礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年7月29日
 
「共に喜び、共に泣く」
ローマ書連講(40)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙12章14-18節
 
 
[中心聖句]
 
 15  喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
(ローマ12章15節)

 
聖書テキスト
 
 
14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
 
はじめに
 
 
1.昨週は「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」(ローマ12:14)をテキストに、敵を愛する愛の実践について学びました。

2.今日は、同じ愛の実践ですが、教会の共同体に表されるべき愛に焦点を当てます。今日のテーマは、先々週、5節をテキストに、「互いにとって肢」というタイトルでお話しした内容と重複します。しかし、今朝は特に、プレーヤー・フェロシップ・デーの序論的な意味もありますので、もう一週、ローマ書12章に留まって、キリスト者の交わりと言う角度から思い巡らしたいと思います。
 
A.共感(15節)
 
 
15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
 
1.共感は、共同体における自然の思い
 
 
 
同じ体の肢でありますならば、他の肢の苦しみは自分の苦しみとなります。例えば、指に怪我をした人が居るとしましょう。指だけが痛むでしょうか。全身がだるくなり、他の部分も影響を受けます。ひとつの指を庇って他の指が活躍しますから、他の指が痛みを感じるようになります。教会もそのようなものです。1コリント12:26−27にこう記されています。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」自然に他の人の痛みが自分の痛みとなり、他の人の喜びが自分の喜びとなります。
 
2.「自然の思い」以上の心遣い
 
 
でもパウロが言っているのはもう一歩先、「自然の思い」以上の心遣いのことです。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」と、ことさらに、他人の喜びを素直に自分の喜びとし、ことさらに、泣くものに近づいてその悲しみを自分の悲しみのように取り上げて、時間を使い、心を使って共に嘆くことで、真のキリスト者としての愛を表しなさい、といっているのです。

さて、喜びと嘆きとを比べて、喜びを共にするほうが難しい、とクリソストムという教父が言っています。「人間の自然的な反応として、苦しい目に遭っている友を同情したり、助けるのは易しい、しかし、幸運な環境にある兄弟を見て嫉妬心とか競争心を持たないだけではなく、高くされた兄弟と同じような気持ちで共に喜ぶためには、神の特別な恵みを必要とする」と語っているのです。本当にその通りです。

昔ある教会の献堂式で、祝辞を頼まれた先輩の先生が、後輩の先生の建てた会堂が余りにも素晴らしいので「私は嫉妬さえ感じます。」と語っておられました。私は大学生として聞いていましたが、「正直な祝辞だなあ、でも、この先生のきよめはどうなっているのかなあ」と疑問に思ったことも確かです。 
 
3.共感を妨げる無関心と嫉妬を十字架に!
 
 
教会における「共感」を妨げるものは何でしょうか。私達は、「無関心」という壁を作って、苦しんでいる兄弟の苦しみを無視してしまうことがありえます。隣の苦しみ、痛みに何の苦しみも覚えない、これは自分さえよければ、という自己中心でありましょう。

もう一つは、嫉妬と傲慢でありましょう。人間は誰しも、自分が高く崇められたい、評価されたい、誉められたいという傲慢の罪をもっています。ですから、他人が誉められると、「何であの人が誉められるのか。」とか、「何で自分ではないのか。」とかいった面白くないものが心に浮かんでくるのです。CSルイスはこう言っています、「世界中の人間がだれ一人としてまぬがれることのできない一つの悪徳がある。人びとはそれを他者の中に見て嫌悪を感じるが、自分もその罪を犯しているとはほとんど夢想だにしない。この悪徳とは何か。それは傲慢あるいはうぬぼれである。悪魔が悪魔となったのは、高ぶりのゆえであった。高ぶりは、人を他のすべての悪へと導いていく。それは完全に反神的な心の状態である。そして、傲慢は本質的に自己が『他と競うとき』に生まれるものである。」と。

ともに喜び、共に苦しむ事を妨げるもの、即ち、自己中心的スピリットは十字架によってのみ解決されます。主イエスが自分を全く捨てて、十字架にかかられたその同じ場所に自分を(信仰によって)置くこと、その信仰に生き続けることだけが、傲慢と無関心から守られる路であります。
 
B.一体感(16節a)
 
 
16a 互いに一つ心になり・・・                   _
 
1.一つ心になるためのプロセス
 
 
パウロが、ここで「互いに一つ心になり・・・」と、互いを強調しているところが妙味です。一つ心となるために、偉い指導者が出て、「ハイル・ヒトラー!」と他の人が全部それに倣って着いていくのは、或る意味で簡単です。でもこれは、恐ろしいほどの全体主義的な一体感です。気をつけませんと、信仰の世界にも、こうした「カリスマ指導者待望」がありえます。自分の頭で物を考えるよりも、「偉い人」が出てきて、その人のものの考え方に全部を委ねてしまったほうが簡単ですし、物事は勢いよく進みます。しかし、これは、少なくとも、新約聖書が教えている教会の姿ではありません。
 
 
教会の頭はキリストですが、その頭の意図を汲もうとする一人ひとりが、その導きを紹介しあって、互いに是正し合い、譲り合って、一つ心になるのです。

ギッフォードという注釈者は、これについて、「互いの感情と願いに自己のそれを移入することによって、結果的に彼と心が一つになる」と説明しています。良い説明であると思います。

牧会小グループで一番大切なのは、互いに聞きあうことです。幹事の心得の一つとして、「会話を独占したり、しゃべりすぎたり、メンバーの証に一々コメントを加えたりしないようにしましょう。また、会話を独占しそうな人がいたら、それとなく静かな人に発言を振り向けて皆が楽しく話せるようなボール回しをしましょう。」と書きました。互いの感情・意見・恵み・導きを良く聞く、そして自分のそれとを比べて、全体として、主の御心に沿うように務めることが大切です。
 
2.「一つ心」の内容:主の御心
 
 
それは、今お話ししましたように、キリストの心との一致です。エペソ4:11-13を開けましょう。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

先ほど、お互いの感情や意見を聞き合う、と言いましたが、もし、お互いが、御言から離れた考え方をしておりますと、皆が「心を一つにして」世俗的な方向に流されないとも限りません。牧会小グループが、そのような方向から守られるためには、神の御言が基礎として尊ばれなければなりません。聖書の学びなど固いことを言わないで、交わりのときはぐっと砕けて、趣味の話、映画の話、世間の話で終始しても良いではないか、という声がこのグループの立ち上げのときに聞こえてきました。私達は「違う」と申し上げました。御言を基礎にした交わり、御言を一致の基礎とする交わりである限り、そこは主が喜んでくださる主の体の一枝なのです。
 
C.謙り(16節b)
 
 
16b 高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
 
16節bは、今お話した、一つ心を得るための大切な心得としての謙遜について物語っています。
 
1.高ぶらない
 
 
文字通りには、「高揚された物事を考えない」ということです。人々によって高いものと考えられている事柄、誉められること、誇らしいことを求めない、ということです。

これは、3節で語られた思想「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。」の繰り返しでもあります。3節では、自分に対して過大評価をしてはいけないと言うことです。神の恵みを本当に計算に入れないで自分を眺めると、「思い上がる」危険がクリスチャンにはあるのです。私達の立場とは、神に造られたもの、神に依存しているもの、さらに、キリストによって贖われた罪人、キリストを離れては何も出来ないもの、私達の長所(と思われるもの)や力量と言うものも、みな自分の持ち物ではなく、神に与えられたものである、という立場です。この立場を弁えることを謙遜と言います。謙遜ぶった言葉遣いをする人は沢山いますが、このような「本当の謙遜」は、全能の神を認める信仰からだけ与えられます。
 
2.低いものに順応する
 
 
「順応する」とは、「譲る(yield)」という言葉から来ています。別な翻訳では、手を取って導いて頂く、という意味です。ガラテヤ2:13では「妥協する」という悪い意味で使われていますが、ここでは肯定的な意味です。私達は、優れた人、賢い人が道を示し、地位や社会的影響力の小さい人は、その指導者についていけばよい、と考えがちです。教会は違うのです。より目立たない人、より口下手な人、その人々の考え方を尊重して、その人々の手に導かれなさい、というのです。

ゴデーという聖書注解者は、低いものとは、「教会の中で一番貧しく、無知で、影響力の小さい人のこと」と説明しています。教会の中で、霊的な階級制度があってはなりません。弱そうに見える人々の意見や気持ちや立場が一番良く尊重され、聞かれる、そのような雰囲気が、私達の牧会小グループであるべきです。

これは、12:10「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」と言う勧め、それから、ピリピ2:3の「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」という勧めと共通する思想です。自分から見ると、弱い、貧しい、無知のように見える人が、実は「自分よりもすぐれた人」なのです。そのことを行動で現すのが、「低いものに順応する」と言うことなのです。

互いを優れたものと思うところに、クリスチャンの交わりの根拠があります。小グループなどで分かち合いをするとき、私は何でも知っていて、何の問題も持っていない、という立場ですと聞く方が苦しくなります。会議においてもそうです。互いの意見が優れたものだという前提に立たなければ、会議の必要は生まれません。私は私なりに主に導かれていると思う、しかし、ほかの人も、別な感じ方で主に導かれているに違いない、そうならば、互いの意見を聞き合おうではないか、というのが会議の前提にある哲学です。会議や交わりにおいて独演会をする人、長くしゃべり続ける人は「互いを優れたものと思う」謙遜に欠けているように思われます。 
 
 
3.知者ぶらない
 
 
「自分こそ知者」とは、自分だけ賢い、とか知恵において他の人と比べて自分はダントツだ、という意味ではなく、「自分の意見では・・・」という意味です。「私的には賢い」という考えです。まあ、ものすごく自慢している訳ではないが、自分のことをまあまあいい線を行っている、位の自己評価をすることです。この勧めは、箴言 3:7「自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。」から来ています。私達は神の前に愚かなものという深い自覚を持つべきです。

この勧めと反対のようですが、同じ聖書が私達は神にあって知恵を与えられているとも教えています詩篇 119:98-100を読みますと、「あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。」という真理を見出します。つまり、御言を読み、御言にしたがって歩んでいると、それは、私達の敵よりも、先生よりも、先輩よりも、私達を賢くする、といわれています。クリスチャンの世界でも、お前は経験もなく、実績もなく、年齢も若いのに生意気なことを言うな、などと(口では言われませんが)無言の圧力を感じることがあります。私の確信は、私の申し上げることが御言の健全な解釈と実践に基づく限り、私は私の信じる道を進むことが出来るということです。しかし同時に、その主張の仕方は謙遜でなければなりませんし、或いは、御言を取り違えているかもしれないという「変更可能な余地をもった」ものでなければなりません。

もう一度、パウロの勧めに戻ります。「自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」ということを、私達の会話の基礎にしたいと思います。牧会小グループの原則の一つに「教えない」ということがあります。私達皆が御言から教えられる必要のある愚かなものである、という共通の姿勢が必要です。
 
終わりに
 
 
私達のクリスチャン同士の交わりに、「共感」、「一体感」、「謙り」が基本線として貫かれ、それが、豊かな恵みとなって溢れますように祈ります。