礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年6月10日
 
「神の逆転劇」
ローマ書連講(33)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙11章1-12節
 
 
[中心聖句]
 
 12  彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
(ローマ11章12節)

 
聖書テキスト
 
 
1 すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」4 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」5 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
6 もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。7 では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。8 こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」9 ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。10 その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」
11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
 
はじめに
 
 
1.昨週は「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」 (ローマ10:15)から、キリストの救いをすべての人に宣べ伝えよう、というテーマでお話しました。

2.今日は、福音を拒んでいるイスラエルに対する神の大きな御心について学びます。
 
A.すべてのイスラエルが退けられたのではない(1-5節)
 
 
1 すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」4 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」5 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
 
1.悲痛な疑問:神はイスラエルを徹底的に退けなさったのか(1節a)
 
 
十字架の事実:
パウロがこの質問をしなければならなかった背後には、悲しい現実がありました。第一、主イエスは、ユダヤ人によって十字架につけられました(マタイ27:25)。

エルサレム教会への迫害:
更に、ユダヤ教の中心地であるエルサレムにおいて発祥したエルサレム教会は、同族による厳しい迫害に曝されていました(使徒8:1)。パウロがサウロと呼ばれていた頃、そのサウロが中心であった迫害の動きはサウロの回心によって小休止はしたものの、その潮流はずっと続いていました。実際、パウロはこの手紙を書いた直後にエルサレムに戻るのですが、そこで捕縛され、殺されそうになったほどです(使徒21:27-31)。

ユダヤ人ディアスポラによる迫害:
パレスチナ以外のローマ帝国の諸都市にディアスポラとして住んでいたユダヤ人はどうだったでしょうか。パウロが伝道に訪れた最初こそ、ユダヤ会堂(シナゴーグ)の礼拝説教をパウロに委ねましたが、そこでパウロが明確なキリストの福音を伝えるに及んで、大部分のユダヤ人は反発し、迫害に回りました(使徒13:14-16、44-50、14:2、17:5、13、18:5-6、12-13)。福音に対するユダヤ人の拒絶を、神の側から説明すると、「神がユダヤ人を退けなさった」と言えます。本当にそうなのでしょうか?

<日本の状況は?>
私は日本民族を考えるとき、これに似た気持ちを持ちます。日本人の99%以上がキリストを受け入れていません。それだけではなく、クリスチャンであることは、日本人であることと相容れないと言うような排外的な雰囲気すら感じます。私は自分のことを100%愛国的な日本人であり、日本を誇りに思う気持ちは誰にも負けません。同時に、その99%以上がキリストを受け入れていない現状はどんなに痛みであり、悲しみでありましょうか。その悲痛さは、パウロに劣るものではありません。
 
2.励ましの答え:神の選びによって残ったものがある
 
 
パウロ自身がその例:
パウロは、自分が提出した質問に自分で答えます。パウロは、先ず自分を見ます。神がイスラエルを全部見棄てなさるならば、自分も見棄てるはずではないか、しかし、自分は神の選びの中に留められている、というのです。その表現が、「絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。」というものです。イスラエル人とは、神の選びの民であることを表わします。アブラハムの契約と祝福を受け継ぐ子孫で、しかも、イスラエルの初代の王様であったサウル王と同じ部族に属するものだ、というのです。これは、自分の生まれを誇っているのではなく、自分こそ正統的なユダヤ人であり、本流を行くものだ、その正当なユダヤ人が、同時にクリスチャンでありうるのだと言う主張を行っているのです。

エリヤ時代の7千人:
次にパウロは、聖書の中から励ましの言葉を見出します。私達も、複雑な人生の諸課題で悩むとき、色々な疑問を持ってしまいます。その時に、パウロに倣って、神の御言に答えと慰めを見出す訓練を学びたいものです。さて、パウロの答えはエリヤの出来事に見出されます。アハブ王とイゼベル王妃の後押しでバアルという偶像教が国中を支配し、真の神を信じるものが完全に滅ぼされてしまったと見えた時、エリヤは孤軍奮闘バアル教との戦いを挑みます。エリヤは戦いには勝つものの、王妃イゼベルの脅しにあって、すっかり落ち込んでしまいます。第一列王19:4を見ると、エリヤは自分の死を願って「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。」と泣き言を言います。さらに10節では、「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」と文句を言います。それに対して主は、エリヤの改革の後継者を備えることを約束し、最後に、「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(19:18)と付け加えます。

ここでのパウロの意図は明らかです。イスラエルの殆どが王や王妃の圧力で真の神を見棄ててしまったように見える状況でも、神は、ご自身に対して忠実な人々をしっかりと確保しておられる(事実に即して言えば、真の神に忠実な人々がしっかりと残っている)という事実から、キリストの福音に対して全く心を閉ざしているように見えるイスラエルの民の中にも、自分の罪を認め、謙って福音を受け入れているユダヤ人クリスチャンがしっかりと存在している、と言うのです。もっと言えば、それがイスラエルの回復のカギなのです。イスラエルの総人口は、ダビデ時代の国勢調査によると、北イスラエルで戦闘員が110万人と言いますから、女性・子供も入れると200万人余りであったことでしょう。その内の7千人とは、0.3%です。今の日本のクリスチャン人口より低い数です。

<「1%しかクリスチャンがいない」のか、「1%もいる」のか>:
日本には、1%しかクリスチャンがいない、という悲観的な物言いをする方が多くいます。正にそれは悲しい現実です。でも、私達がこのように聖日礼拝を守っている同じときに、27.7万人以上の主にある兄弟姉妹が、この国において同じ主を崇めているという事実を励ましとして捉えたいと思います。確かに比率から見れば小数です。でも私は、powerful minority だと思います。私達がバアルに膝を屈めず、バアルに口づけしないだけではなく、キリストにある喜びに満ちている限り、潮流は変わります。09年9月に、札幌で日本伝道会議が持たれ、私はプログラム作りの責任者にさせられてしまいました。私は、大風呂敷は広げなくても、現在なされている「地道な働き」を応援するような、そんな会議にしたいと願っています。実は、その地道な働きこそが、潮流を変える結果を齎すものだと思います。お祈りください。
 
B.選びと滅びの分かれ目(6-10節)
 
 
6 もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。7 では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。8 こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」9 ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。10 その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。
 
1.選びは神の恵みによる
 
 
神の選びは、人間の行いの良し悪しによるものではありません。もしそうであるとすると、選ばれたことに関して、誇りを持ってしまいます。例えば、私がオリンピックの水泳選手に選ばれたとしましょう。それは、当然ながら、オリンピックの標準記録を超え、しかも国内での幾つかの選手権に勝つという資格を経てのことです。そのためには血の滲むような努力が必要です。ですから、オリンピックに選ばれると言うことは、それ自体誇らしいことなのです。

では、私達が救いの中に選ばれたと言うことは、オリンピックの代表に選ばれることと同じでしょうか。いいえ、全く違います。パウロはそれを行いによるのではなく、恵みによるのだ、と言います。恵みとは、受けるに相応しくないものに与えられる神の顧みのことです。私達が相応しくないものだからこそ与えられるのです。もっと言いますと、相応しくないものだ、という自覚が徹底している人に与えられるのが恵みです。

行いの要素が少しでも混じってしまいますと、恵みが恵みでなくなります。自動車のバッテリーの水が少なくなると、蒸留水を加えます。蒸留水と言うのは、自然の水と違って、純粋なH2Oです。そこに混ぜ物を入れたら、H2Oでなくなります。おお、私達は如何に、「恵みプラス何か」として、恵みを損なってしまうことでしょうか。恵みプラス努力、恵みプラス自己規律、恵みプラス教養という風に恵みに混ぜ物をすることで恵みを損なうのです。私達が救われるのも、保たれるのも、きよめられるのも、キリストらしい品性に作られるのも、みんな恵みによるのです。恵みに徹するのは、自分の弱さを徹底して自覚するときだけです。
 
2.滅びへの道は人間の頑なさによる
 
 
イスラエルは、救われることを真剣に求めていましたが、獲得することが出来ませんでした。なぜでしょうか。パウロは一言で説明します。彼らの頑なさの故であると。ここでは「かたくなにされた」と受身で記されていますが、実際には自分で心を固くした、その背後には神の御図りと御許しがあったと言っているのです。そのことが以下二つの聖書によって裏付けられます。

(1)出エジプト時に示されたイスラエルの頑なさ:
最初は申命記29:4です。「主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。」これは、イスラエルが出エジプトの時に数々の奇跡的なみ業を見たのに、真の神に従おうとしなかった、その頑なさを嘆いているところです。神に原因があるような言い方ですが、神がイスラエルに頑なな心をわざわざ与えなさったわけではありません。頑なさに留まることを許しなさっただけです。

(2)反キリストの勢力の存在:
次は詩篇です。「彼らの前の食卓はわなとなれ。彼らが栄えるときには、それが落とし穴となれ。彼らの目は暗くなって、見えなくなれ。彼らの腰をいつもよろけさせてください。」(詩篇 69:22,23)この「彼ら」とは、ダビデに逆らい、たてつこうとする反逆の勢力のことです。ダビデはキリストの型と考えられますから、キリストに逆らう勢力の存在を予言したものと見ることが出来ます。
 
C.イスラエルの失敗の目的(11-12節)
 
 
11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
 
1.イスラエルの躓きは、異邦人の救いを齎した
 
 
イスラエルが、その頑なさの故に、提供されたキリストの福音を受け入れず、かえって躓いてしまったのは、大きな悲劇でしたが、それを悲劇に終わらせず、それを更なる栄光ある目的のために用いなさったのは神の知恵です。パウロはここで逆転的な発想を示します。実はこの逆転的発想は、聖書を貫いている歴史哲学ともいえます。十字架と言う人間の悪意の結晶を救いの道と変えなさったということに代表されるように、ユダヤ人の拒絶が、異邦人の救いとなったと言う、「神の皮肉」と言いましょうか、神の懐の深さと言いましょうか、驚くべき逆転劇がここに見られます。

具体的に言って、これがどのように歴史的に展開されたのでしょうか。先ほどの「使徒の働き」からの数々の引用でお分かりいただけるように、これはパウロの実体験に基づいています。パウロが新しい町に行くときに、ユダヤ人会堂に入り、そこで福音を伝えます。ユダヤ人社会が少数のクリスチャンと多数の反対派とに二分されます。そして、パウロはその福音を喜んで受け入れた異邦人に向かっていくというパターンが繰り返されます(使徒13:46)。

異邦人が喜んで受け入れた理由は、二つであったと思います。一つは背景的なものです。異邦人は、ユダヤ人が持っていた真剣な神への傾倒、倫理水準の高さへの憧れを持っていました。これは、各地のディアスポラ・ユダヤ人が異邦人に与えていた良き証のゆえです。もう一つは直接的なものです。キリストの福音が齎すいのちと自由です。この二つの要素がマッチして、爆発的な福音受容に繋がったと思われます。悲しいことに、本家本元、福音の備えを何世紀にも亘って行ってきたユダヤ人が福音を受けいれ損なっていたのですが・・・。
 
2.(それならば)イスラエルの回復は、より大きな栄光を齎す筈
 
 
パウロは、ここでもう一つ積極思考を紹介します。つまり、ユダヤ人の拒絶という悲しむべき事実をグジグジと悲しんでばかりいたのではありません。彼らは躓いただけであって、完全に倒れたわけではなく、回復の希望があるのです。それが「妬みを起させて」という言葉の意味です。つまり、異邦人が福音を受け入れて喜びに満たされている姿を見て、福音の出所であったユダヤ人が、これはいけない、私達もあんな喜びに導かれたいと願うそれを、パウロは「妬み」と言い表したのです。

さて、ユダヤ人の(福音)拒絶という悲劇でさえも、大量の異邦人の福音受容という喜びに逆転し給う神であるとすれば、イスラエルが回復されるという喜ばしい出来事の後に待っているのは、すばらしい光栄に違いないと考えて、一人で喜んでいるのです。何と楽天的な男だろうかと私は彼の発想に驚くのみです。このくらい徹底的に楽天的に私もなりたいものと思います。
 
おわりに:日本の救いのために祈り続けよう
 
 
私達の国の現状を眺めると、悲しいこと、暗いこと、心配なことだらけです。自殺率は10年近く連続で年間3万人を越え、先進国では二番目という最悪な統計が、その状況を如実に示します。それでも、神の目から見ると、これらの悲劇が神の善なる目的に用いられることは、大いにありうることなのです。私達も、ですから、神の善を信じ、神の驚くべき逆転劇を信じて、感謝と共に祈りましょう。誰かの魂の救いのために祈り続けていますか。何事も起きないように見えても、主は働いておられます。信じて、希望を持って祈り続けましょう。
 
お祈りを致します。