礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年6月17日
 
「神の慈しみと厳しさ」
ローマ書連講(34)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙11章13-24節
 
 
[中心聖句]
 
 22  見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。
(ローマ11章22節)

 
聖書テキスト
 
 
13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。23 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。24 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。
 
はじめに
 
 
1.昨週は「彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。」(ローマ11:12)から、神の逆転劇という題でお話しました。イスラエルが福音を拒絶したことが、多くの異邦人の救いに繋がったということがその内容です。しかも、そのイスラエルが異邦人の救いをきっかけとして回復される、その時の栄光はどんなに大きいものか、ということがパウロの希望でした(12節)。

2.今日は、このテーマが拡げられます。同時に、恵まれている異邦人が、どんな心構えでいるべきかについて警告に満ちた勧めがなされます。
 
A.「逆転劇」におけるパウロ自身の役割(13-14節)
 
 
13そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
 
1.ローマのクリスチャンは殆どが異邦人
 
 
パウロは、この手紙の受け取り手であるローマのクリスチャンを意識して、発言を続けます。特に、ローマのクリスチャンの殆どはユダヤ人以外の人々(異邦人)から成り立っていると言う事情がありました。
 
2.パウロは異邦人への宣教師
 
 
パウロは、自分が異邦人への使徒であるという自覚を強くもっていました。実際に、48年のエルサレム会議に向けてバルナバと共に上京したとき、教会の柱であったペテロ、ヨハネ、(イエスの弟)ヤコブの三人と会談をし、自分達は主として異邦人に伝道する宣教師であり、その3人は専らユダヤ人に責任を持つ、と言う形で棲み分けをし、握手までしました。それは、ガラテヤ2:7-9に記されています。「7 ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。」これは、相互に働きの分野の違いを認め合った所です。パウロは無割礼の(者達に伝えられる)福音のエキスパートとして、ペテロ(その他の弟子達は)割礼の(ユダヤ人に伝えられる)福音のエキスパートとして、相互に認め合いました。その了解の基礎は、「働き給う神」でした。それぞれ自分の縄張りを決めたというのではなく、同じ神がパウロを異邦人への宣教師に任命し、ペテロをユダヤ人教会指導者として任命し、用い給うという共通認識を持ったのです。

このローマ人への手紙は、その8年後に記されていますが、その理解はずっと続いていたのです。
 
3.しかし、パウロは同胞ユダヤ人を救おうとした
 
 
さて、パウロは異邦人への宣教師としての自分の使命を強く自覚していましたが、そのことは、同胞であるユダヤ人に対する重荷を忘れていることではなく、その反対に、異邦人伝道こそがユダヤ人を救う道であると逆説的に考えていたのです。そのキーワードは「ねたみ」です。異邦人の多くがキリストの福音を受け入れて喜び輝いている姿によって、ユダヤ人が(良い意味での)羨ましさを感じ、それによってキリストの福音を受け入れるように、と切に願ったのです。

願っただけではなく、それをパウロは形で表わしました。それは、エルサレム教会救済募金運動です。パウロは、全世界のキリスト教会に訴えて、飢饉の苦しみにあるエルサレムの人々を救済しようという大募金活動を展開しました。その完成がこのローマ人の手紙の執筆(56年)直後のエルサレム行きで実現されました。ローマ15:27には、異邦人が霊的な祝福をユダヤ人クリスチャンから受けているので、物質的な形でお返しをする、という表現で、大募金運動の理由を説明しています。パウロがユダヤ人の救いと言っているのは、観念論ではなく、こうした非常に現実的な戦略を伴ったものでした。
 
<日本の宣教と海外宣教>
 
 
さて、私達の時代に、このパウロの原則を当てはめて見ましょう。多くの適用があると思いますが、その一つは、日本の教会が行う海外宣教です。クリスチャン人口が1%にも満たない日本が何故宣教師を送るのか、という疑問は、インマヌエルが海外宣教に着手した1960年代から繰り返し提出された質問です。それはある意味で尤もな質問です。しかし、私はパウロに倣ってこう言いたいと思います。「私達が海外に宣教師を送るのは、日本の教会のためでもあるのです」と。与えることは受けるよりも幸いです。海外に宣教師を送ること、祈り支えることで、私達は恵まれます。彼らの報告を伺うことで、視野を広げていただきます。世界の教会に連帯することが出来ます。私達は決して、海外宣教の働きを縮小してはなりません。
 
B.イスラエル回復の望み(15-16節)
 
 
15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
 
1.イスラエル回復は、「復活」に等しい奇跡
 
 
15節は、12節の「もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。」という思想を繰り返しています。12節では単に「すばらしい」という抽象的な言い方ですが、15節は「死者の中から生き返ること」つまり、復活と表現します。まさに、これはキリストの復活に比べられるほどの奇跡であり、驚くべき転換です。

具体的には、彼らの回復は何時起きるのでしょうか。メシアニック・ジューというグループがあります。キリストを信じるユダヤ人の集まりです。私も、シカゴで、そのような集まりを取材したことがあります。ユダヤ人としてのアイデンティティをしっかり保ちながら、キリストを救い主と信じている群れです。このような人々が多く存在していることは大きな励ましです。でも、まだ少数です。聖書の全体的な予言によれば、イスラエルの最終的な救いは、キリスト再臨の時まで待たねばならないのです。ゼカリヤの予言がその典型です。「12:9 その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。・・・ 13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。・・・ 14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。」
 
2.二つの譬え
 
 
イスラエルが最終的に救われることが、二つの譬えで示されます。

@初物と粉:これは、民数記に記されています。「その地のパンを食べるとき、あなたがたは主に奉納物を供えなければならない。初物の麦粉で作った輪型のパンを奉納物として供え、打ち場からの奉納物として供えなければならない。」(民数記15:19-20) 初物の麦粉で作った輪型のパンが収穫の感謝として神にささげられますが、それによって、後から続く麦粉すべてが清いものと考えられます。それと同じように、アブラハムなどの父祖達が聖い存在であったので、子孫達も清いものと考えられます。

A木の根と枝:この譬えも同様で、木の根とは、アブラハムの祝福で、枝はその伝統を受け継いでいるイスラエルのことです。今でこそ、不信仰の故に、神に捨てられているように見えるが、彼らには神の祝福が絶えず宿っているのだと言うパウロの信仰を表わします。
 
C.「接木された」異邦人に必要な謙り(17-21節)
 
 
17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
 
1.栽培オリーブと野生オリーブ
 
 
パウロはここで、「想定外で」救いに与ってしまった異邦人クリスチャンにたいして謙りを勧めます。ここで使われるのはオリーブの接木の譬えです。普通の接木は、野生に近い根や幹に、栽培種の若枝を接ぎます。渋柿に甘柿を接ぎ、野生に近いナスに品種改良されたトマトを継ぐようなものです。多分、農業を余り知らなかったパウロは、その逆を描いています。譬えの相応しさば別としても、その意味は充分伝わります。

栽培オリーブはイスラエルの姿です。良い実を結んではいたが、歴史の長さで段々衰えて、無結実に近くなりました。野生オリーブは異邦人です。元気こそいいけれども、余り良い実を結ぶことはありませんでした。栽培オリーブの枝は切り取られ、野生オリーブの枝が接がれました。野生の元気さと栽培オリーブの豊かな養分が結びついて、豊かな実を結ぶようになりました。枝も根も両方良い影響を受けました。福音を拒否したユダヤ人は、栽培種のオリーブから切り捨てられた枝として表現されています。
 
2.接木の枝は誇るな!
 
 
さて、この異邦人クリスチャンは、何も誇るところはありません。オリーブの豊かな根(イスラエルの豊かな信仰的な恵みの伝統)の恵みを頂いているからです。枝が切られたのは、自分が継がれるためだ、という言い分をパウロは否定していません。それは神の側から見てそういえるのであって、自分でそのセリフを言ってしまったらおしまいです。おめでたいこと限りありません。恵みは、文字通り「恵み」(価値なき者に与えられる神の顧み)として捉えなければなりません。「恵まれている」と証することで誇りに陥ってしまう危険もある、ということをパウロは警戒します。イスラエルのすばらしい伝統や、先にクリスチャンになったユダヤ人の豊かな恵みを受け継いでいると言う謙った自覚が大切です。

しばしば私達の生活でも、クリスチャンである故に信頼されたり、祝福を頂いたりします。反対に、神を恐れない人が、自分の体を壊したり、いい加減なビジネス慣行の故に苦しんだりすることがあります。そのような状況に立たされるとき、私達の本質が試されます。あいつがあんな目に遭うのは自業自得さ、私は神を信じているからこんな安定した生活を築けるのだというような気持ちは、はっきり言って傲慢です。恵みを知らないクリスチャンです。そうではなくて、私達が救われているのは、始めから終わりまで神の恵みと憐れみによるのだ、という徹底した謙りの心をもちたいものです。

中目黒教会についても同じことが言えましょう。中目黒に教会が移りましてから教会に導かれた方々にとって、その前の丸の内や広尾での思い出が語られると、疎外感を持ってしまうことがありうることでしょう。でも、私達が今このような教会生活をエンジョイしているのは、先輩達の多くの犠牲があり、さらに、神の豊かな恵みがあったことを夢忘れてはなりません。
 
D.神の慈しみときびしさ(22-24節)
 
 
22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。23 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。24 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。
 
1.神の慈しみと厳しさを覚えよ
 
 
異邦人に対する警告は、一層厳しさを加えます。「神のいつくしみときびしさ」を見なさい、と。

神は厳しいお方です。その恵みを拒絶して反抗するものに対して、それを裁きなさいます。それを軽く見てはなりません。

同時に、神は慈しみに満ちたお方です。その慈しみに留まるものにいつくしみ深くあり給います。でも、その慈しみに留まらないで、傲慢になってしまったら、折角接木されても、切り離される危険はあります。聖書全体は、人は一旦救われたならば、無条件で天国に行けるとは教えていません。神の恵みの中に、信仰を持って留まり続けることの必要を説いています。

私達が神を見るとき、慈しみと厳しさとのバランスが必要です。慈しみだけを見ると、甘えが出てきます。少々の不信仰も不服従も大目に見てもらえるという甘えが生まれます。神はどの位不服従を見逃しなさるだろうか試してみようなどと傲慢不遜な態度になります。反対に、厳しさだけを見つめますと、何時叱られるだろうか、何時捨てられるだろうかとびくびくしながら信仰生活を送ることになります。どちらにも傾かないバランスを持ちたいものです。
 
2.イスラエル回復は大いにありうる
 
 
反対に、切り離されたイスラエルも、悔い改めによって元に戻ることがあります。イスラエルは栽培種のオリーブのようなものですから、再度の接木はもっと優しいではないか、とパウロは諭します。
 
終わりに:謙りに始まり、謙りに終わる信仰
 
 
この譬えは、私達がうかうかすると切り離されるのではないか、という恐れを持ってクリスチャン生活を送りなさい、と言っているのはありません。そうではなくて、クリスチャン生活が、自分の無力、罪深さの徹底的な理解に基づく謙った信仰から始まったように、その謙りを決して忘れないようにという勧めであり警告なのです。謙りこそ信仰生活の根本です。それを忘れない一週間であり、一生でありたいものです。
 
お祈りを致します。