礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年7月22日
 
「敵を愛する」
ローマ書連講(39)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙12章14-21節
 
 
[中心聖句]
 
 14  あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。
(ローマ12章14節)

 
聖書テキスト
 
 
14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
 
はじめに
 
 
1.昨週は「愛には偽りがあってはなりません。」(ローマ12:9)をテキストに、信徒同士に表される愛の実践について学びました。

2.今日は、同じ愛の実践ですが、敵を愛する愛を学びます。14-20節までの文節は「敵を愛する」思想で貫かれていますが、今日はこの思想を扱っている5つの塊を一つずつ取りあげて味わいます。順序は私なりに分かりやすく変えてみました。興味深いことに、パウロはその塊の一つずつについて、こうしなさいと言う勧めと、こうしてはいけないという禁止を裏表のように強調しています。そのコントラストを考えながら学んで参ります。
 
A.すべての人に対して(17,18節)
 
 
だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
 
1.悪に悪を報いるな
 
 
歯には歯、目には目、と言うように、悪いことをされたら、やり返しなさい、というのがこの世の慣わしです。しかしパウロは、悪に悪を報いることをしないで、むしろすべての人への善を考えなさい、と語ります。
 
2.善と平和を求めよ
 
 
「すべての人が良いと思うことを図りなさい。」これは、黄金律との連関で考えることができます。箴言 3:4にも「神と人との前に好意と聡明を得よ。」と記されています。

私達は、誰であっても敵を作ることは止めたいと思います。むしろ「すべての人と平和を保つべきです。」ここに、「自分に関する限り」とあるのは、私達の側では可能な限り、という意味です。「自分からは」誰をも敵視しない、むしろどんな人でも友達関係を作ろうと努力すべきなのです。

私達の側からは、敵を作らないつもりでも、また、作らないように努力しても、「敵対的な」人間の存在を避けることは出来ません。すべての人は自己中心的であり、私達の存在がその人の利益に反するとき、その人は簡単に「敵」となります。残念なことですが、これは事実です。そして、その人の背後には、神のみ業を何としても止めようとするサタンの存在があります。ただ、サタンは巧妙ですから、自分の正体を現さないで、色々な人々の間に働いて、(その人は意識していなくても、総合的に見ると)サタンの業の片棒を担ぐ結果とすることは簡単です。

勿論、私達は簡単にある人のことをサタン呼ばわりしたり、サタンの手先などと決め付けてはなりません。(案外クリスチャンの中にこういう人が多いのを見て、残念に思います)
 
B.迫害者に対して(14節)
 
 
あなた方を迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。
 
1.呪うな
 
 
迫害は、キリストの福音に対する偏見や誤解や、或いは意図的な反対から起きます。直接私達が迫害の対象になることもあるし、他のクリスチャンが対象になることもあります。実際的には、迫害者に対して、呪わないまでも、似たような感情を持つことはありえます。しかし、パウロはそれをも禁じて、もっと積極的に祝福を祈れと勧めます。
 
2.祝福せよ
 
 
私達は迫害者のために祈るべきです。パウロはこのように書きながら、自分のことを思い出していたかもしれません。彼自身がキリスト教会に対する苛烈な迫害者であり、その迫害の最中に復活のキリストに出会って救われたからです。恐らく、パウロやその仲間のために、どこかでクリスチャンたちが祈っていたに違いありません。それも、迫害の手が緩むようにとか、迫害者を裁いてくださいと言う祈りではなく、迫害者を祝福してください、という祈りであったと思います。パウロは、そのような祈りをローマのクリスチャンに勧めています。彼らはそれを実行したでしょうか。私はそう思います。その祈りは、迫害を繰り返していたローマ皇帝の回心と言う形で最終的に答えられました。

何故祝福するのでしょうか。@第一に、迫害するもの、私達を虐めるものは、自分が本当は何をしているか分からないでやっているからです。その意味では気の毒です。多くの場合、虐めの張本人には、人には言えないようなトラウマがあったり、隠された背景があったりします。そのことを推測するだけでも、その人に対する態度にゆとりが生まれます。A第二に、どんな悪しき動機で迫害し、虐める人でも、神の被造物であり、神の愛の対象であり、救いの可能性を秘めているからです。祝福を祈るのは、「ただひとりでも滅びるのを望み給わない」神の御心に叶ったことです。

マタイ5:44には、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われています、また、Tペテロ3:9では、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とも言われています。

メティカフ氏の例:スティーブン・メティカフという宣教師がおられました。そのメティカフさんの少年時代の話です。彼は宣教師の子供として中国で育ち、宣教師子弟の集まる学校で学んでいましたが、ある日、日本軍に占領され、全員が収容所で暮らすようになります。筆舌に尽くしがたい仕打ちを受けながら収容所生活を送っていた彼と友達にとって、慰めは、日曜毎に開かれるバイブルクラスでした。彼らのリーダーは、炎のランナーで有名なエリック・リデルでした。ある日、少年達が質問しました。汝の敵を愛せよ、なんて書かれているが、これは人間の理想を言ったもので、現実には不可能だと。ところが、リッデルは言い返しました。確かに難しい。しかし、祈りを実行して見ると分かるよ。と。彼らは不承不承実行し始めました。それこそ、決死の覚悟ではじめたのです。しかし、祈っているうちに、彼ら自身の心が変えられていきました (p.51)。釈放後、メティカフ氏は宣教師となって日本に来られ、5年前に引退をするまで、東北・北海道で尊い奉仕を全うされました。
 
C.虐める人に対して(19節)
 
 
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
 
1.自分で復讐をするな
 
 
自分で復讐するということは、正義と言う剣を自分の手に握り締めて、それを振りかざすことです。パウロは、それは審判者である神の領域を侵すことだ、と言います。
 
2.神の裁きに委ねよ
 
 
神の裁きに委ねると言うことは、神が報い給うという法則が働くのをみまもると言うことです。この怒りと言う言葉には定冠詞がついています。英語で言えば、「ザ怒り」です。神が屡怒られると言う状況ではなく、特定の怒りの日、裁きの日を指すと思われます。

というのは「復讐」(裁き的な報復)は、「私(神)に属する」からです。申命記32章では、人間の裁きと神の裁きが比較されています。「復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」(申命記 32:35)これは、イスラエルの民が悪を行ったときに、神が外国人たちを用いてイスラエルを懲らしめる、その裁きの主体は神ご自身なのだという主張として語られている言葉です

私達が早まって裁くことは、神の主権を犯すことになります。と言うのは、神は確実に、正確に、公正に裁きを行われるからです。イスラエルを懲らしめる外国人が思い上がって自分達の強さや正しさを誇ったのに対して、ナホムは、「主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。」(ナホム1:2)と、ご自身の主権を主張なさいます。・私達のなすべき分は、神の主権に立ち入ることではなくて、「神の愛を示す」という積極的な行動である(これについては、次の節を参照)

「復讐するは我にあり」で直木賞を獲得、文壇に知られるようになった佐木隆三の本が有名です。これは、1963年秋、福岡で起こった殺人事件の容疑者で、犯罪史上空前の捜査網をかいくぐり、詐欺と殺人を重ねつつ、広島――静岡――東京――千葉――福島――北海道と逃げ廻り、78日間の逃避行の末、熊本で10歳の少女に正体を見破られて逮捕され、刑場に消えた男を題材にしたノンフィクション・ノベルです。犯人の父親は彼を牧師にさせようと教育したといわれています。その犯人は、「復讐するは我にあり」と言う言葉を、自分が復讐しなければならない、という風に誤解しており、それが、本当の復讐者は神なのだという聖書本来の意味を悟って愕然とすると言う印象的な終わり方で小説は終わっています。

昨夜は、アジアカップサッカーで、日本とオーストラリアの試合が行われました。サッカーでイエローカードを貰うプレーに、シミュレーションと言うのがあります。ぺナルティエリア内で、ディフェンダーが、相手フォワードによってちょっと押された程度なのに、派手にひっくり返って、レフェリーに、ぺナルティキックを要求する行為のことです。レフェリーがそれを見破ると、派手に倒れた選手にイェローカードを与えます。彼は、審判の領域を侵したからです。選手は選手、審判は審判なのです。選手が審判の真似をしてはいけません。私達も、神の領域に踏み込むことで、神のご支配を混乱させることを注意しなければならないと、この例話を通して教えられます。
 
D.敵への愛と親切(20節)
 
 
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
 
1.敵の窮状をほっておかない。
 
 
もし、私達を虐めるような人々が、重い病気になったり、怪我をしたり、経済的に苦しくなったりしたら、どのように私達は反応するでしょうか。ああ、神が裁きなさったのだ、xx見ろ、などと心の中で呟きながら、安堵するということはないでしょうか。パウロは、そうあってはいけないといいます。
 
2.むしろ親切を施せ
 
 
神様が裁いて下さる。だからあなた方がなすべきことは人を裁くのではなくて、せめて、人に手をあげず裁かず仲良く暮らしなさい。それ以上に出来るならば、敵を愛しなさい。あなた方が生きている時にすることはそういうことだ。それに徹しなさい。裁きがなくなるのではなくて裁きは神様がします。だからお任せしなさい、ということです。
 
 
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。」(箴言 25:21-22)が引用されていますが、最後の「主があなたに報いてくださる」は省かれています。当然理解されているものとして省略されているのでしょう。この箴言の言葉は、エジプトにおける習慣を反映しているといわれます。ある人が自分の罪を悔いる時に、その悔悟の気持ちを表すために、真っ赤に燃えた炭火を蓄えたフライパンを頭に乗せたということです。パウロがここで言おうとしていることは明らかです。「あなた方の敵を親切に扱いなさい。そうすることによって、敵が恥ずかしい思いをして、悔い改めに導かれるから。」というものです。敵に打ち勝つには、敵を友とすることです。これこそ「善をもって悪に勝つこと」です。 勿論、私達の親切の行為で相手が苦しむのを見て、ひそかに喜ぶと言うのは、加虐趣味です。でも、これは結果としては起きます。

アーミッシュという信仰者のグループについて、先日お話ししました。彼らの信仰は「敵を愛する」「人を裁かない」ということで、徹底しています。去年10月、彼らの小学校に、32歳の男が入ってきて銃を乱射しました。女生徒ら5人が射殺されましたが、そのうちの一人13歳の少女は、年下の生徒達をかばって、「私を先に撃って」と身代わりを申し出たそうです。事件後犯人の妻や3人の子どもが招かれ、多くのアーミッシュの人々に抱擁された、と報道されています。これは、アーミッシュの中に生き続けている、赦しの文化の現れでありましょう。<メティカフ氏の証(p.100-101)>
 
E.善の勝利(21節)
 
 
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
 
1.悪に負けるな
 
 
悪に負けるとは、悪を行う人と同じ土俵に乗って戦い、そして敗れてしまうことです。
 
2.善をもって悪に勝て
 
 
悪に勝つとは、悪を行うものを友としてしまうことです。これこそ「善をもって悪に勝つこと」です。そんなこと、絶対に無理だよ、という方がありますか?人間的には無理でしょう。しかし、人間には無理でも、神はこれを可能にしてくださいます。ヨセフの生涯は、善をもって悪に打ち勝つ好例ではないでしょうか。
 
終わりに
 
 
善をもって悪に打ち勝つ、本当にすばらしい御言です。とても難しいように見えます。でも主はそれを成し遂げてくださいます。
 
お祈りを致します。