礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年6月3日
 
「福音を伝える足」
ローマ書連講(32)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙10章9-21節
 
 
[中心聖句]
 
 15  良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。
(ローマ10章15節)

 
聖書テキスト
 
 
9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
18 でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」
19 でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」20 またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」
21 またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」
 
はじめに
 
 
1.昨週はペンテコステでしたので、連講から離れて、ヨエルの預言を取り上げましたが、今日からまた、ローマ書の連講に戻ります。前回は「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(ローマ10:13)から、すべての人に及ぶキリストの救いについてお話しました。

2.今日は、これに関連した二つの疑問への答えです。第一は、すべての人に及ぶ筈の福音が宣べ伝えるものの不足によって妨げられないかと言う点、第二は、福音を聞いてはいるが、受け入れない場合はどうなるか、と言う点です。
 
A.すべての人に及ぶ福音(9-13節)<復習として>
 
 
9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
 
この部分は前回取り上げましたので、今回は要約をするのに留めます。
 
1.救いに与る道筋
 
 
ここでは救いに与る道筋が示されます。

@第一は告白です。告白すべきことは、「イエスは主である」と言うことです。イエスが十字架にかかり、救いを成し遂げた救い主であり、私の人生の主人であり、私はその僕であることを、人生のどこかではっきりと言い表し、それを継続することです。

A第二は、「信じる」ことです。告白と同じことですが、信じるのは心の内側の問題、告白はその外側への行動です。信じるべきことは、神がイエスを死者の中から甦らせて下さったことです。イエスが神であり、贖いを完成してくださった証拠に、死の中から甦ったことを頷くことです。もっと言えば、今生きておられるお方として認め、より頼むことです。
 
2.救いの範囲
 
 
この救いに関して、人種や性別や、社会層の違いは、一切関係ありません。ここが福音の福音たる理由です。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ヨエル2:32)からです。永遠の救いの門は、実際、ペンテコステの朝、このヨエルの言葉を引用してペテロは大衆に説教しましたが、それに応じて、3千人が救われました。
 
B.福音を伝える責任(14-15節)
 
1.福音伝達、五つのステップ
 
 
14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。
 
救いはすべて信じるものに与えられる、と言う大原則が明らかにされた後の第一の質問は、その福音はどのように伝達されるのですか、というものです。これについてパウロは、幾つかの質問を繰り返しながら、福音伝達について、5つのステップを順々に説いていきます。福音はすべての人のために開かれているのですが、実際には、信じない大勢の人々がいる。この人々は、その5つのステップの内、どれが欠けたのかという問題を扱うのです。パウロが書いている順序は、

@呼び求める←信じる(呼び求めるという行為は、信じることから起きる)
A信じる←聞く(信じるという行為は、聞くことから起きる)
B聞く←宣べ伝える(聞くという行為は、宣べ伝えることから起きる)
C宣べ伝える←遣わされる(宣べ伝えるという行為は、遣わされることから起きる)

と言うことなのですが、実際に起きる順序で言いますと、C,B,A,@です。つまり

@神が伝道者を遣わしなさる
A伝道者が福音を宣べ伝える
B宣べ伝えるものがあるから、聞く人が起きる
C聞く人の中から信じるものがおきる
Dそして、信じるものが、神を呼び求める

と言う具合に繋がっているのです。
 
図 @
 
いわば、これは図@で示す階段のようになっていて、その一歩ずつが大切なのです。95歳になっても階段を飛び越えて登っていく日野原重明先生のような方もおられますが、救いに関しては、この順序が一歩ずつ踏まれるのが常道です。

私の家庭に、この図式を当てはめて考えます。

@私の父の伯母が一足先に信仰を持ち、結核で苦しんでいる甥に福音を伝えなければと言う重荷が与えられました。彼女は、神に遣わされて茨城県桜川村の甥(私の父)を訪ねました。神に遣わされたのです。
A彼女は、福音を伝えました。「靖さん、教会に行きなさい。キリストのもとに解決できない問題はありませんよ。」そして、小さな新約聖書を与えました。扉のところに、『読んでください、信じてください、実行してください』と記したのです。
B父は、教会に行き、福音を聞きました。当初はさっぱり分かりませんでしたが、何回か通い、牧師と面談をして、罪とは何か、キリストの救いとは何かが分かりました。
Cその晩、キリストを彼の救い主と信じました。
Dかれは、その信仰を告白して家に帰りました。彼は生まれ変わりました。神は彼の魂を救い、肉体の病も癒してくださいました。暫くして、洗礼を受け、その信仰告白を公に行いました。

さて、パウロの関心は依然ユダヤ人です。彼らは、どのステップで、どう躓いたのでしょうか。これは、この後明らかにされます。
 
2.福音を伝えるものの光栄と喜び
 
 
15b 次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。
 
ステップにおける躓きに入る前に、パウロは、福音を伝えると言う、すばらしい、光栄に満ちた務めについて、イザヤ52:7を引用します。イザヤ書 52章は、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放され、神の大いなる救いを喜び楽しむ姿が描かれています。その喜びを伝えるメッセンジャーがイスラエルを経巡っている姿を描いているのは7節です。「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は。」福音を伝えるものの足は、喜びに踊っています。この福音によって人々が喜びを味わうことが分かっているからです。

私達はケニアでエバンジェリズム・エクスプロージョンという個人伝道を致しました。毎日曜の午後、兄弟姉妹たちと、テクテクと歩いて一軒また一軒と訪ね歩き、福音を伝えるのです。50過ぎてからは正直辛いなあと思うこともありましたが、イエス様を救い主と受け入れる方が起きると、疲れもものかわで、踊るように帰ってきたことを懐かしく思い出します。
 
C.福音を聞いたものの責任
 
1.福音は全世界に拡がっている(16-18節)
 
 
16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。18 でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。
 
・福音の言葉も前世界に鳴り響いている
パウロの語っている順序を少し変えてお話しします。18節から読み始めたほうが分かりやすいと思いますので、そうします。「でも、こう尋ねましょう。『はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。』むろん、そうではありません。『その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。』」

人々に福音のことばは言い広められたことが、詩篇から語られます。19:4「しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。」詩篇19篇は、自然界が神の栄光を表すと言う思想が展開されているところです。そのメッセージは限られた人間の言葉ではなくて、神の呼び声として全地に鳴り響いているというのが4節です。パウロはこれを福音の言葉も全世界に鳴り響いているという思想として述べています。

事実、パウロは、世界中に散っているユダヤ人(これをディアスポラと言いますが)がその社会を形成している主だった町には、その会堂に先ず訪れて福音を伝えました。残念ながら、受け入れたユダヤ人は少数で、それと比較にならないくらい大勢の異邦人がキリストを受け入れたわけなのですが・・・。

・すべての人が信じたのではない
16節に戻ります。17節に記されているように、信仰は、キリストの御言を聞くことから始まりますが、聞いたものがすべて信じるかというと、そうではありません。そのことがまた、イザヤ書の引用で確かめられます。今度は53章1節です。

イザヤ書53章と言えば、受難のキリストを予言した有名な場所です。その「受難の救い主」というアイデアは、イザヤ自身を含め、多くの人には、信じがたいものでした。ですから、冒頭の1節は、「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。」という疑いの響きから始まるのです。十字架にかかったお方が救い主であると言う福音のメッセージは、このように一般常識、特にユダヤ人の常識では受け入れ難いものでした。
 
図 A
 
これを、全世界に届くように送られている放送に譬えることが出来ます。強力なアンテナで、世界中どこででも聞くことが出来るような電波が送られています。それをキャッチすることが出来るようなラジオも配られているとしましょう。しかし、残念なことは、少数の人々だけが、そのラジオ放送を聞き、救われますが、多くの人はラジオのチューナーを合わせないで、聞こうともしないという状態なのです(図のAを参照)。

いずれにせよ、パウロの聖書知識の豊富さに驚かされます。彼は、聖書を丸暗記していました。ですから、自分の思想を補強するものとして、聖書を一々開けるのではなく、店の戸棚を自由に開ける薬屋さんのように、必要に応じて聖書を次々と引用したのです。恐ろしいほどですね。
 
2.異邦人が先ず救われた(19-20節)
 
 
19 でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」20 またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」
 
・応答したのは異邦人
福音が先ず届けられたのは、イスラエルに対してであったのですが、応答したのは何と異邦人が先でした。その事実を、再び旧約聖書から補強します。

申命記32:21「彼らは、神でないもので、わたしのねたみを引き起こし、彼らのむなしいもので、わたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう。」

これは、一種の報復です。イスラエルが神でない偶像を神として拝んだために、神の嫉妬を引き起こしたように、神は、「民でない者」(直訳では、not-people=神の契約を引き継いでいない民、つまり異邦人)を引き上げることによって、イスラエルにねたみを起こさせる、というのです。もう一つここから分かることは、イスラエルの反抗・不信仰は、キリストの時代に始まったことではなく、モーセの時代からもずっとそうだったということです。

・方向違いの「かくれんぼ」
かくれんぼの遊びをしているときに、鬼が隠れている子供達を捜すわけです。その時に鬼ごっこをしていない別の子供達が、見つかったと名乗りを挙げたら、ゲームはおかしくなってしまいます。丁度そのようなことが、神と異邦人の間に起きてしまったのです。

イザヤ65:1「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ。』と言った。」イスラエルの反抗はイザヤの時代もありました。悲しい事実です。逆説的ですが、それに反して、特に主を一生懸命求めたわけでもない異邦人が、(実はその無欲と謙りの故に)先に救いを見出してしまったのです。
 
3.イスラエルの反抗(21節)
 
 
21 またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。
 
図 B
 
これもイザヤ書の引用です(図のBを参照)。「わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。」(イザヤ65:2)

この「手を伸べる」とは何の手なのでしょう。憐れみと省みの手なのでしょうか。それとも、怒りと裁きの手なのでしょうか。私は前者であると思います。どんなに反抗的な人々であったとしても、主はその忍耐をもって、一人ひとりの立ち帰るのを待っておられます。イザヤは「一日中」と記していますが、実際は「一日中」どころではありません。何年も、何千年も、神は愛と忍耐と優しさを持って反抗するもの、そっぽを向くもの、へそを曲げるもの、わざわざ神の恵みを無視して自分の道を主張するものを、叱ることなく、「待っているよ、帰っていらっしゃい」と諸手を拡げて待っておられるのです。その憐れみ、その忍耐が無かったなら、私などはとっくの昔に滅び去っていたことでしょう。神の憐れみは、不信仰、不服従のイスラエルに対しても、拡げられていました。今も拡げられています。イスラエルだけでなく、当然、異邦人である私達一人ひとりにも及んでいます。
 
おわりに
 
1.私達も福音を単純に受け入れよう
 
 
もし、まだ、福音を聞きながら、どうしようかと迷っている方がおられますか?単純に福音を信じ、キリストを主と告白しようではありませんか。
 
2.福音を伝える足となろう
 
 
福音を既に受け入れた人々に申し上げます。私達は、福音を伝える足となりましょう。手でもなく、口でもなく、足と記されているところが面白いですね。私達が足を使って、良きおとずれを待っている人々の所に出かける具体的な行動を示唆しているように感じます。来週、恒励会の伝道会があります。足を使って、或いは電話を使って、手紙を書いて、良きおとずれを伝えましょう。
 
お祈りを致します。