礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年7月8日
 
「互いにとって肢」
ローマ書連講(37)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙12章3-8節
 
 
[中心聖句]
 
 5  大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
(ローマ12章5節)

 
聖書テキスト
 
 
3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
 
はじめに
 
 
1.昨週は「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神の憐れみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として献げなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)をテキストに、「献身の生涯」という題でお話しました。福音の恵みを知らせていただいた私達が取るべき自然な反応は、神への全的献身であり、その献身こそが、クリスチャンとしての実践の基礎です。

2.パウロは12章から16章まで、信仰の実践のあり方を説いていますが、その第一のトピックとして、教会における協力と互助を取り上げます。さて、皆さんの生活全体の中で、教会という集まりはどんな位置を占めているでしょうか。多くの方にとっては、家庭が第一、職場(学校)がその次、それと並列して、或いはそれより小さな割合で教会の存在がある、という具合ではないでしょうか。しかし、パウロは、私達の一番大切な人間関係を教会に置いています。それは、私達信仰者が、教会と言う共同体に繋がってこそ生きているのであり、社会生活は、ここから派遣されたものとして始まるのだという聖書の人生観に基づいています。
 
A.思い上がらず、慎み深くあれ(1節)
 
 
3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
 
1.(使徒職という)恵みに基づく勧め
 
 
パウロは、1節でも、神の憐れみによって献身するようにと勧告していますが、3節でこのパターンを繰り返します。パウロが、「自分に与えられた恵み」と言っているのは、恵みの故に与えられた務め、つまり、使徒としての務めに基づいて、権威をもって語っているという意味です。
 
2.思い上がるな
 
 
「思い上がるな」という勧告をローマ教会に行ったのには、理由があります。この書簡と同じ時期に書かれた第一コリント書は、自分に与えられた賜物は他の人の賜物よりすぐれていると考える信徒同士の競争で、分裂状態にあったコリント教会に宛てて書かれた手紙でした。パウロは、ローマ教会にも同様な課題があったことを推察していました。

「思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。」とは、直訳しますと、「考えるべき限度を超えて(beyond what you should think=パル ホ デイ フロネイン)、過大に考えること(do not super-think=ヒペルフロネオー)は止めなさい」です。一人ひとりが、自分に対して過大評価をしてはいけないと言うことです。

自分のことを美しいもの、偉いものと考える人をナルシストと言います。この言葉は、ギリシャ神話から来ています。ナルキッソスという若者が、泉に写った自分の姿をとても美しいものと思って恋焦がれ、満たされない恋に焦がれすぎてやつれ果て、水仙に変わってしまったという故事から来た言葉です。クリスチャンとは、ナルシストとは正反対に位置するはずなのですが、救われて変えられた自分を眺めているうちに、変えてくださった神を見失って、自己陶酔に陥る傾向が案外あるものです。パウロが、ローマ人クリスチャンに「思い上がるな」と勧めているのは、私と関係ない勧めだと決め付けないで下さい。神の恵みを本当に計算に入れないで自分を眺めると、「思い上がる」危険がクリスチャンにはあるのです。
 
 
3.自分の立場を弁えよ
 
 
「慎み深い考え方」とは、前の警告の「思い上がるな」と同じことの反対側の言い方です。自分の立場、身分を良く弁えて、それに見合ったものの言い方、考え方、行動をしなさい、と言うことです。

では、私達の立場とは何でしょうか。端的に言えば、神に造られたもの、神に依存しているもの、さらに、キリストによって贖われた罪人、キリストを離れては何も出来ないもの、私達の長所(と思われるもの)や力量と言うものも、みな自分の持ち物ではなく、神に与えられたものである、という立場です。この立場を弁えることを謙遜と言います。謙遜ぶった言葉遣いをする人は沢山いますが、このような「本当の謙遜」は、全能の神を認める信仰からだけ与えられます。

その慎みは「おのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて」持つべきものです。この場合の「信仰」は、それによって救われるべき信仰という意味ではなくて、自分が与えられた責任を果たすときに用いる実践的信仰のことです。ある人には大きな信仰が与えられるでしょうし、他の人には普通であるかもしれません。初代総理が良く、「握りこぶし」だけをポケットに入れて、次々と大きなプロジェクトに挑戦なさいました。偉大な信仰であったと思います。彼は、その職責と課題の故に、それを乗り越える信仰を与えられました。原理は同じですが、すべての人が同じような課題に挑戦できるとは限りません。要は、それぞれが与えられている立場や職務に相応しく、それを完遂するための信仰が与えられている、それを過大評価もせず、過小評価もせず、正確に見分けなさい、と言っているのです。
 
B.肢々は互いに機能が異なる(4-5節)
 
 
4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
 
1.教会は、人体に譬えられる
 
 
5節の「大勢いる私達」とは、キリストに贖われた信仰者の群れ=教会のことです。パウロは、教会のことを良く人体に譬えます。因みに、教会は、(花婿なるキリストに対比して)花嫁とも譬えられますし、神の御霊を宿す建築物にも譬えられますが、パウロが一番多く使った譬えは、人体です。その理由は次の文節で示されます。
 
 
2.教会は、一体である
 
 
からだの譬えでパウロが強調している教会の真理は、その一体性です。教会は元々一つなのだ、それが分派・分裂によって損なわれてはいけない、と言うことは当然の真理です。エペソ4:3でパウロは「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」と命令しています。バラバラであるものを一つにまとめなさい、と言っているのではなく、既に存在している一致を(分裂によって損なわれることなく)しっかりと維持し、増進しなさい、と言っているのです。既に存在している一体性については、それに続く4-5節に明らかです。「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」繰り返します。教会の一致は、人間が作り出すものではなく、既に存在している一致を、人間の利己主義によって壊すことなく、むしろ愛をもって増進することが大切です。
 
3.肢は沢山あって、互いに異なる
 
 
4-5節に器官という言葉が3回出てきます。体の器官と言うと、医学用語のような響きですが、原語のメロスとは、「体の部分、肢」と言うことで、私はあえて「肢」と言う言葉を使いたいと思います。肢についての聖書の教えは、次のようなものです。

@私達はみんなキリストの体(教会)の肢である→体から離れた肢は存在しない。

Aその意味で私達は一体である→先ほど説明したように、私達はキリストに繋がることで、互いに一体的な、つながりの中にある。

B肢々の働きは相互に異なる→「すべての器官が同じ働きはしない」、つまり、肢々の一つ一つは、他の肢と異なる役割、機能を持っている。

C私達は互いにとって肢である(互いを必要とする)→必要でない肢は一つもない。私の存在は誰かにとって必要であり、教会の中で一番目立たないような肢も私に取って必要である。その意味で、肢々は相互依存的である。
 
4.一体であるが、肢々の働きは異なる
 
 
一体性を表す二つの言葉があります。一致(unity)と同一性(uniformity)です。前者は、個々の器官(肢々)の機能は違っていても、それらが合わさり、連携し、助け合って、全体として一つの生命体として動いていくことです。後者は、皆が同じ顔と形と思想傾向を持って一糸乱れず動いていく全体主義的な一体性です。隣の国で得意とする人文字などがその典型でしょう。甲子園でも良く現れる人文字を見ると、私は美しいなどとは思わず、ゾッとします。個性への抑圧がその背景にあるからです。異なる機能が合わさって、一致を保つ(unity in diversity)こそは、本当に教会らしい一致です。

コーラスの世界でも同じでしょう。皆が同じような声で、同じ音程を歌ったとしましょう。その歌(斉唱)は、力強いことおびただしいのですが、何とも美しさに欠けてしまいます。しかし、高音部と低音部、そして中音部が適当に混ざって、しかも互いが互いに異なる互いの声を聞き合いながら音量や、歌い方を調整していきますと、そこに美しいハーモニーが生まれます。

私達の教会に当てはめて考えましょう。私達一人ひとりの会員は、工場で生まれた規格製品ではありませんから、みんなお互いに違います。考え方も違い、性格も違い、賜物も違います。自分と違っている人を見て、裁いてはなりません。羨んでもいけません。ひがんでもいけません。馬の合わない人に対しても、あんな人さえ居なければ教会は平和のうちに進むのに、などと夢にも思ってはなりません。キリストの体にとって、私という存在が、かけがえのない肢であるように、「あんな人」もかけがえのない肢なのです。

まとめて言いますと、聖書は、自分に対する過小評価も過大評価も戒めています。過小評価とは、神が賜物の与え主であることを忘れて、自分なんかはダメだ、何の役にも立たないと卑下してしまうことです。これは賜物を地面に隠したあのタラント物語の男と共通です。過大評価も同様で、与え主なる神を忘れ、賜物は自分に属するものであるかのように、偉ぶることです。与え主である神に栄光を帰しながら、賜物を思い切って差し出し、主のお働きのために用いることが、主の喜びであります。
 
C.異なる機能を充分に発揮しよう(6-7節)
 
 
6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
 
1.賜物の源
 
 
「与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っている」とは、私達の能力はみな、神から与えられたもの、つまり、与え主は神なのだという大切な真理を教えています。その神が私達を恵んでくださったその恵みの延長線上に賜物があるのです。因みに、ギリシャ語では、恵みはカリスで、賜物はカリスマです。同じ語源カイロー(喜ぶ)から来た言葉です。喜んで与える態度がカリスで、喜んで与えるプレゼントがカリスマです。最近では、カリスマと言うと、カリスマ美容師とか、カリスマシェフとか、特別な才能を持った人のように使われます。キリスト教世界では異言を強調するグループをカリスマ派などとも言います。でも、聖書の元々の言葉では、神の恵みの延長として私達に与えられている能力のことです。
 
2.賜物の内容
 
 
この文節では、神が与えてくださっている賜物について、具体例が7つ挙げられています。でも、これが全部ではないでしょう。他のパウロ書簡を見ると、これ以外の賜物も見出されますし、聖書に挙げられているリスト以外にも賜物はあります。それはともかく、ここに挙げられているものを一つ一つ取り上げて考えましょう。

@預言:神の言葉を、神に代わって語る、つまり説教のことです。

A奉仕:教会の信徒が、信徒同士の必要のために仕えることです。具体的には、初代教会で、貧しい信徒のために、パンの配給が行われたことがその例です。

B教え:旧約聖書の言葉の中から、また、イエスの教えや使徒たちの教えの中から、信徒の立て上げのためにレッスンが行われていました。

C勧め:説教とほぼ同義語と思われますが、よりインフォーマルな形での勧め、励まし、慰めの言葉が意味されています。

D与える:教会内の必要に応じての、支えあい、与え合いのことです。

E指導:教会の行政・運営面でのリーダーシップが含まれます。

F慈善:教会外の人々に対して、その必要を満たす社会的活動のことです。
 
3.積極的な活用
 
 
ここで使われている副詞に目を留めましょう。「(預言であれば)その信仰に応じて」とか、「(分け与える人は)惜しまずに(=文字通りには、単純にとか、一つ心で、という意味で、色々な動機を混ぜないで単純に人を愛する心で行いなさいという意味と捉えられます)」とか「(指導する人は)熱心に」とか、(慈善を行なう人は)喜んで」という副詞です。総じて言いますと、私のこんな小さな賜物なんか何にも役立たないだろうとか、私がしゃしゃりでなくても他の人がやってくれるに相違ないとか、私が何かをして失敗したらどうしようとか言った遠慮や引っ込み思案は、賜物の与えぬしである神から見ると、傲慢に映るのです。与えられた賜物を、神を崇めつつ、フルに活用することを神は願っておられます。私達はどうでしょうか。
 
終わりに
 
 
1.自分の賜物を感謝して、主のために使おう
 
 
私に与えられた賜物は何でしょうか。何も無いといってはいけません。良く自分を顧み、ああ、こんな分野に与えられていると言うことを発見したら、それを感謝し、精一杯活用したいと思います。
 
2.他の人の賜物の故に感謝して、主の聖名を崇めよう
 
 
周りの人を見渡して見ましょう。その人に与えられていると思う賜物の故に感謝しましょう。さらに、それを(適当な機会に)口に出して見ましょう。それはお世辞ではなく、単純に神を賛美する道だからです。また、それは他の人に対する大きな励ましの道だからです。私達は、足を引っ張るディスカレジャーではなく、常に誰かを励ますエンカレッジャーでありたいと思います。
 
お祈りを致します。