礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年6月24日
 
「神の知恵の深さ」
ローマ書連講(35)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙11章25-36節
 
 
[中心聖句]
 
 33  ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
(ローマ11章33節)

 
聖書テキスト
 
 
25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。29 神の賜物と召命とは変わることがありません。30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、31 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。32 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
 
はじめに
 
 
1.昨週は「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。」(ローマ11:22)から、神のいつくしみときびしさという題でお話しました。福音の恵みを与えられている異邦人が、どんな心構えでいるべきかについて警告に満ちた勧めを頂きました。

2.今日はイスラエル問題に関する締めくくりがなされる11章後半を扱います。
 
A.最終的に、イスラエルは救われる(25-32節)
 
1.イスラエルの救いはミステリー (25-26節a)
 
 
25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。
 
25節に「奥義」という言葉が登場します。奥義というと、剣道の奥義とか、茶道の奥義とか、凡人には究めえない奥深い真理のような響きを与えます。英語では単にミステリー、ギリシャ語でもミュステーリオンで、そんなに深い響きはありません。この場合には、神のご計画の一部で、長い歴史の中で、ある理由の故に隠されていて、今や明らかにされたもの、と言う意味です。

パウロは、エペソ、コロサイなどの手紙で、人類の救いの歴史の中で、いわば傍流扱いにされていた異邦人に救いが及ぶことを「奥義」と言っています。「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:26,27、この他、エペソ1:9-11参照)これは異邦人の救いに関する奥義と言えましょう。

この他に、「復活の奥義」(Tコリント15:51)、「教会の奥義」(エペソ5:32)などという奥義についてパウロは語っていますが、この場所での「奥義」とは、「イスラエルの救いに関する奥義」のことです。つまり、異邦人の救いの完成は、ユダヤ人の救いとなって跳ね返ってくるというものです。「異邦人の救いの奥義」からもう一歩先を指しています。
 
 
その異邦人の救いが及んでいく過程で、ユダヤ人の心は福音に対して頑なにされるが、それは一時的なもの、過ぎ去っていく現象(passing phenomena)でしかないのだ、とパウロは言うのです。イスラエルの頑なさは一時的であり、彼らの救いは究極的・永続的なものです。イスラエルの不服従は一部であり、全部の救いが「異邦人の完成のなる時」になされます。その時とは、福音が全世界に及び、その後キリストが再び来たり給うときです。まてよ、と仰る方があるでしょう。キリストが世に来られてから、もう二千年が経過しました。それが一時的なのか?と。私の答えは、ペテロと同じです。神の前には「一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(第二ペテロ3:8)と。

「すべてのイスラエル」とは、文字通り「ひとり残らず」という意味でしょうか。私は必ずしもそうではないと思います。「全体として」という意味であって、一人ひとりの悔い改めが条件となっているのですから、救われる人とそうでない人に分かれることは、私達の救いと同じです。
 
2.イザヤ書59章の引用(26節b-27節)
 
 
26b こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。
 
パウロは、ここでイザヤ書を引用しますが、それは70人訳に基づいていますので、微妙な違いは残ります。イザヤ書を先ず見ましょう。「『しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。』――主の御告げ。――『これは、彼らと結ぶわたしの契約である。』と主は仰せられる。『あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。』と主は仰せられる。」(イザヤ59:20,21節)

イザヤ59章は、イスラエルの民族的回復の予言です。この予言が終末に成就されようとしています。アンダーラインの所に目を留めましょう。「シオンには」(元の聖書)と「シオンから」(70人訳)という違いがありますが、これは本質的ではありません。次のアンダーライン「そむきの罪を悔い改める者のところに・・・」に目を留めます。イスラエルの救いは自動的に齎させるのではなく、真実な悔い改めによるというのです。70人訳にはありませんが、パウロは当然、この悔い改めを意識していたと思います。昨週、ゼカリヤの予言を引用しましたが、彼らは、神の御子キリストを十字架につけたことを悔いるのです(ゼカリヤ12:10)。
 
3.福音と選びの違い(28-29節)
 
 
28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。29 神の賜物と召命とは変わることがありません。
 
福音と言う角度から見ると、イスラエルは神に敵対しています。しかし、その敵対関係は、「あなたがた(ローマにいる異邦人クリスチャン)のゆえに」です。イスラエルの敵対関係が、結果として、異邦人の救いとなったことを示唆しています。

選びと言う角度から見ると、彼らは契約のゆえに尚、愛されています。現在の敵対状態にも拘わらず、神の愛は変わらないことが強調されます。
 
4.「不従順」と言う牢獄が、憐れみの道を開く(30-32節)
 
 
30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、31 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。32 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
 
これを図式にしますと:

@異邦人も昔は不従順だったが、今はイスラエルの不従順故に憐れまれている=
Aイスラエルも今は不従順であるが、将来は憐れみを受ける=
Bすべての人は不従順に閉じ込められたが、それは憐れみを受けるためである

不従順という牢獄に閉じ込めることが憐れみを経験する道だというのは、実に曲がりくねったような論理です。でも、福音の真髄を良く表わしています。「不従順は、神が私達を憐れむために閉じ込めた『牢獄』だということです。」と蓮見師は言います。不従順という牢獄に閉じ込められたことによって受ける困難、危機、苦しみを通して悔い改めが齎され、その悔い改めによって神の憐れみが彼らに注がれるのです。
 
 
表現は適当かどうか分かりませんが、ライオンが腫瘍に苦しんでいる場合、すぐに手術は出来ません。大勢で取り囲んで、徹底的に暴れさせて、檻の中に追い込みます。そして麻酔銃か何かで眠らせて、それから手術を行うのと似ています。神は、なかなか軍門に降らない人間の不服従を募らせ、二進も三進も行かないところに追い込んで、それから手術をなさいます。
 
B.測りがたい神の知恵(33-36節)
 
1.神の知恵の深さ(33-35節)
 
 
33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
 
パウロは、普通の単純な論理では計りがたい方法で人々を不従順に追い込み、その不従順を手がかりにして神の憐れみを示そうとする大きな摂理に思い至って、彼の言葉は驚嘆の極みに達します。その時イザヤ40:14の言葉が浮かんできます、「主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。」私達は、神の御心の全貌を見ることは出来ません。しかし、その知恵を推し量ることは出来ます。ヨブ41:11は、私達人間が、神の知恵に貢献できるものは何も無いという表現で、神を賛美しています。
 
2.神への賛美(36節)
 
 
36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
 
すべての中心にいます神への賛美・頌栄が、このイスラエル問題の締めくくりに捧げられます。「神から発し、神によって成り、神に至る」とは、三つの前置詞による簡潔な言葉です。 ”eks autou kai di’autou kai eis auton ta panta”(all are from Him and through Him and unto Him) すべてのこと、と言うところに、「神の救いの目的は」を当てはめると、よく分かります。救いは神から発し、救いは神によって成就し、救いは神の栄光をもたらすと言う究極的なゴールに到達する、と。
 
 
私達は、そのすべてをしっかりと見極め、把握している訳ではありません。ただ言えるのは、神が善であり、その善なるご計画を、ご自身の知恵と方法と時をもって成就なさると言うことです。これを信じ、委ねる信仰こそ、私達が今日求められていることではないでしょうか。
 
お祈りを致します。