解決してくださったのに、何故その高みに苦労して登るのですか、それは、キリストの犠牲を無いものと考える失礼な行動ではありませんかと言っているのです。

マルチン・ルターは、救いを得ようと、あらゆる修行に励みましたが、励めば励むほど、自分の罪深さ、弱さを自覚してノイローゼになってしまいました。そのとき、義人は信仰によって生きるという御言葉によって、信仰の開眼を経験するのです。
 
3.救いを深すぎる場所に考えてもいけない(7節):申命記30:13
 
 
7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
 
救いを深い場所に置く、ということは、救いというものを、深い思索の結果として得られるもののように、遠い位置に据えてしまうことです。誰でもが救われるわけではない、深い哲学的な思索と修業の結果として、少数の選ばれた者が得る悟りのようなものだ、という考えです。東洋には、仏教・ヒンズー教はじめ、このような思想が一般的です。しかしパウロは、救いを地の奥底に置くことは、人間の苦悩のどん底である死を経験されたキリストの深いみ業を無にしてしまうことだ、と言います。苦悩が悟りに通じるとすれば、これまた、人間を傲慢に導く危険があります。俺は、これだけの苦労をしてやっと救いを経験した、という証が自慢話になりかねません。

さて、ここでまた、申命記の自由引用がなされます。「また、これは海のかなたにあるのではないから、『だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。』と言わなくてもよい。」(30:13)
 
4.救いは身近なところにある(8節)
 
 
8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
 
パウロは続いて、申命記30:14を直接に引用します「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」と。申命記30章の文脈と、パウロの声明の強調点は多少異なるのですが、大意は同じです。救いは難行苦行の果てではなく、身近にある主イエスの存在を確認し、その約束の御言にすがることなのだ、というのです。
 
C.救いの道
 
1.告白と信仰によって(9-11節)
 
 
9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。
 
告白すべきことは、イエスは主であるということです。イエスは主、というのは初代教会の洗礼の時の信仰告白でした。ピリピ2:11にも、すべての人がひざをかがめ、もろもろの舌が「イエスは主」と告白する有様が述べられていますが、私達も一人ひとり、その信仰告白をもって入信し、教会の共同体に入るのです。さらに、毎礼拝信仰の告白を繰り返すことによって、それをしっかりと確認するのです。

信じるべきことは、神がイエスを死者の中から甦らせて下さったことです。「心で」とは、全人格的な行為、意思を用いての決断です。単にイエスが私達の罪を背負って十字架にかかり、救い主となってくださったというのに留まりません。彼が神であり、贖いを完成してくださった証拠に、死の中から甦ったことを頷くことです。もっと言えば、今生きておられるお方として認め、より頼むことです。

次の節の「呼び求める」という行動も、実はこの告白と信仰につながっています。呼び求めは、ひとつの祈りの表れです。自分の無力さを自覚し、全能である主を呼び求めることです。呼び求め方に上手・下手はありません。ただ呼び求めればよいのです。あの人のようなかっこよい証ができなくてもよいのです。ただ真実に率直に主を呼び求めましょう。

告白と信仰は二つの行為ではなく、信仰という心の営みの外側への表現が告白です。信仰は、心で受け入れること、頷くことであります。これは二つの別々な行動のことを表わしているのではありません。心の中で信じていることを公に告白すると、その信仰が確認され、強くされるという意味で繰り返されているわけです。これは、入信のときだけではなく、毎日のデボーションで確認される必要があります。「イエスは主」と主を仰ぎ、「私はあなたの僕です」と自らの位置を確認することから、一日が始まります。
 
2.すべての人は同じ条件で(12-13節)
 
 
12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
 
このキリストの救いに関しては、人種の差は問題となりません。すべての人に同じ条件で救いが提供されます。それは、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ヨエル2:32)からです。永遠の救いの門は、人種や性別や、社会層の違いを一切乗り越えて、すべての人のために広く開かれています。実際、ペンテコステの朝、このヨエルの言葉を引用してペテロは大衆に説教しましたが、それに応じて、5千人が救われました。

救いのための条件はただ一つ、キリストを主と仰ぐことだけです。修養も、訓練も、予備知識も、この際まったく必要ありません。単純な信仰を持って主に近づこうではありませんか。
 
終わりに
 
 
あなたはキリストを主と信じておられますか?その告白をなさいましたか?その告白を毎日繰り返しておられますか?
 
ご一緒にお祈りを致しましょう。