礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年8月5日
 
「上に立つ権威に従う」
ローマ書連講(41)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙13章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
 1  人はみな、上に立つ権威に従うべきです。
(ローマ13章1節)

 
聖書テキスト
 
 
1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。 2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。 3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。 4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。 5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。 7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。
 
はじめに
 
1.この文節の流れ
 
 
昨週はプレーヤー・フェロシップ・デーに当たり「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:14)をテキストに、私達のクリスチャン同士の交わりについて、「共感」、「一体感」、「謙り」の必要についてお話しました。

今日は、13章に入ります。パウロは話題をぐっと変えて、クリスチャンと政治指導者の関係について語り始めます。昨週は参議院議員選挙で、全国民の関心が政治に集中しましたので、クリスチャンが政治にどう関わるかは、非常にアップ・ツウ・デートな課題と思います。

今日のテキストである13:1−7は、その前後から独立している訳ではなく、愛の実践という流れの中の一環です。12章後半は、敵を愛しなさいという勧めがなされています。13章後半も、愛は律法を全うするという教えです。クリスチャンの愛の実践には、時には悪魔的になる国家に対しても、愛を表すことが含まれているのです。
 
2.当時の政治状況
 
 
@まず、パウロが政治の課題を扱うに当たって、当時の政治状況を概観しましょう。当時は、ローマ帝国がきわめて整然とした秩序をもって地中海世界をまとめていた時代であったことは、ご存知の通りです。初代皇帝を含む5人の皇帝を概観します:

[1] 長年の戦争から平和と秩序を齎した初代のアウグスト(オクタビアヌス=27BC―14AD、主イエスの誕生の時の皇帝)

[2] ティベリウス(14−37、彼は、冷淡、疑り深く、怒りっぽい男であった、イエスの十字架のときの皇帝で、ピラトは彼の下にあった)
 

 
[3] 皇帝礼拝を強要したカリグラ(37−41)

[4] ローマのユダヤ人を追放したクラウディオ(41−54、強力な官僚国家を形成した)
 

 
[5] そしてネロ(54−68、初期は人々に人気のある善王を振舞ったが、後に狂気、残虐性を現す)
 

 
纏めると、帝国の支配を確立する黄金時代であったといえます。

Aローマ帝国は、基本的には、その支配する土地々々の宗教を尊重する政策を取っていました。ユダヤ教も政府公認の宗教のひとつで、安息日遵守を含む彼らの宗教的習慣も認められていました。キリスト教がユダヤ教の一宗派として存在している限り、帝国からの迫害は考えられませんでしたが、迫害の萌芽は見られました。皇帝礼拝を拒むユダヤ教・キリスト教は、ローマの支配と相容れないものでした。さらにキリスト教は、多数の奴隷を含む下層階級に広がっていました。その点、パウロの指導の方向によっては、キリスト教はローマ帝国に危険な要素として当局の注目するところとなったかもしれません。そのような背景で語られたのがこの勧めです。
 
3.神学的背景
 
 
さらに、パウロがここでクリスチャンの市民的な立場について論じている神学的背景も考えたいと思います。パウロはピリピ3:20で「私達の国籍は天国にある」と語っています。これは、どろどろした地上の政治から目を離して、クリスチャンは高い次元の世界に生きるべきだ、政治のことを論じること自体が世俗的・汚らわしいことと考える人もいます。本当にそうなのか、とパウロは問います。真正面から政治権力との関わりを考えなければ、クリスチャンがこの世に生きている意味はなくなるわけです。ですから、この問題をしっかりと扱います。
 
A.権威に従う(1−5節)
 
1.上に立つ権威とは
 
 
1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
 
「1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」とありますが、「上に立つ権威」とはなんでしょうか。

@人間がグループを形成するときには、必ずと言っていいほどリーダーシップをとる人間が生まれます。そうしないとグループとして纏まらなくなるからです。会社でいえば社長、村で言えば村長、学校でいえば校長という具合です。

Aしかし、ここで「上に立つ権威」(エクスーシアイス・ヒペレフウサイス、直訳=それ自体として上にある諸権威)といっているのは、不特定のグループのリーダーと言うよりも、政治的な指導者、もっと具体的にはローマ帝国の皇帝とその権威を帯びたローマ政府を指していると思われます。

思い出してください。この手紙はローマ帝国の首都ローマにいる信徒達に宛てて書かれているのです。この人々は、政治的な事柄に対しては、特別に敏感であったと思われます。使徒18:2に、クラウディオがローマにいるユダヤ人に退去命令を出した、という記事があります。これはパウロの第二次伝道旅行の終わりごろですから、50AD頃と考えられます。これは、ローマ帝国が取っている反キリスト教的・反ユダヤ教的な政策の現れでした。その後、もっと反キリスト教的なネロが即位します(54AD)。この手紙の執筆は56ADですから、受け取り手であるローマのクリスチャンが、ローマ帝国が取っている反キリスト教的・反ユダヤ教的な政策をどう考えるべきかに悩んでいた時期であることが推察されます。
 
2.なぜ従うのか
 
 
パウロは、このような微妙な立場にあるローマ人クリスチャンに対して、「上に立てられた権威に従うべきです」と率直に勧めます。意外と思われませんか。このような悪魔的権威に抵抗せよ、革命を起して倒してしまえ、と書いても不思議はないのに「従え」とは、何とおとなしい、もっと言えば消極的な勧めなのでしょうか。パウロは、その理由として幾つかのポイントを挙げます。

1)権威は神が立てられた:

1節に「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」と記されています。「神によって立てられ」とは、過去にそうであった、という以上に、現在も続いている(現在完了形)事実です。

さて、ここでも疑問が起きませんか?「存在している権威はすべて」とは、ネロも、ヒトラーも、拉致問題を起している国の指導者も含むのでしょうか?「イエス」とは言い難い状況は確かにあります。しかし、「積極的な意味で」神の御心を受けて指導者になる場合だけではなく、私達には計り知れない深い御心の故に(許容的な御心に従って)指導者となった人々も含む、と私は考えます。その意味で、私達は権威者を尊敬し、服従する義務があるのです。

勿論、国家が獣(悪魔)的な要素を持っていることは、黙示録13章などにも示唆されています。そうした要素があることを弁えつつもなお、通常の生活においては、私達は神に認められた秩序に従うべきなのです。

因みに、イギリスの王制の歴史の中で王権神授説が唱えられた時(17世紀のジェームス一世)がありました。王の権力は神によって与えられたものだから、それに反逆するものは神に反逆するものだ、と言って、実際には王様の専制的な政治を正当化するものでした。ジェームズ王は、議会との対立を生み、その主張を引き継いだチャールズ一世は、議会の主権を主張するクロムウェルによって処刑されてしまいました。

さて、ここでパウロが言っているのは、王権神授説のように響きますが本質的に違います。パウロは、支配者が正しいか正しくないかとはまったく別次元の話をしています。或る者が支配者として立てられているのは、神の許容的な御心によるのだということを、従うものが信仰をもって認めるべきだという点なのです。

2)逆らうものは神(の定め)に逆らうことになる:

2節に「権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」と記されています。これは第一点で語られたことの裏返しです。「逆らう」(アンティタッソメノス)とは、「自分を反逆の隊列に置く」という意味です。「神の定め」(ディアタゲー)とは、「神が置きなさったもの」という意味です。ですから、神が置きなさったものに反逆した立場に自らを置く、ということばの関連で述べられています。

3)応報的な秩序は大切だから:

3−4節を見ましょう。「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」同じ思想がペテロによっても表されています。「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」(1ペテロ2:13-15)

政治権力は、人間社会の秩序を保つために存在します。それに逆らうときに刑罰を受け、それに従うときに、報いを受けます。「剣」という言葉で象徴しているのは、武力行使を含む政治権力の大きさです。ですから、法を守り、良き市民として生きている人は、国家権力を恐れる必要はありません。しかし、社会的規範を犯したものについて、国家は容赦しません。彼らに刑罰を与えるために「剣」を帯びているからです。

4)自分の良心のためでもあるから:

「 5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」前項が、「安穏な生活を送るため」という実利的な理由を示すとすれば、この5節は私達の良心の故に従うべきと勧めます。当然、この良心とは、すべての権威は神の許容的御心の下に立てられたという信仰に基づく良心です。

この同じ良心に従って、国家の命令に不服従を示すべきときがあります。聖書の例だけを列記しましょう。

@宣教の自由を拘束されたとき:ペテロが、ユダヤ議会で、キリストの名前を宣伝してはならない、と命令されたとき、ペテロは、「人に従うよりは神に従うべき」(使徒4:19)と言いました。
A良心に逆らう行動を強要されたとき:モーセの両親は、男の新生児を皆殺しなさいというパロの命令を知りながら、「信仰によって、モーセは生まれてから、両親は三か月の間隠していました。・・・彼らは王の命令をも恐れませんでした。」(ヘブル11:23)
B国家が、明らかに反神的な姿勢と行動を取るとき:ダニエルの3友人は、ネブカデネザルが自分を神として拝むように命じられたとき、敢然とこれを拒否しました(ダニエル3:18)。

これらの例は、正義の故の抵抗権とか、不服従の権利とか、改革や革命の方向性を示しています。
 
B.模範的市民として(6−8節)
 
 
6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
 
1. 納税の義務を果たすこと
 
 
「貢」とは、元々被征服民族が、征服民族に支払うものを指していましたが、税金一般を指すようになりました。

「務めに励んでいる神のしもべ」とは、公務員のことです。彼らが、真の神を知り、神に従って励んでいたかは別として、神の喜び給う秩序を維持するという点で、広義では神に仕えるものと考えることができます。その意味で、彼らは当然の報酬を得る権利があります。

「みつぎ」と「税」との区別は特にありませんが、ある注釈者は、前者が征服民族による課税、後者は一般の税金と区別しています。ヴィンセントは、前者を人頭税、後者を物品税と区別しています。この命令は、主イエスが「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(マルコ12:17)と語られたことにも符合します。
 
2.すべての人に当然の義務を果たすこと
 
 
「みつぎ」と「税」と相並べて、恐れと尊敬が出てくるのは興味深いことです。「だれにでも」とは、この場合6節に述べられている公務員のことです。パウロの言わんとしている点は、税金であれ、尊敬であれ、国に対する義務を率先して支払うのが、クリスチャン市民の務めということです。この勧めは、次の節「愛以外の借りを作らないこと」に結びつきます。

地方税がグーンと上がり、益々生活が苦しくなりました。その税金が使途不明だったり、誰かに着服されたりすると、怒りが湧いてきます。しかし、だからといって、税金を払わない訳には行きません。税金を払っておいて、その行方に関して、しっかりと監視し、言うべきときも物を言う姿勢が今日の市民には必要でしょう。
 
C.(信仰者と政治について)考えるべきこと
 
1.クリスチャンは受身一方ではない
 
 
私達は、世界を裁くもの、指導するもの、預言的発言によって社会のあるべき姿を導くものであることが期待されています。「あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。」(Tコリント6:2)特に、21世紀の民主主義の時代に、私たちは、選挙という方法で、為政者を選ぶ権利を持っていますから、積極的な形で、政治に加担することが大切です。
 
2.国家権力が取りうる悪魔性について私達は甘い味方をしてはならない
 
 
国家とは、本来私達の生活秩序を保つために存在しています。その点から言えば、悪でも善でもない中立的存在といえます。クリスチャン国家というのもないし、反対に、悪の帝国というのもありません。しかし、国家というものが、巧妙な形で支配を拡げるサタンの支配に役立つ側面があることも忘れてはなりません。エペソ6:12で、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とパウロが言っていますが、国家の背景にサタンが働いている側面を見出します。また、使徒4:26−27に「地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり」とありますが、主の十字架は、神に逆らう国家的犯罪の結果でありました。
 
3.権力者達のために祈る大切さ
 
 
私達が国家のためになすべき一番大切な務めは、祈ることです。Tテモテ2:1には、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」と記されています。祈ることが国を動かすことです。8月15日には、キリスト者たちが集まって国のために祈る祈り会が計画されています。個人としても、また、教会としても、私達の国が、神の御心を行い、神の祝福を受け、神の御国の拡大のために助けとなるように、祈り続けたいと思います。
 
終わりに
 
1.良き市民としての証を立てよう
 
 
法律を守る点で、選挙における権利と義務を行使することで、私達クリスチャンは真に良き市民としての証を立てたいものです。クリスチャンは、社会の中で建設的な行動と発言をするものとしての評判を勝ち取ることが、伝道にも役立ちますし、また、この国に祝福を齎すよすがともなります。
 
2.国のために祈ろう
 
 
特に、政治権力が「この世の暗きを司る」者の手に陥らないように祈りましょう。今、日本はどちらに向かうか、非常に大切な岐路に立っています。「戦後レジームの終焉」という言葉で、戦争のときに私達が民族として学ばせられた貴いレッスンを忘れようとする雰囲気を感じます。私達が再び、狭いナショナリズムに陥って、世界中を敵として戦うことがないように、むしろ、世界に平和を齎す国として光り輝けるように、祈りましょう。