礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年8月19日
 
「信仰の弱い人を受け入れる」
ローマ書連講(43)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙14章1-12節
 
 
[中心聖句]
 
  1   あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
(ローマ14章1節)

 
聖書テキスト
 
 
1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。11 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」12 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。
 
はじめに
 
 
1.昨週は、「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」(13:8)をテキストに、「愛は律法を全うする」というテーマで、私達の行為の動機が愛でなければならないこと、その愛の動機があれば、律法の細かい規定にこだわらす、律法を成就するものであることを学びました。

2.すると、こういう質問が帰ってくるでしょう。動機さえ良ければ、結果はどうでもいいのか、配慮や知恵は必要がないのか、と。いいえ、動機だけではなく、配慮や知恵も動機と同じように重要です。
 
A.考えの違いを受け入れる(1-4節)
 
 
1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
 
1.信仰の弱い人とは?
 
 
1節の「信仰の弱い人」とは、必ずしもキリストを中途半端に信じている人とか、初心者とかを指しているのではありません。偶像に捧げられた肉を食べることによって自分の良心が影響を受けてしまう、それならば、むしろ一切肉を食べないで野菜だけで生きていこう(2節)ことにしよう、と心を定めている人々のことです。ですから、信仰が中途半端というのではなく、良心的な人々、ただ、その良心が過敏すぎて自分で自分を責めてしまいやすい人という意味です。

ローマ書とほぼ同時期に書かれた第一コリント書は、この背景をより具体的に記していますので、Tコリント8章を参照しましょう。

当時の習慣として、神殿で生贄として捧げられた動物の肉の一部が祭司に払い下げられ、残りは礼拝者に戻されました。それを神殿で食べる場合もあったし、家に持ち帰る場合もありましたし、はたまた、市場に売ることもありました。国の行事としての礼拝の残り肉は、もっと大々的に市場に流れていました。市場で売られている肉は、今日私達がスーパーでその経歴が表示されているように(尤も、「国産」という表示が実は外国産であったりとか、偽装表示はかなり多いようですが・・・)、一切表示がありませんでしたから、どれが普通の肉で、どれが生贄となった肉かは見分けられませんでした。ですから、律法に忠実であろうとするクリスチャン、特にあるユダヤ人クリスチャンとそれに影響された異邦人クリスチャンは、「こんな肉を食べることは、間接的にせよ偶像礼拝に参加する事と同じだ」と言って、一切の肉食を潔しとしない立場を取りました。これを支持する立場は使徒15:20にも見られます。「偶像に供えて汚れたものと不品行と締め殺した物と血とを避けるように」とユダヤ人に配慮して異邦人クリスチャンが食べ物に関する最低の基準を守るように要求されています。
 
2.信仰の強い人とは?
 
 
他方、信仰の強い人とは、「クリスチャンは福音によって全ての規則から自由にされている、いや、規則によって自分自身の行動を縛ろうとする律法主義と戦わなければならない」という人々のことです。ガラテヤ5:1は「キリストは、自由を得させるために、私達を解放してくださいました」という自由の立場を強調しています。さらに、偶像等は何の実体もないものだから、それに煩わされる必要はない、実体の中の実体は神ご自身であると信じる立場から、食べ物に関するタブーをもたない人のことです。

Tコリント8:4-6には、「そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」と宣言されています。これは、ローマ14:14にも繰り返されています、「主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。」さらに、Tテモテ4:3-5を参照しますと、「結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」これには私も大賛成です。
 
3.互いの違いを尊重する
 
 
 
しかし、パウロは1節で、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」と言います。この文章を直訳しますと、「様々な論争点(ディアロギスモス)の批評(ディアクリシス)に至ることなく、信仰の弱い人々を交わりの中に受け入れなさい(プロスランバノー)。」という風になります。立場の違いを云々することなく、キリストにある交わりの中に受け入れなさい、ということなのです。

3節では、食べる人が食べない人を侮る(文字通りには、「価値無き者として捨て去る」=「あんな細かいことを気にして一つも信仰的ではない」と侮る)ことはいけないし、食べない人が食べる人を裁く(「あの人は無神経だ、神の掟をしっかり守るべきだ」という思いで裁く)こともいけない、といっています。

パウロが強調しているのは、意見の違いを受け入れ合いなさい、という点です。この意見の違いというのは、信仰の本質に関することではありません。キリストの贖いとか、信仰による救いという基本的な問題で、私達は譲れない立場を持っています。しかし、実践的な問題となりますと、異なる立場・意見がありうるし、それはそれでよいのです。英語で agree to disagree という表現があります。不一致であることを合意する、とでも訳せましょうか。とても大人の表現です。私とあなたとは意見が異なる、でもその意見の相違は私とあなたが喧嘩する理由にはならない、違いを互いに尊重しながら、仲良く付き合っていく、こういう態度にすべてのクリスチャンが立ちますと、クリスチャン同士の摩擦がグーンと減ると思うのですが如何でしょうか。
 
4.何故尊重するのか
 
 
これについてパウロは、きちんと理由を述べます。

@3節「神がその人を受け入れてくださったから」というのが第一です。「受け入れてくださった」はアオリストで、その人がキリストを主と信じた時を示します。神が受け入れなさった人を私達が拒絶するほど、私達は高いところに立っているのでしょうか?ノーです。譬えが良いか分かりませんが、ある大学の入試委員会が、ある学生を合格と発表したら、事務局の小使いさんがどんなに頑張っても不合格に出来ないのと似ています。神は私達一人ひとりを大切なもの、尊いものとして受け入れてくださったのです。神が受け入れなさった人に対して、私と意見が違うからといってシカトしたり、あんな人はダメだと悪い噂を流すなんて、トンでもないことです。大学の小使いさんが学長気取りになるよりも滑稽で、反逆的行為です。

A第二の理由は、彼が神の僕だからです。「4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。」他人の、と言っていますが、この文脈では「神の」と置き換えられます。「しもべ」(オイケテーン)とは、「住み込みの家庭労働者」ということで、四六時中主人の指導監督の下に働くしもべ(家僕)のことです。たとえば私が、あるご家庭を訪問して、その家のお手伝いさんの行儀悪さを見てしまったとしましょう。わしはそのお手伝いさんに直接文句を言うべきでしょうか。いいえ。それはご主人に失礼です。あるとすれば、ご主人に遠慮がちに言うことは許されるでしょう。その注意の結果、ご主人がその僕を継続雇用なさるか首にするか、それはご主人の責任であって、私達が首を突っ込む課題ではありません。互いを裁くことは、このように神の主権を侵すことなのです。

B第三の理由は、神は可能性を見ておられるということです。百歩譲って、ある人がとんでもないダメ人間だったとしても、それは、今の話です。4節「主には、(今は倒れていても)彼を立たせることができるからです。」神の限りない可能性を信じましょう。もっと言いますと、その可能性があるからこそ、私は今ここでゆったりしていられるのです。
 
B.すべては主のため(5-9節)
 
 
5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
 
1.「食べ物以外の決まり」についても、この原則は適用される
 
 
 
食べ物に関する決まりについて今まで論じてきたパウロは、寛容の原則を他の分野にも当てはめられる、と論じます。第一は、「日」の問題です。「5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」と、日についての考え方の違いを受け入れ合いなさいといいます。

日の問題というのは、主として安息日問題です。ユダヤ人は世界中どこに行っても土曜安息を固く守っていました。それこそが彼らの民族としての結束の絆だったのです。この安息日の厳格な遵守を、ユダヤ人でないローマのクリスチャンは行うべきでしょうか。実際、クリスチャンになることが、その次の土曜日から安息規定を守ることを意味するとすれば、彼らは早速生活できなくなります。

一方、日曜日に集まってきて礼拝を捧げるという習慣は、初代教会にだんだん広まっていきましたが、これとても、「決まり」とは捉えられていませんでした。また、日曜日は土曜日に代わって安息日である、この日を安息日として厳格に休むべきであるという「決まり」と捉えることも問題です。異邦人クリスチャンの中には、ガラテヤやコロサイに見られるように、ユダヤ人に倣って、ユダヤ人の安息日や祭日を守ることが大切である、という教えに影響されている人もありました。

それと反対に、キリストは儀式的な律法から私達を解放したという福音の基本を信じ、「どの日も同じ」と、すべての日を聖いものと感じながら、日々を生きた献身の心をもって生きているクリスチャンもありました。(すべての日は同じとは、すべての日は世俗的という意味ではありません、すべての日は聖なる日という意識を表します)。パウロは、当然この考え方を支持していました。コロサイ2:14,16は、はっきりとクリスチャンは規則的な律法から自由にされていることを表明してます。

しかしながらパウロは、「ある日」を大切に思っているクリスチャンを排除しませんでした。パウロのアドバイスは実に的確です。「それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」(プレーロフォレイストー=充分確信していなさい)。自分の中に確信を持つことは大切ですし、その自由はあります。しかし、それを他人に押し付けたり、自分の基準で他人を裁いたりしてはならない、というのです。

今日的問題として、クリスチャンとお酒はどうなのか、タバコはどうなのか、色々質問がありえます。私は、聖書が明確な指示を与えていない問題については、パウロが与えたこの原則によると考えます。
 
2.生きるのも死ぬのも主のため
 
 
寛容の原則を拡大しますと、なんでもかんでもどうでもよいという「行き過ぎた自由」という考えに走ります。パウロは歯止めとして、「それは主のためであるかどうか」を考えることだ、と言います。「6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。」
 
3.キリストは生きるものと死んだものの主であられる
 
 
私達が生きるのも主のため、死ぬのも主のため、という徹底的なキリスト中心的人生観の基礎は、キリストご自身が生きているものの主、死んだもののための主であられると言うことです。「8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」
 
C. 他人を裁く恐ろしさ(10-12節)
 
 
10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。11 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」12 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。
 
1.私達はみな、神の裁きの座に立つ
 
 
兄弟達を裁いている私達も、神の裁きの座に立って裁かれることになります。これは厳粛な事実です。私達が裁くその厳しい基準で私達自身が裁かれるのです(マタイ7:2)。他のどんな罪に勝って、クリスチャンが他のクリスチャンを裁く以上の罪はありません。ある注解者の言葉を引用します、「私達が、せっかちで、充分な情報に基づかず、愛のない、そして寛容さに欠ける裁きを行うとき、私達は、主の聖名をもって呼ばれている兄弟達の悪口を言っていることを忘れてしまっている。」

パウロはここで、イザヤ45:23を引用します。「わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、・・・」これは、審判における神の主権を強調している言葉です。
 
2.その裁きの座で申し開きをするのは自分のことである
 
 
最後の審判のときに「申し開きをするのは」自分のことです。つまり、自分の生涯、行状、言葉、思いについて責任を問われ、それに答えるのです。他人の行状についてではありません。私達は自己責任で、この人生という長い旅路を歩んでいるのです。
 
終わりに
 
 
私達の人生は「主のために生きている」ことを確認しましょう。主のために生きることは、主が愛してくださっている兄弟姉妹を受けいれ、愛することを含んでいます。この週も、御心に叶った歩みを全うしましょう。ある聖書注解者は「裁きとは霊的傲慢の現れである」と語りました。どうか、私達の交わりから、裁きのスピリットが除かれ、寛容のスピリットが支配しますように。
 
お祈りを致します。