プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。
2007年8月19日
ルツから学ぶB「自己憐憫を乗り越える」
竿代 皓子牧師
ルツ記 1章19-22節
Ruth1:19-22
「それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出し、女たちは、「まあ。ナオミではありませんか。」と言った。 ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。 私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」 こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。」 (ルツ記 1章19-22節) |
A.自己憐憫とは?
今回の「自己憐憫を乗り越えて」について、「自己憐憫」という言葉を辞書でひいてみました。しかし、私の持っている辞書には載っていないことに驚かされました。
「自分自身を哀れに思う、可哀相に思うこと」と理解しておりますが、もしかしたらあまり現代では使われなくなっているのかもしれません。
最近聞いたことですが、私達中高年の使っている言葉は、現代の若い人たちには「難しい」と言われたことです。少々ショックなでした。言葉も時代とともに変化しているのが現状です。
言葉の解説はさておき、「自分自身を可哀相に思う」という心の営みは、だれでもが、いつでも自分の思う通りにいかなかった時や、辛い悲しいことに直面したときに感じる感情であります。自分だけが何故こんなめに会うのだろうかと一度も思わなかった人はいないと思います。
あるクリスチャン婦人のお手紙の中で
この世は主のための修練場であると教えられています。
と書かれてありました。本当に人は困難を乗り越えて生きていかなければならないのが、私達の定めです。
しかし、この婦人は悲しみを乗り越え、それらの経験を修練と受け止めて、今も生き生きとその老後をお元気に生活されておられます。その彼女の秘訣は、
主のための
という言葉の中にあります。神を信じる人にとっては、「どうして私だけがこのようなめに遭うのか」という自己憐憫は、次のより充実した人生へのステップになっているようです。
B.ナオミの自己憐憫
ナオミの言葉から彼女の自己憐憫を見ていきます。
1)まず、20節にこうあります。
「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。
彼女は
「『ナオミ=私の楽しみの意』ではなく『マラ=苦しみの意』と自分の名前を変えて呼んで下さい」
と町の女達に懇願しています。名前は一人の人格を代表するものです。
私は高校時代の古文の学びで、天皇が野原で出会った娘に「名を聞かな」と声をかけている歌の解説で、名前を聞くのは「求婚」を意味していると教わりました。
とても印象的で今も覚えているのですが、名を聞くということ、名を知るということは、人格的な一歩深い関係とその人の人生を意味します。
それですからナオミは自分のいままでの人生を見てみると、苦しみばかりで、何の楽しみがあったろうかと「苦々しい」思いを持ったのです。
当然です。それほど彼女はモアブでの経験が苦しかったことが理解できます。苦しみは私達を間違った自己評価に導きます。ナオミもその誤りに陥りました。ナオミはナオミなのです。
しかし、苦しみは私達の人格を変えることがあるのです。現代でもトラウマによる自己評価の低さがいかに人々の人格を歪めていることでしょう。神は「マラ」と思い込んでいる人々のために解放の備えを持って待っておいでです。
2)21節にこうあります。
私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。
彼女は失ったものを数えました。
夫と二人の息子の死、オルパという嫁との離別、飢饉ゆえの故郷であるベツレヘムからのモアブの地への都落ち、外国の地での約十年の生活、全てを失っての帰国、どれ一つ取っても生易しい試練ではありません。本当に「苦しみ」の連続です。
私達も過去の、また現在の試練を一つ一つ数え上げます。自己憐憫は失ったものを、何時までも固執して数え上げることから始まるのです。弱い人間にとってそれは当然のことでしょう。そして、21節にあるような言葉を発します。
3) 全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。
主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」
このような運命に陥れたのは神であると考え、自分の不運を嘆き、神の所為にするのです。
だれがこのようなナオミを責められるでしょうか。私達も皆同じことを経験しております。度を越えた苦しみの故に私達は神の愛を疑うように誘惑されます。神に文句を言うのです。
ナオミは正直な人です。一つも強がってはおりません。私たちも「苦しさ」の故に、神に文句を言うときがあるでしょう。
私はこのナオミの素直な神に対する言葉が好きです。「主は私を卑しくし」の部分の英語では
the Lord has testified against me(New King James Version)
the Lord Almighty has condemned me(Today's English Version)
と訳されています。
神は私に試練を与え(テストをし)
となりますし、もう一つの訳ですと
非難(有罪に)する
というようになります。
ナオミは神を恐れる真実な人物でしたが、やはり心に負い目を持っていたようにも感じられます。それはイスラエルの地から離れて、異郷の地モアブに行ったということであったかもしれません。
自己憐憫は正しい神観念を歪めます。自分の不幸ばかりを見つめて、神の恵みが見えなくなる状態になるのです。
C.自己憐憫をのりこえる方法
1)19節と22節からご紹介します。
「それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。…」 …モアブの野から帰って来て、…、ベツレヘムに着いた。」
この御言葉に示されているように、まず神の臨在のあるところに帰ってくることです。
ナオミは人間的な解決として、飢饉から逃れるという理由はあっても偶像礼拝をする地に出て行ってしまったこと が苦難の始まりでありました。
ベツレヘムとは「パンの家」という意味です。ナオミは遂にモアブを出て、神の祝福の地に帰ってきたのです。これが第一歩です。 今あるところから、今ある自分の実情から方向転換をして、命のパンである神のもとに帰って来ることが必要です。
2)22節からご紹介します。
ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、…
ルツ記の主人公ルツは今後のナオミの人生にとって祝福の源になる人物です。彼女の優れた特性は、16節に告白されているように、主に対する圧倒的な信仰の持ち主であったことです。
彼女は自分の国と家を捨てました。モアブの宗教もモアブも民族であることも捨て、ナオミの信じるイスラエルの神ヤハウエを自分の神とし、イスラエルの国を自分の国としたのです。
そしてナオミから決して離れないで、一生自分の母として仕える決心をしている人物です。
ナオミは全てを失ってしまったといいますが、彼女は最も優れた最後の一つを持っていたのです!
神は私達から全てを奪ってしまうように感じることがあっても、それは違います。
最後の最も大切なものは私達に残して与えていてくれるのです。あなたにとってそれは何でしょうか。
『数えてみよ主の恵み』という賛美歌にありますように、恵みを数えることです。
それも失ったものだけを見るのではなく、与えられている恵みを数えることが第二の秘訣です。
3)22節後半からです。
大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。」
このタイミングはとても重大です。ここに神の愛の摂理が表されています。収穫期であったからこそ、ナオミとルツは落穂拾いによってパンを得ることが出来ました。
そのうえに、ルツと結婚をすることになるボアズとの出会いも可能になったのです。このボアズはダビデ王のひいおじいさんになる人物です。ルツはキリストにつながる家系の嫁になるきっかけが、このボアズ家の畑の落穂ひろいに入ったことから始まるからです。すべては神の御配剤の元にあったことなのです。
D.おわりに
自己憐憫は自分の不幸に目を留め、神を見ないことによって深みに嵌っていくことになります。
なんと多くの人がその罠に嵌って苦しんでいることでしょうか。神に帰って、見上げましょう。神の愛の摂理に自分を委ねましょう。
そのようにして、ナオミのように、神への信頼と愛の摂理を自分の人生で体験していきたいものです。お祈りいたします。
Message by Hiroko Saoshiro,pastor of Nakameguro IGM Church
Compiled and edited by K.Otsuka/August19, 2007