礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年5月27日
 
「私の霊をすべての人に注ぐ」
ペンテコステに臨んで
 
竿代 照夫牧師
 
ヨエル2章12-17,28-31節
 
 
[中心聖句]
 
 28  その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
(ヨエル2章28節)

 
聖書テキスト
 
 
12「しかし、今、――主の御告げ。――心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」13 あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。14 主が思い直して、あわれみ、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう。15 シオンで角笛を吹き鳴らせ。断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。16 民を集め、集会を召集せよ。老人たちを集め、幼子、乳飲み子も寄せ集めよ。花婿を寝室から、花嫁を自分の部屋から呼び出せ。17 主に仕える祭司たちは、神殿の玄関の間と祭壇との間で、泣いて言え。「主よ。あなたの民をあわれんでください。あなたのゆずりの地を、諸国の民のそしりとしたり、物笑いの種としたりしないでください。国々の民の間に、『彼らの神はどこにいるのか。』と言わせておいてよいのでしょうか。」
28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。30 わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
 
はじめに
 
1.ペンテコステの意味
 
 
今日は、ペンテコステです。ペンテコステとは、字義通りには「第五十」という意味です。イスラエルでは、過越しの祭りから第五十日目に当たる日を始まりとして、特別なお祝いをし、麦の収穫の感謝を祝うお祭りをしました。これが、7週目の祝いと呼ばれるものです。ちょうどこのペンテコステの日に、10日間の祈りを終えた12弟子とその周辺の人々に、約束されていた聖霊が降臨し、弟子たちは新しい力に満たされて伝道を行い、一日で3千人が救われ、教会が誕生しました。すべてが枯渇しているかのように見える時代にあって、新しい聖霊の注ぎを期待したいものです。
 
2.旧約時代の聖霊のお働き
 
 
このペンテコステにおける聖霊の注ぎは、ある日突然振って沸いたように起きた出来事ではなく、旧約聖書に予言され続けてきた事の成就として起きたことなのです。そもそもから言いますと、聖霊の働きは創造の出来事(創世記1:2、2:7)から始まっていました。そして、すべての時代に、聖霊は個人にもグループにもずっと働き続けておられました。ただし、キリストの贖いが成就するまでは、そのお働きは限定的でした。

@対象について:すべての人というよりも、限られ、選ばれた人々に働いておられました。ダビデに聖霊が臨んだとき、サウルからは離れた、としるされています(1サムエル16:13,14)。これは旧約時代における聖霊の限定的なお働きの例です。

A深さにおいて:大きな力を賦与することがあっても、その人の人格的改変に及ぶ例が少なかったのです。例として、サムソンを挙げることが出来ましょう。サムソンは御霊に満たされて子山羊を裂くのと同じくらいやさしくライオンを引き裂いてしまいました(士師14:6)が、その大きな力は、女性に弱いサムソンの性格を変えるまでには至っていませんでした。

その中にあって、聖霊がすべての人々に注がれること、その聖霊は人の心の深いところに働いて、私達の心を神に結びつけると予言したのは、エレミヤやエゼキエルでした。特にエゼキエルの予言を引用します。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」(エゼキエル36:26、27)今日取り上げるヨエルは、同じ方向での予言を行うのですが、時代的にはエゼキエルよりも遥か前に活躍した人物です。
 
3.ヨエルの預言
 
 
@ヨエル:彼の名前の意味は、「主は神」です。1:1に父の名がペトエルと紹介されているだけで、それ以外は分かりません。ただ、記されている預言の内容から判断して、BC830頃のユダ王国のヨアシの時代ではなかったかと思われます。

Aイナゴの大被害:ヨエルの時代に、蝗の大被害(1:4)が発生し、イスラエルは痛めつけられました。蝗が大発生すると、空が暗くなるほどの蝗で覆われます。緑という緑、木の皮、着物さえも食い尽くされてしまいます。預言者は、この現在的な大被害の中に、外敵の来攻と侵略によるより恐ろしい将来の危険(1:6;2:4-5)を見ました。そのような災害は、神に対する不服従への刑罰として、また、警告として与えられる、と預言者はいうのです。17節の「彼等の神はどこにいるのか」という揶揄はイスラエル民族が主にしたがった生活をしていなかったことを物語っています。私達も、国民として、世界の市民として、多くの課題を抱えています。地球環境の破壊、大気汚染、温暖化、それらによって齎される飢饉、その他の深刻な影響を受けています。国民的な道徳の低下は覆うべくもない事実です。ヨエルの時代以上に、国民的リバイバルが必要とされています。

B悔い改めへの呼びかけ:ヨエルは国民的悔い改めを説教し、それによってなされる国民的な回復を予言しました。真実な悔い改めがなされるとき、神も思いを変えなさる(悔い改める)ことを覚えたいものです。ヨナの伝道を通してニネベが悔い改めたとき、神もご計画を変えなさったと記されています(ヨナ3:10)。

C祝福の約束:悔い改めがなされることを前提として、ヨエルは先ず、物質的祝福を約束しました。それは三通りであって、
 a)豊かな収穫(19-27節):穀物、葡萄酒、油、牧草、すべての農業の分野で豊作が来る
 b)外敵からの守り(20節):北からの敵が撲滅される
 c)霊的な祝福=聖霊の注ぎ(28節)
が約束されています。それが聖霊の注ぎです。今日は聖霊の注ぎに焦点をあてます。
 
A.聖霊が注がれる
 
1.聖霊はすべての人に注がれる(28節)
 
 
先ほど言いましたように、すべての人に聖霊が注がれる、という思想は旧約時代には例外的でした。民数記11:29には、モーセが、すべての人に聖霊が注がれて、すべての人が預言者となればよいのに、と祈っているところがあります。実はこれは、革命的な思想でありました。

その「すべて」を強調するために、息子、娘、年寄り、若者、しもべ、はしため、と列挙されています。立場や、年齢や、性別や、社会的地位には全く関係がありません。もし、あるとすれば、真実に求めているかいないかだけが、その差をもたらすのです。「すべて主を呼び求めるものは救われる」と記されているからです。

これは、新約の時代に、神に選ばれたユダヤ人であるかどうか、自由人であるか奴隷であるか、男性であるか女性であるかを問わずに、キリストの恵みが豊かに注がれるそのすばらしい出来事の予言です。神の恵みは、夏のスコールが、すべてのものに等しく注がれるように、今ここにいるすべての人に等しく注がれます。教会に長く通っているとか、どれくらい奉仕したとか、献金したとか、全く関係ありません。背景や、履歴も全く関係ありません。神の目の前には、すべての人は、価値高い、尊い存在なのです。
 
2.それは「注ぎ」であるル
 
 
ヨエルは、聖霊が注がれると予言しています。注ぐと言う行為は、聖霊のお働きが制限なく、豊かに、フルに私達に与えられることを意味します。僅かの分量が振りかけられるような祝福ではなく、南方のスコールのように全身が浸るほどの徹底的な満たしです。中途半端な業ではなく、私達の心に注がれる、私達がその恵みに浸る、という行為です。具体的にいえば、聖霊の思いが私達の思いとなり、聖霊の願いが私達の願いとなるまでに一体化することなのです。例が具体的過ぎるかもしれませんが、魚の粕漬けなどを頂くことがあります。酒粕のうまみと言うものが、長い時間を掛けて魚の肉に浸りまして、得も言われないほどの美味となります。私達の性質が、御霊の感化によってひたひたに浸されて、得も言われないほどのキリストの美味を蓄えるのです。
 
3.それは顕著な徴と力をもって臨む
 
 
この場合は夢、幻、預言といった表われが指摘されています。夢、幻、預言に共通する要素は何でしょうか。それは、神のみ心が、曖昧な形ではなく、はっきりと示され、それに従う民が多く起されることです。勿論、このような現象が文字どおり成就したのは、ペンテコステにおいてでありました(使徒2:16-21)。この時、ペテロとその仲間達は、キリストの福音のすばらしさを、明確なことばを持って、しかも大胆に語ったのです。そして、そのような顕著な聖霊の注ぎは、教会歴史の中で繰り返されてきました。それをリバイバルということばで表わすことができます。18世紀のイギリスにおいて、それは大きな運動となりました。19世紀のアメリカにおいて、リバイバルは社会を動かす運動として、新しい国づくりに貢献しました。日本でも、プロテスタントの宣教がなされた初期に横浜で、札幌で、熊本でリバイバルが起きました。第二次大戦の前に、ホーリネス教会を中心に、リバイバルが起きました。そして、霊的に枯渇しきっている今こそ、その恵を最も必要としている時代ではないでしょうか。
 
B.聖霊の注ぎの時
 
1.「その後」=終末論的な「主の日」
 
 
28節でヨエルは、「その後」私がその霊を注ぐ、と予言していますが、「その後」とは何でしょうか。27節まで述べられている「様々な祝福が与えられた後」とも解釈できますが、これをギリシャ語に翻訳した70人訳は「末の日に」といって、特別な時代を意味しています。これは、神が格別な力を持って働き給う特別な時代、または日のことで、終末論的な「後の日」を指しています。具体的には、キリストの来臨に関わる日のことです。ヨエルは「主の日」(=主が顕著に働き出なさる日)ということばを使い始めた最初の預言者ですが、そうした、終末思想を示しています。メシアの来臨によって実現する神の王国の時代に、と言う意味で、キリストの来臨以降の現代を含む時代です。
 
2.ペンテコステの日=贖いが成就し、その恵みを注ぐ日(ヨハネ7:38,39)
 
 
この予言は、具体的に言えば、ペンテコステにおいて成就すべきものでありました。なぜそれまで待つ必要があったのでしょうか。それは、キリストによる贖いが文字どおり歴史の中で実現しなければければならなかったからです。ヨハネ7:38,39に「イエスは未だ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかった」とあるのは、その意味です。つまり、神の側における準備が整うのにはペンテコステ迄待たなければならなかったのです。水道に水を注ぐ前に、配管工事がなされなければならないように、聖霊の注ぎの前に、救いの備えが十字架によって完備されなければならなかったのです。ペンテコステは、その50日前にキリストが十字架にかかって贖いを成し遂げ、復活によってその贖いを保証し、その40日後キリストが天に昇り、神の右に座し、約束の御霊を人々に注ぐというインフラの完全な準備を完了された後に起きた出来事だったからです。その前でも後でもいけませんでした。丁度この日でなければならず、この日がベストタイムだったのです。
 
C.聖霊の注ぎの条件
 
 
それは真実な悔い改めである。
 
1.神に立ち返ることである(12節)
 
 
聖霊の注ぎは、真実な悔い改めを前提条件とします。それが、12節にも知らされています。「悔い改め」(ヘブル語のシューブ)とは方向を変えることです。悔い改めとは、心、性格、思想、生活、行動における方向の転換です。神に背き、神をないがしろにした心と行動を止めて、神を畏れ、神に従う心と生活に立ち返ることです。イスラエルの荒廃は、悔い改めによってのみ止められるのです。私達の祖国の荒廃も、私達の真実な悔い改めによって留められるのです。
 
2.心からの嘆きをもって(12,13節)
 
 
悔い改めは、単なる方向転換ではありません。断食と涙と嘆きを伴うものです。嘆き(ナカム=悔いる、ため息をつく)をもってとは、自分の過去や現在の有様について深い申し分けなさを感じ、それを表わすことです。「着物ではなく、心を裂け。」とは、外面的な形式的な「ごめんなさい」というリップサービスではなく、罪の償いをどんな代価を払ってもしますよ、という砕かれた心なのです。衣を裂くことが儀式的な浅薄さを表すケースが多かったものですから、ヨエルは「心を裂け」=砕かれなさい、と勧めるのです。15-17節には、もっと詳しく、一人ひとりが真実に砕かれなさいと説くのです。ザアカイは、イエス様によって愛が示されたとき、自分の過去の過ちを具体的に償うように導かれ、実行しました。
 
3.個別的で、国民的
 
 
1:8-13には、個別的な断食、悔い改めが示唆されています。罪が一人一人から始まるように、悔い改めは、一人一人の心から始まります。今誰彼を責めるのではなく、私は一体神の前にどのような心と生活のありようであろうかと、心を探り、改めるところを改めましょう。2:15は、集合的悔い改めの勧告です。シオンで悔い改めの集会を開きなさい、誰も言い訳をしないで、皆集まりなさい。というのがこの集会の召集の強さです。特に新婚のカップルも例外とはしませんよ、というところにその徹底した悔い改めの必要が伺えます。祭司も、老人も、子供も、若者も、すべての層が集まってこそ、集合的である。教会として、本気になって神の恵を乞い求め、神の大きな業を期待するには、皆が揃って神の前に出る、こういった真実な姿勢が必要なのです。すべての人に聖霊が注がれる前提は、すべての人の悔い改めです。この個別的かつ集合的悔い改めがなされるときに初めて、すべての人への聖霊の注ぎが可能となるのです。
 
おわりに
 
 
12節の「しかし、今」という言葉の中に、望みが絶たれていない神の憐れみを見ます。RSVは “yet even now”(しかし今であっても尚)と訳しています。個人の人生でも、もうすでに破壊されていて、回復の望みがないとあきらめている人はいないでしょうか。どんな人でも、神において「手遅れ」ということはありません。望みを主に繋ぎましょう。国家についても、今でも、という言葉によって望みを保ちましょう。 今でも遅くはない神の憐れみが伸ばされている、今がbest timeである、と言うことを覚えましょう。今を逃してはなりません。今しなければ、取り返しのつかない結果が生じます。今というときを大切にしましょう。
 
お祈りを致します。