礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年7月1日
 
「献身の生涯」
ローマ書連講(36)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙12章1-8節
 
 
[中心聖句]
 
 1  そういうわけですから、兄弟たち。私は、神の憐れみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として献げなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
(ローマ12章1節)

 
聖書テキスト
 
 
1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
 
はじめに
 
 
1.昨週は「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」(ローマ11:33)から、「神の知恵の深さ」という題でお話しました。福音を退けているイスラエルに対して、神はその不従順をも恵みを与える機会としてお用いになるという、驚くような神の知恵の深さを賛美しました。

2.9章から続いたイスラエル問題が締めくくられて、12章からは全く新しい方向での勧めが始まります。そこで、ここにいたるローマ書の流れを概観して、今日の課題に入りたいと思います。
 
 ローマ書の梗概(復習)
 
■挨拶 1:1-15
■神の義の啓示 1:16-17
■すべての人は罪人 1:18-3:20
■人は、贖いを通して、信仰だけで義とされる 3:21-5:21
■神は信仰者の内に働いて、人を聖とする 6:1-8:39
■イスラエルの扱いで示される神の義 9:1-11:36
■義とされた人は実生活において神を証する 12:1-15:13
 愛の生活の基礎 12:1-2
 ・互いの愛 12:3-21
 ・クリスチャンの市民生活 13:1-14
 ・弱いものへの配慮 14:1-15:13
■終わりの言葉 15:14-16:27

*今日のテキストは、「献身」についてパウロが勧告している12:1-2に絞ります。これは、ローマ書の蝶番(ちょうつがい)のようなものです。上のローマ書梗概で見るように、ローマ書前半は神の贖いの業について述べる教理的部分でした。後半はクリスチャン生活の実践的部分に移ります。いわば、頭での理解から、実際の行為へと繋げる蝶番として、「献身」が強調されます。私達の行動のすべての基礎に神への献身がなければならないからです。
 
A.献げよ(1節)
 
 
1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神の憐れみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として献げなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
 
1.勧告の基礎
 
 
完成された贖い:
1節は「そういうわけですから・・・」で始まっていますが、これは、前半の教理的部分全体を受け継いでいます。「キリストの大いなる贖いが成し遂げられたから」という意味です。同じ言葉がエペソ4:1、コロサイ3:5にも使われていますが、双方とも、教理的部分の説明を終えて、実践的な部分に入るときの繋ぎ(蝶番)としての句です。

クリスチャンに対して:
「兄弟達。・・・」とは、クリスチャンに対する勧めです。まだ、信仰を持っていない人に献身せよとは難しいことでしょう。クリスチャンであるならば、神の愛に応えて、献身が出来ます。

神の憐れみに押し出されて:
「神の憐れみのゆえに・・・」とパウロは勧告の基礎を語ります。献身は人間の行為ですが、実際に私達の内側にそんな立派な心がけがあるわけではありません。神の憐れみが私達の献身を押し出す原動力です。人間の独立した行いとして献身を捉えると、あの人は徹底的に献身している、私はどうもそこまで行かない、という劣等感を持ちがちです。反対に、私はこれだけ献身的に奉仕しているのに、他の人々は何だ、というような裁きの気持ちを持ちがちです。神に献身するのは、他の人との比較は無縁です。ただ神の憐れみが私を覆うことによって、それに押し出されて献身できるのです。

勧告として:
「あなたがたにお願いします。」とパウロは言います。「お願い」というと、パウロの都合で、パウロのために、という響きがしますが、そうではありません。ここは「勧める」と訳すべき言葉です。パウロが「神に代わって、神のために」ローマ人クリスチャンに勧めているのです。
 
2.勧告の内容
 
 
献げること:
献げる、とは自分自身が神のものであることを認め、告白し、差し出すことです。このイメージは、旧約時代に生贄を差し出すところから来ています。パウロは、私達自身を生贄として神に差し出すことを勧めているのです。実際、私達自身、自分のものではなく、神によって造られ、神の栄光を表わすために存在し、神に依存して生きているのですが、どこかで間違って、自分のいのちは自分のもの、自分の人生は自分のやりたいことをやるのが本当の人生だ、自分の将来も自分が決定するのだと言う風に自分中心に考えてしまう人が多いのです。いや、みんなそんな風に考えてしまっています。それこそ罪の根源です。ですから献身とは、元々神のものである自分を(自分勝手な目的のために使うのではなく)神のものとしてお返しすることなのです。ものすごく英雄的行為ではなくて、当たり前のことなのです。神社に石灯籠を献げて、そこに寄進者の名前を刻み、名前を永遠に覚えてもらおうと言うのは、本当の献身ではありません。私達クリスチャンも、神のため、教会のためといいながら、自分の名前がそこに刻まれることを期待して献身したり、奉仕しているとすれば、それは本当の献身ではありません。元々自分の存在は神に依存したものであるのですから、それを公に、明確に認めること、こんな自然な話はないでしょう。

体を献げること:
頭や思想を献げることだけではありません。パウロは「体を」と言いました。私達は体を使って毎日の生活と活動をしています。体を使ってよい行いをし、反対に悪さも致します。その体を使っての全部の営みを、神に喜ばれるようにお献げすることです。1コリント6:20に「あなたの体をもって神の栄光を現しなさい」とあり、また同じ1コリント10:31に「食べるにも、飲むにも、何をするにしても、神の栄光を現すようにしなさい」ということばと共通の教えです。日常生活、家庭でも、職場でも、学校でも、そのあらゆる活動を通して、神の愛の豊かさ、神の力の大きさを表すものとなりたいものです。

神に喜ばれる供え物として:
この言い方は、旧約時代に動物の生贄が献げられた時の条件が反映されています。それらは、傷の無いもの、五体が欠けていないもの、一定の年齢に達しているものなどと言う条件を満たしているかを吟味して合格したものが生贄として選ばれました。私達自身、そのような条件を満たしていないだろうと思いますが、唯一つ、神に向かって真実であること、神を心を尽くして愛すること、この点では誰にも負けない心をもちたいものです。

聖い供え物として:
先ほど言いましたように、旧約の生贄は「傷の無い」ものでなければなりませんでした。私達は、はっきり言って傷だらけです。しかし、主イエスの血潮を仰ぐときに、すべての傷は覆われ、癒され、「聖く、傷無く、尊いもの」となることが出来るのです。「キリストがそうされた(ご自身を献げられた)のは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:26,27)とあるとおりです。

生きた供え物として:
旧約の生贄は、献げられる前に殺され、血を流されました。ですから、いわば「死んだ供え物」でした。しかし、私達は自分を「生きた供え物」として献げるのです。御用済みの枯れ切った状態だからお献げしようというのではありません。時々、「家で新しい洗濯機を買いました。今までのものは、未だ使えますから、教会で使っていただけませんか。」というようなお申し出を受けることがあります。大いに疑問のある言い方だと思いませんか。同じように、時間が余りましたから、お金が余りましたから、主のためにお使いください、というのは、主に対して失礼でしょうね。私に取って一番大切な時間、お金、エネルギー、それを「生きたまま」献げましょう。
 
3.勧告の目的:真の礼拝を経験するため
 
 
献げることは当然だということを先ほど申し上げました。パウロは、この思想を強調するために、献身こそ、礼拝者のあるべき姿というのです。新改訳では「霊的な」と訳されていますが、ギリシャ語はロギケーンで、「理にかなった」とか、「当然の」とも訳すことが出来ます。私達は毎週礼拝のために集まってきます。礼拝とは何をするのでしょうか。聖書講義を聞く事でしょうか、賛美歌を歌うことでしょうか、祈ることでしょうか、献金をすることでしょうか。みんな当たっていますが、そのすべての営みを通して、私自身を献げることです。御言の前に頭を垂れ、神の約束に身を当てはめ、御言の勧告に自分を当てはめます。賛美歌を通して、神を神として認め、心いっぱい神を崇めます。祈りを通して、自分の必要を差し出します。献金を通して、自分を献納します。献身がありませんと、礼拝という式には出ていても、礼拝にはなりません。今日、真実な献身を持って、神を礼拝しましょう。

 
B.更新されよ(2節)
 
 
2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
 
1.世と同化するな(do not conform to)
 
 
「この世と合わせるな」:
一つは、「調子を合わせるな」です。合わせていけない対象は世です。パウロはしばしば「世」という言葉を、神に従わず、神に逆らって生きている人々の思想・潮流を示す言葉として用いています。例として、Tコリント1:20、2:6などを挙げることができます。さて、この節は、クリスチャンがこの世の動きから全く離れ、この世の流れに常に逆らう生き方をしなさい、という意味なのでしょうか。極端に捕らえる人々は、これを文字通り実行します。例を挙げて恐縮ですが、アメリカの一部にアーミッシュというグループがあります。世の中のあらゆる風潮に染まることなく、昔ながらの生活をしている方々です。電気も、自動車も、したがってテレビもラジオも使わず、ひたすら、聖書時代の生き方を守ろうと致します。ケニアにおりましたとき、このグループから送られた宣教師とお交わりを持ちました。もちろん、その方々は、飛行機に乗り、ロバ車ではなく、自動車を使っておられました。愛すべき方々でした。私は、この方々の真実さは尊敬いたしますが、世離れする否定的な面が強すぎることには賛成できません。

「心の同化に注意」:
パウロがここで語っている言葉(ギリシャ語:ススヘーマティゾー=同じ形になる、同調する;スヘーマとは、形、状況、ファッションという意味です)のは、外形的なものではなく、心の問題です。もっとはっきり言えば、世の価値観に染まらないということです。権力を持つことが良いことだ、金持ちになることが良いことだ、皆から誉められることが良いことだ、その根底にある、自己中心主義です。自分を高めること、自分を膨らませること、自分の願いを遂げることを最高の動機として生きていく行き方に倣ってはならないということです。最近教会の中でも、「自分の価値を見出す」という美名のものとに、福音とは異なる自己肯定、自己高揚の「福音」(?)が語られることがあります。気をつけなければなりません。
 
2.変えられ続けよ(continue to be transformed)
 
 
変貌:
「自分を変えなさい」と訳されていますが、「変えられ続けなさい」というのが直訳です。変えられるという言葉は、ちょうちょが、醜い幼虫から美しい成虫に変貌されるときに使われる言葉です。イエス様が変貌の山で、神々しい姿に変えられた時も同じ動詞が使われています(マルコ9:2「イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった」)。また、私達が栄光から栄光に進み、主と同じ形に変えられるのです(Uコリント3:18「私たちはみな、・・・鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」)。

受身の姿勢:
「変えられなさい」と命令されても、どうしてよいか分かりません。なさるのは神ですから、その神の業がなされやすい状態に自分を保つということはできます。洗濯をするのは洗濯機です。私達がゴシゴシ洗濯板で汚れを落とす時代は終わりました。でも洗濯機に洋服を入れるのは私の行為です。神のみ業に身を委ねる姿勢が大切です。

継続的行為:
この動詞が継続形であることは、先に申し上げました。一回きりの献身表明だけではなく、毎日変えられ続けることが大切です。そのために私達が取るべき姿勢としては、
 @日々、御言の前に自分を置くこと
 A柔らかい心を持つこと

心の一新を頂いて:
「一新」というと、一遍に何もかも新しくなる、政権交代か内閣改造のような印象を持ちます。ただ、内閣改造が毎日行われることはありません。しかし、この「一新」は、聖霊による恒常的な更新(ギリシャ語:アナカイノーシス)というべきです。あるとき、一大決心をして「新しくなるぞ」という一新ではなく、静かであっても、日々聖霊によって心が新に神に近づき、御心をより一層近く弁える、という意味での「更新」です。
 
3.御心を弁える
 
 
御心に生きる生き方:
世に倣わず、変貌されていく生活の結果として「神の御心」をよりよく弁えることができます。御心を行うことこそ信仰者の生き方の中心でありましょう。私達が目を向ける対象は、世の中がどう動いているかではなく、神の御心は何であるかということです。

御心の三要素:
神の御心についてパウロは三つの要素から成り立っています。それは、
@善であります。神は善であって善だけを行いなさいます。
A喜ばしいものです。良いだけではなく、更新された魂には喜ばしいものです。
B完全です。総合的に見てパーフェクトです。一つ一つの事柄を別々に見ると、神の御心はどこにあるのかと疑ってしまうことも間々ありますが、全体を通してみると、そこに一貫した完全なご計画を見ることが出来ます。神は私達一人ひとりのために完全なご計画をお持ちであり、それを実行なさいます。
 
終わりに
 
 
1.献身をはっきりと告白しよう:クリスチャン生活のどこかで、自覚的に、明確に、完全に自分中心的な生き方から、神を中心とする生き方への転換を行おう。信仰と告白をもって。<転機的聖化>

2.献身の立場を日々確認し、継続し、深めよう。<漸進的聖化>

 
お祈りを致します。