礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年7月15日
 
「 偽りのない愛を」
ローマ書連講(38)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙12章9-19節
 
 
[中心聖句]
 
 9  愛には偽りがあってはなりません。
(ローマ12章9節)

 
聖書テキスト
 
 
9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。
14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
 
はじめに
 
 
1.昨週は「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ローマ12:5)をテキストに、「互いにとって肢」という題でお話しました。私達信仰者が、教会と言う共同体に繋がってこそ生きているということ、そして、私達が、その体に繋がった肢として、互いに省み、互いに協力する存在であることを学びました。

2.今日は肢々がどのように互いを顧みるかを具体的に考えます。いわば、愛の実践です。テキストとして18節まで読みましたけれども、今日は9-13節に限定したいと思います。
 
A.偽りのない愛(9節a)
 
 
9 愛には偽りがあってはなりません。       _
 
1.愛が基本
 
 
聖書本文では、9-13節はひとつの文章です。9節後半から12の動詞がありますが、これはみな分詞形(・・・しながら)でありまして、9節前半の「偽善的であってはいけない」に繋がっています。直訳的には、「愛において偽善的であってはいけません、悪を憎みつつ、善に親しみつつ、・・・旅人をもてなしつつ」ということになります。つまり、私達のすべての行動や態度の中に、偽りなき愛が基礎となっていなければならないとパウロは説くのです。
 
2.誰の愛?
 
 
「愛には・・・なりません」と記されています。この命令から、この愛の主体は、この手紙を受けている人々であることが分かります。パウロは、愛とは何かと一般的な論文を書いているのではなく、「あなたの」愛はどうなっていますか、と質問しながら、これを書いています。さて、私達の愛はどうでしょうか。
 
3.偽りなき愛
 
 
愛に「偽りがあってはなりません」(アヌポクリトス=ヒポスリトス<偽善的であること>の反対)とは、お芝居であってはならない、ということです。

ギリシャ語で偽善者は、ヒポクリテースと言われます。文字通りには、仮面の下からものを言う人のことで、簡単に言えば役者です。古代ギリシャでは、劇をするとき、日本の能のように、仮面をかぶって役者が芝居をしました。役者は個人的な悲しみも喜びもみんなその仮面に隠して演技を行うことから、自分の動機を隠して相手をだます人のことを指すようになりました。
 
 
パウロは言います。私達の愛が、愛している振り、演技であってはいけない、と。私達の愛はアガペーの愛でなければなりません。自分を高め、喜ばせる愛ではなく、相手の立場・気持ちだけを思う真実で純粋な動機からのものでなければなりません。格好だけ、言葉だけの愛は要りません。ほかの方々の益を真実に願って行動しなさいといっているのです。

先ほど言いましたように、それに続く12の動詞を対象別に考えると、互いに対する動作と、神に対するあり方と、二つに分けられると思います。文章の順序を少し変えて、この二つの分類で、6つずつ愛の実践のあり方を考えます。
 
B. 互いへの愛の実践
 
 
1.悪を忌み嫌う(9節b):「悪を憎み」
 
 
偽りのない愛の表れが、「悪を憎む」ことである、というのは興味深いことです。ギリシャ語では憎むと言う言葉が二つあって、一つはミセオー(心の中で憎しみを持つ)でもう一つはストュゲオー(憎しみを表す)です。この場合は後者です。この言葉はアポ・ストュゲオーで、もう一つ強意で、忌み嫌うこと、完璧にノーと言うことです。

普通、愛というと、小さな悪は大目に見なさいと言われてしまいます。いけないことをいけないと言うと、「愛がない」と決め付けられるのが落ちです。しかし、パウロは、真の愛は悪は悪として認め、糺し、勧告するのが本当だと言っています。パウロは、Tコリント13:6でも、「愛は・・・不正を喜ばずに真理を喜びます。」と語っています。真実に魂を愛すると、隣の人の欠点も、罪も「まあいっか」で済ましていられない、悪に対して不賛成を表わすことは自然ではないでしょうか。
 
2.善に固着する(9節c):「善に親しみなさい」
 
 
「親しみ」というと、仲良くしなさい、というような柔らかい感じですが、原語はもっと強いもので、「くっついていなさい」ということです。

善を行う業に執着し、善を行う人々と密着し、共に主のみ業を広めましょう。
 
3.兄弟のように愛する(10節a):「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い」
 
 
「愛し合い」の原語は、フィロストルゴスでして、人間的な友情を示す言葉が使われています。それも「兄弟愛をもって」と念が押されています。実の兄弟が助け合うように、キリスト者同士は、互いの愛をもって愛し合うものなのです。ダビデとヨナタンは、女の愛に勝る友情で結ばれていました。美しいものです。
 
4.相互に尊敬する(10節b):「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」
 
 
ここでの勧めは、互いに対する心からの尊敬です。ペテロもまた、「すべての人を敬いなさい」(Tペテロ2:17)と語っています。実際問題として考えると、尊敬に値しない人もいるのではないか、いやそんな人の方が多いのではないか、それなのにすべての人を尊敬しなさいと言うのは無理な注文ではないか、という反論が来そうです。確かにそうかも知れません。

しかし、次の三つの要素を考えましょう。

@自分の乏しさ:私達が自分自身を深く省みると、何の取り柄もないものであることを認めざるを得ません。他人を批判する私とは何者なのでしょうか。

A神の創造:さらに、神の創造と言う角度から他人を見たいと思います。みな、神の愛し給う神の傑作品なのです。堕落の故に歪められたとは言え、神の形に造られたのが人間です。神は、その人でなければこの世界に果たしえない個性をすべての人に与えておられます。

Bキリストの贖い:もう一つ、キリストの贖いに与っているのが人間です。どんなに、その人が粗野に見えても、キリストがその人に代わって死んでくださった方なのです。特に教会の中でその人だけに与えられた賜物を持っています。

私達の尊敬を進めて、互いに他人を自分よりも優れたものと思うことをパウロは勧めます。これは、ピリピ2:3にも繰り返されています。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」

互いを優れたものと思うところに、クリスチャンの交わりの根拠があります。小グループなどで分かち合いをするとき、私は何でも知っていて、何の問題も持っていない、という立場ですと聞く方が苦しくなります。会議においてもそうです。互いの意見が優れたものだという前提に立たなければ、会議の必要は生まれません。私は私なりに主に導かれていると思う、しかし、ほかの人も、別な感じ方で主に導かれているに違いない、そうならば、互いの意見を聞き合おうではないか、というのが会議の前提にある哲学です。会議や交わりにおいて独演会をする人、長くしゃべり続ける人は」「互いを優れたものと思う」点が欠けているように思われます。
 
5.相互に分かち合う(13節a):「聖徒の入用に協力し」
 
 
聖徒がお互いの肢の必要を敏感に感じること、互いの必要が分かったら、左の手に知らせることなく、右の手をそっと差し出す配慮が求められます。その態度は、やってあげているという上からのものではなく、分かち合いという水平なものであるべきです。実は、ここで使われている言葉は、コイノーネオー(共有する、分かち合う)でして、コイノーニア(交わり)と共通の語源です。私達は元々一つ家族なのです。家族は物を共有します。同じことが教会でも行われます。勿論、それがけじめのない公私混同のようなものになってはいけません。不足を感じた肢が、クリスチャン同士は助け合うべきだ、助けてくれないのは愛が足らないからだ、と言い始めますと、それは甘えに繋がるでしょう。無責任なもたれ合いが教会ではありません。各自責任を持ち、各自独立した人格でありながら、同時に周りの肢々について目配りをする余裕を持ちたいものです。
 
6.接待に努める(13節b):「旅人をもてなしなさい」
 
 
公共的な宿泊施設が乏しかった聖書の時代、旅人を自宅に泊めてもてなすことは大切な徳の一つでした。今日は生活形態が違いますが、同じスピリットを持ちたいものです。

この聖句を字義的に訳しますと、「接待(旅人への愛)を追い求めなさい」と言うことです。何故追求という強い言葉が使われているのでしょうか。多分、パウロは、通常の接待以上に、迫害に遭って苦しんでいる同信の友に手を差し伸べなさい、といいたかったのではないでしょうか。
 
C.主に対する愛の実践
 
 
 
1.物事を遅らせない(11節a):「勤勉で怠らず」
 
 
私達が人から見られていてもいなくても、変わらない勤勉さを保ちうるのは、私達のすべての行いをご覧になっている神を意識することによってです。パウロは、コロサイ人への手紙の中で、奴隷たちに対して彼らの主人に従うことを勧めている中で、「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:22-24)と、主に仕える姿勢で勤勉であれと勧めています。

怠る(オクネオー)、物事が遅れる、と言う意味です。なすべきことを、色々な理由をつけて明日に回さないことが大切です。色々な人に原稿をお願いしたり、仕事をお願いする立場に立ちますと、ある種の人々は計ったように遅れます。特に忙しいわけではないのに、遅れる人は必ず遅れます。これを、DNAのなせる業だと言い訳してはなりません。遅れることで多くの人の迷惑になるのでしたら、神の恵みを仰いで克服すべきです。時間通りにきちんきちんと成し遂げることは大きな信用に繋がります。この面でも、クリスチャンは誠実で忠実であるべきなのです。小事に忠なるものは、大事にも忠であると主イエスが語られたことを思い出しましょう。
 
2.聖霊の熱心を頂く(11節b):「霊に燃え」
 
 
これは、「頑張りましょう」的なスローガンに用いられる聖句です。しかし、パウロが言っているのは、頑張れという意味ではなく、聖霊によって燃やしていただきましょう、煮えたぎらせて頂きましょうと言う意味です。聖霊の火を心に頂いているのですから、その火を燃え立たせましょう、その火を消すようなことを避けましょう、と言っているのです。

新約聖書では、同じ表現がアポロに対する評価として使われています。「この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていた・・・」(使徒18:25)無理に頑張る必要はありません。ただ、内にいます聖霊を憂えさせる思いや言葉を避け、その御声に聞き従うことによって、聖霊の火をもっと盛んにさせていただきましょう。
 
3.主に仕える(11節c):「主に仕えなさい」
 
 
ここでの強調は、「主に対して」です。人々に仕えている時も、当然ながら、私達は人々に仕えながら、実は、主に直接仕えているのだという意識を持ち続けたいものです。
 
4.望みによって喜ぶ(12節a):「望みを抱いて喜び」
 
 
働きの結果が見えないように見えると、私達は落ち込んでしまいます。しかし、主は私達の働きを見ていてくださり、報いてくださり、用いてくださると信じて、その望みの故に喜びつつ奉仕したいものです。
 
5.患難に耐える(12節b):「患難に耐え」
 
 
「耐える」とは、「下に留まり続ける」という意味です。その患難から早く脱出したいと言うのは人情ですが、主が与えて下さる試練でありますならば、その下に留まり続けるのは、大いなる恵みの道です。

私達は世にあって患難は避けられません。主が語られたように「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)この勝利の主の故に、患難に耐えられます。
 
6.祈りにおいて堅忍(12節c):「絶えず祈りに励みなさい」
 
 
文字どおりには「祈りにおいて、堅忍でありなさい」です。堅忍と言う言葉がピッタリ来ます。祈りをやめないこと、祈りの場にしっかりと留まり続けることが含まれているからです。パウロはTテサロニケ5:16-18で「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と記しています。また、エペソ6:18で、「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」と言っています。ここには「すべて」という思想が強調されています。

  すべての祈りの形を動員して、
  すべての場合に
  すべての時に(絶えず)
  すべての聖徒のために
  すべての忍耐力を継続しながら

祈るべきなのです。
 
終わりに
 
 
今日は12の勧めを学びました。これらは、とても大切な項目です。しかし、この勧めを頂いた私達が、「よし、これから頑張るぞ」と思っても、そううまくはいかないことでしょう。原点は12:9の偽りなき愛です。そして、愛の動機を純粋なものとしてくださるのも、神の恵みです。その恵みによって与えられた愛を、私達の日常生活に生かして進みましょう。
 
お祈りを致します。