プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。
2007年6月17日
天国の原理K
「葡萄園の息子」竿代 皓子牧師
該当聖句:マタイの福音書 21章33-46節
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。 『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。』
だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。
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A.はじめに−−譬え話の背景
今回とりあげる譬え話は主イエス・キリストによって語られ、使徒マタイ、マルコ、ルカによって記録されました。
特にマタイの福音書はユダヤ人を対象として書かれた福音書ですから、特にイエス・キリストが長い間待ち望んでいたメシヤ(救い主)であることを強調しています。
しかし、当時のユダヤ教指導者達はイエスを救い主として受け入れませんでした。あまりにも自分達が考えていた栄光と力に満ちた輝かしいメシヤ像とかけ離れていたからです。
普通の大工の息子であったイエスが「神の子」と主張したことは、甚だしい冒とくでありました。また、彼らは宗教的特権を楽しみ、行いの立派さや外面的な行いの正しさを以って神の救いを得られると考えていました。ですから、イエス・キリストによって外側の立派さと内側の汚れの矛盾を厳しくイエスに指摘され、偽善者と呼ばれて激しい怒りと憎しみを抱きました。
一方、福音書を著したマタイは、イエスによって彼の弟子として召される前は取税人でした。
当時のユダヤ社会ではローマに協力する取税人は遊女と同列に置かれ社会の除者として、最も軽蔑され差別を受けていた職業であり、罪人と呼ばれていました。
取税人であったマタイはイエスによって語られた様々な説教や例え話の中でも、宗教的特権を鼻にかけ、律法を守ることによって神の愛顧を得ようとしているパリサイ人や律法学者を厳しく弾劾し、取税人や遊女たちに憐れみ深いイエスの説教にはことさら、心動かされるものがあったと思われます。彼が直接耳で聞いた主イエスの説教を多く書き残しているのも肯けます。
今回とりあげる譬え話は、主イエスが十字架につけられる最後の一週の火曜日に、宗教指導者、パリサイ人たちが躍起になってイエス・キリストの落ち度を探し、陥れようとして何度も論争を仕掛けてきた時に為された一つです。ですからこの例え話の目的は彼らの頑なさと傲慢さを指摘し、キリストを捨てたことによって、彼らが捨てられ裁かれることを述べています。
B.譬え話について
1)この例えを話された主イエスの動機
祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。
と、21章23節にあります。これは
イエス・キリストの権威に対する挑戦
です。宗教家達の権威はサンヘドリン(ユダヤ人の政治、司法最高議会)が背景でした。我らは議会の許しなしに勝手に神の教えや癒しの奇跡を行なうとは何事かと、人間の権威を以って神からの権威に挑戦したわけです。何という傲慢でしょうか。
主イエスは洗礼者ヨハネの例をひいて、25節で
ヨハネのバプテスマは、どこから来たのですか。天からですか。それとも人からですか。」
という逆の質問によって彼らの罠を賢く逃れます。神からと答えれば冒涜罪で捕まえられ、死に至ることは明らかでした。ユダヤ教指導者たちは明らかに主イエスを殺そうと計画していたからです。
そこで、主イエスは二つの例えを用いて、ユダヤ教指導者達の頑迷さを責め、その悔い改めのない故に、彼らは捨てられるという恐ろしい裁きの予言をされたのが、「葡萄園の息子」の譬え話です。
2)譬えの内容
a)「ひとりの、家の主人」とは神ご自身です。
b)「葡萄園を農夫達に貸した」とは、ユダヤ人とその指導者達です。
c)「しもべ」とは神が時代を通じて送った預言者達です。
ユダヤの歴史が示すように、常に預言者は迫害され、殺されてきたのが真実の歴史です。
神の言葉をまっすぐに伝えた預言者達は常に非業の最期を遂げてきたのです。ここに人間の傲慢と罪深さが表されています。
たとえば、イザヤは伝説によれば、悪王マナセによって、のこぎりで引かれて殉死したと言われています。エレミヤはエルサレムの滅亡とバビロン捕囚を預言として語らなければならなかったので、偽預言者のようにののしられ、最後はエジプトまで連れて行かれ、そこで死んだといわれています。
d)預言者たちでは充分でないと考えた神は、今度はご自身の「息子」を遣わしました。この息子こそ、
主イエス・キリスト
です。
しかし、この息子をも殺してしまうのです。彼らの殺害の動機はご主人の財産目当てでした。これこそ正にパリサイ人や宗教指導者たちが主イエスにしようとしていることでした。権力と欲です。
キリスト殺害の結果、41節にありますように、
「その悪党どもを情け容赦なく殺して、その葡萄園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」 という裁きの預言が語られます。
このことは前掲の詩篇118編22−23節とマタイの福音書21章43-44節の預言となります。
e)「家を建てる者たちの見捨てた石」とは、パリサイ人たちが信じないで、十字架に付けて、殺し見捨ててしまった主イエス・キリストのことです。
f)その見捨てられた石を、神は「礎の石」となさって、人類の救いの礎となさいました。これは全くパリサイ人には考えられない神の「不思議」です。逆転の発想です。神は常に人間の傲慢の裏をかかれるユーモアの持ち主です。
g)救い主を捨てたユダヤ人や宗教指導者たちは捨てられ、異邦人にその恵が与えられるのです。キリストに反抗し、傲慢にも悔い改めないパリサイ人への厳しい処遇が44節に、
「粉々に砕かれ、・・・粉みじんに飛ばされてしまう」 とあります。そのような警告があるにもかかわらず、パリサイ人達はますます心を頑なにして、キリストを殺す道にまっしぐらに突き進んで行くのです。ここに人間の心の核には頑固と高慢が占めていることの典型を見るのです。
C.譬え話から教えられること
1)神が送られた一人子である救い主イエス・キリストさえも退けたパリサイ人たちの偏見の深さと傲慢です。
これは人間は行いによって正しいと認められることを救いの道であると考える、癒しがたい自己中心的存在を表しています。人間は自分で自分を正しいとは出来ないのです。イザヤ書64章6節にあるように、
私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。 といっています。
2)ユダヤ民族の歴史を用いて人類の救いを齎す神の計画は、人間には思いもよらない不思議な方法でもたらされること。捨てられた石を救いの礎とすること−即ち十字架刑による救いです。これは神のたくまざるユーモアでしょうか。
3)キリストの巧みな例え話の秀逸さです。ユダヤ教指導者達は、21章45-46節にありますように、
自分たちをさして話しておられることに気づいた。 それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。 と締めくくっています。この譬えは彼らにとっても忘れられない厳しいものとなったことは確かです。その後のユダヤ民族の歴史を通して彼らは自分たちが行なったメシヤ殺害の恐ろしい責任を刈り取らなければならなかったからです。
D.おわりに
神の愛をないがしろにし、拒絶することへの警戒 が今回のメッセージの結論です。
自分の義を押し立てて、神の供えてくださった救主イエスを拒否することのない様に心したいものです。お祈りいたします。
Message by Hiroko Saoshiro,pastor of Nakameguro IGM Church Compiled and edited by K.O./June 17,2007