礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年8月12日
 
「愛は律法を全うする」
ローマ書連講(42)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙13章8-14節
 
 
[中心聖句]
 
 8  他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
(ローマ13章8節)

 
聖書テキスト
 
 
8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。 9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。 10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。 12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。 13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。 14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
 
はじめに
 
 
1.昨週は、「上に立つ権威に従う」というテーマで、国の秩序に従う大切さを学びました。また、すべての人に当然の義務を果たすことを学びました。

2.そのすべての人に当然の義務を果たす、という7節の思想をそのまま引き継いでパウロは、すべての人に、愛のほか何の借財があってはならない、と続けます。愛の実践が12章以下の共通テーマなのですが、8−10節はそのまとめといえましょう。市民生活のあり方の締めくくりとして、市民法と神の律法の共通性を説きます。双方とも、己のように隣人を愛することで纏められる、というのです。
 
A. 愛は律法の真髄(8-10節)
 
 
8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。 9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。 10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
 
1.「愛」以外の借金はするな
 
 
愛以外の借金とは?:

「互いに愛すること」は、私達が永遠に持ち続ける借金(相互への負債感)です。しかし、それ以外の「借り」は作るな、というのがパウロの教えです。具体的に何を意味しているかといえば、7節の続きで、果たさなければならない市民的な義務(税金そのほかの労役、権威者への尊敬も含む精神的なもの)が直接的に意味されているのは当然です。

それだけではなく、お互い同士の人間関係に基づく義務を借金と数えると、その借金を負ったままではいけないのです。そうした負債について、私達は否定したり、無視したり、逃れようとしたりせず、きちんと義務を果たしなさい、というのです。

お互い同士の借金について触れます。私達は、安易にお金がなくなった、さあ誰かから借りようか、と借金の工面をする傾向がありますが、これは大変キケンです。第一に、安易な借金は私達が「あるものをもって満足する」という聖書の原則から離れることを意味します。これだけの収入しかないのに、それ以上の生活を目指すのはこの原則に反します。第二に、安易な借金をすると、それが癖になります。困っても何とかなる、という安易な生活態度は、まじめに働く、生活を切り詰める、お金を蓄えるという思想を追い出してしまいます。第三に、安易な借金は、貸し手に迷惑をかけ、借り手自身が苦しむ結果となります。クリスチャン同士の安易な貸し借りは、互いの信頼を損なう結果となりやすいもので、インマヌエルの条例でも禁止していることです。兄弟同士の必要を見たならば、そして、自分が援助可能ならば、そっと差し上げれば良いのです。私はすべての信徒の経済活動を知っている訳ではありませんが、牧師として、この原則を明確に申し上げます。

私の父は実業家として銀行から多額の借金をしながら事業を営んでいました。しかし、かれは、「会社のための合法的な借金は別として、個人的なことのためには決して借金をしない」という厳しい原則を自分に課していました。教会に行く電車賃がないために、立川から落合まで自転車で通ったというエピソードもありました。そのような父母の生き様を間近に見ていられたことを、私は感謝しています。

愛の負債とは?:

「互いに愛し合うこと」とは、主イエスが弟子に与えなさった最大の戒めです。ヨハネ13:34には「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」としるされていますし、これは15:12、17に繰り返されています。

「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです」とありますが、「他の人を」とは、隣人のことです。私達は、義務的な借金からはフリーでなければならないが、隣人を愛するという負債感は常に持っています。また、持つべきであります。愛さねばならないから愛する、というのではなく、主が私達を愛してくださったという圧倒的な愛が、負債感となって隣人を愛する愛に溢れてくるのです。Tヨハネ4:10には、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」その愛が聖霊によって私達の心に注がれます(ローマ5:5)。
 
2.律法の要約は愛
 
 
9節には、十戒の中で対人関係を扱う「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という第7、第6、第8、第10の戒めを述べています。どうして第7の偽証禁止が入っていないのか、順序がまちまちなのかは重要なことではありません。ともかくこれらは、律法を代表しています。「またほかにどんな戒めがあっても」という言葉で、律法の規定全部を表します。

そして、「それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』ということばの中に要約されているからです。」とパウロは言います。「要約される」とはアナケパライウウンタイ(再び、主要ポイントにまとめる、という意味)です。

10節「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」当然これは、主イエスが律法の基本は何かとの問いに答えて「愛」と語られたことを反映しています(マルコ12:29−31)。真の愛の動機を持ち、それが示されるとき、隣人を損なう筈はありません。尤も、それに知恵が伴いませんと、結果として隣人を損なうことが実際生活上無いとはいえませんが・・・。

ここで、隣人を愛するものは律法を全うすると言っていますが、これは、「律法を成就してしまっている」というのが直訳です。律法の精神を満たしてしまっている、という言葉です。これは、ガラテヤ5:14「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。」ヤコブの手紙にも「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。」と記されています(2:8)
 
B. 光の武具をつけよう(11-14節)
 
 
11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。 12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。 13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。 14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
 
1.再臨の近さを弁えよう
 
 
11節前半の「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。」ここにパウロの時代認識が示されています。夜明けというのは、この文脈からは、主イエスの再臨のことです。彼は、主イエスが来たり給うのは、彼の目の黒いうちであろう、という切迫感を持っていました。そのような切迫感をローマ人クリスチャンも共有して欲しいと勧めます。勿論、この手紙の受け取り手が「眠っているから」目を覚ませ、と叱責しているのではありません。イエスの再臨の近さを覚えて、緊張して生きていなければならないと勧めているのです。

11節後半、「今は救いが私たちにもっと近づいているからです。」と記されていますが、直訳は、「私達のものであるその救い(ヘーモーン へー ソーテーリア)が近づいてきた」となります。

救いには、現在的な意味と、将来的な意味に分かれます。パウロがここで言っているのは当然後者の意味です。つまり、救いの完成という意味です。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」(Tペテロ1:5)とペテロも、将来的な救いについて述べています。

クリスチャンは、キリストの再臨とともに輝き出ようとしている新しい時代に相応しく生きるべきなのです。今の暗い時代に合せて生きるのではなく、来るべき時代を見据えて、それに相応しく生きるべきなのです。

パウロは、キリストの再臨の近さを信じていました。その時こそ、この世の暗きは一掃されて、すべてが真昼のように明らかにされるはずでした。それならば、今からそれに相応しく生きようというのは当然のメッセージでした。これは「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」(ルカ21:27−28)という主イエスの言葉を反映しています。
 
2.暗い業を捨てよう
 
 
パウロは、新しい時代に備えて「闇の業を捨てる」ことを命じます。「闇の業」とは、昼の光に照らされると恥ずかしくて行えない行為のことです。私の説教でしばしば登場するゴキブリ君のことを思い出してください。私がゴキ君のことを嫌いな理由は、暗い中でごそごそ活動するからです。光が来ると逃げてしまいます。彼の活動が薄暗いからなのです。私達はゴキ君的な生き方を止めたいものです。

さて、ここで列挙されている罪の行為は6つですが、二つずつが組になっています。そしてそれらは皆、複数です。精神的というよりも、具体的な行動の問題です。その内容は、愛の反対の自己中心から来ています。

@遊興、酩酊は、自己中心的な飲食の態度です。「遊興」(コーモイス)は、「宴会が終わった後に町に繰り出して歌ったり、騒いだりすることで、そこから「反逆」と訳す聖書もありますが、私はこの「遊興」を支持します。

A淫乱や好色は、性の分野での自己中心です。淫乱(コイタイス)とは、性的な乱行、乱交で、「好色(アセルゲイアイス)」とは、官能的、感覚的であることで、心の持ち方のことです。現在、日本の電車の吊り公告のひどさは、訪れる外国人がびっくり仰天するほどと聞いて、本当に赤面させられることです。

B争いとねたみは、人間関係における自己中心です。

私達の本当の人生の主人は、私達ではなく、キリストです。それを忘れて自己をむき出しに行うことは、主から見れば暗い業なのです。

パウロは、これらの業を「打ち捨てる」(アポソーメタ=夜の外套を脱ぎ捨てるように捨てる)べきと言っています。中途半端な是正や改善ではなく、完全な廃棄なのです。外套を脱ぎ捨てるように、きれいさっぱりと捨て去ることなのです。
 
3.光の中を歩もう
 
 
闇の業を脱いだ後は、光の武具を身に着けるべき、とパウロは、積極面を述べます。Tテサロニケ5:4−8を読みましょう。「兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。」また、エペソ6:13-17には、「邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」と、神の武具をもって私達自身を守ることが勧められています。

これらは、個別的に徳を身につけるという修業的なことを意味しているのではなく、「キリストを着る」(キリストを信じ、愛し、従う=ガラテヤ3:27)ことを意味しています。それが、「正しい生き方をしなさい。」と言う言葉に結び付けられています。「正しくいきる」(ユースヘモノース=ユーは良い、スヘーマはファッションで、相応しく生きるという意味です。キリストを着たものとして相応しく歩む生活はいわば自然に起こってきます。

自己中心を脱ぎなさい、キリスト中心の生き方を着なさい。重ね着はいけません。一回は裸になりましょう。洗礼を受けても、古い着物を着ている人は、それを脱ぎ捨てないで重ね着をしているか、キリストを全く着ていないかどちらかです。脱ぐと着る、はバプテスマから始まります(ガラテヤ3:27)。しかし、より一層明確な形で再確認される必要があります。コロサイ3:9−10を開きましょう「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」
 
終わりに
 
 
このローマ書13章を読むと、4世紀に北アフリカで生まれ、後に教会歴史最大の指導者となったアウグスチヌスの回心物語を思い出します。

快楽と放蕩の生活から足を洗って主に従う生活に入ろうと心から願っていても、それを妨げる情欲と戦っていた若きアウグスチヌスが、庭の片隅で祈り、主に訴えていたときに、隣の家から子供たちが「取って読め、取って読め」と手まり歌を歌っているのが聞こえました。それを神の語り掛けと受け取ったアウグスチヌスは、家に駆け込んで聖書を読みました。既に開かれていた聖書は、ローマ13:13でした。「その節を読み終えると、たちまち平安の光のようなものが、私の心の中に差し込んできて、疑惑の暗闇は全く消え去ったからである。」と、その体験を告白しています。

私達にとって、アウグスチヌス的転機はどのようなものであったことでしょうか?主が、私達を導いてくださるように祈りましょう。