礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年8月26日
 
「互いの霊的成長」
ローマ書連講(44)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙14章13-23節
 
 
[中心聖句]
 
  19   そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
(ローマ14章19節)

 
聖書テキスト
 
 
13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。14 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。 16 ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。20 食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。21 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。22 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。
 
はじめに:たかが食べ物、されど食べ物
 
 
14章から15章前半にかけて扱われているのは、食べ物に関わる教会内での対立・互いの中傷ということです。現在の中目黒教会を考えてみると、何で食べ物程度のことで対立が?と、ピンと来ないと思います。しかし、問題の背景・その問題性・パウロの解決法と探っていくと、今日でも似たような問題があり、同じ解決法が必要であることが分かります。
 
1.問題の歴史的背景
 
 
・最初の教会はユダヤ人が殆どで、ユダヤ人的な食べ物の「戒律」は当たり前に行われていて、特別な問題となりませんでした。

・しかし、別な食習慣を持つ異邦人が信仰を持ち、教会に入ってくることでこの人々をどう扱うかが問題となりました。異邦人クリスチャンも、ユダヤ人的習慣を守るべきだという考え、いや、そうすべきではないという考えが激突したのがエルサレム会議でした。充分議論が戦わされ、祈って聖霊の導きを仰ぎ、後者の考え(信仰の自由)が認められました。ただ、双方が歩み寄る最低の条件として、異邦人クリスチャンが偶像に捧げた肉を食べないことが謳われました。

・さて、コリント、ローマその他の非ユダヤ的な環境では、偶像に捧げられた肉を食べてよいかということが問題となりました。というのは、明らかに偶像に捧げられた肉ですという表示があるわけではなく、形式的に捧げられた後すぐに払い下げられた肉もあり、出所の分からない肉もあったからです。神経質なクリスチャンは、疑わしいものには触らないといって、肉食をしないようになりました。他のクリスチャンは、クリスチャンは規則的なものから解放されているのだから何を食べても良いと主張し、実践しました。この二つが対立し、互いを中傷するまでになりました。
 
2.食べ物問題が提起した、より深い問題
 
 
@救いの本質:救いは信仰のみによるのか、よい行いによるのか

A偶像との関わり:偶像との形式的な関わりでさえも「罪」なのか否か

B教会内での意見の相違:意見の相違はあってはならないのか、あっても仕方がないのか

C意見の相違の克服:意見の相違があるとすれば、どう克服するのか。
 
3.今日のテキストの扱い
 
 
昨週は、「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」(ローマ14:1)をテキストに、「信仰の弱い人を受け入れる」というテーマで、寛容のスピリットについて学びました。13節以下もこの思想が続きますが、今日は、いつもとスタイルを変えて、テキストをごく短い解説を加えながら読み下し、それが終わってから、パウロが強調しているポイントを整理し、それから今日的課題に適用するという風にお話しします。
 
A.テキストを理解しながら読み進む
 
1.裁きあわないように(13節a)
 
 
13a ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。
 
13節の「ですから」は、当然12節を受けています。「私達は、おのおの自分のことを神の御前に申し開きをする」と、私達は一人ひとり自己責任で神の御前に生きているのですから、その当然の帰結として、互いが互いを裁くことは相応しくありません。裁くことは、自分を神の座に置くことなのです。
 
2.躓きを置くな(13節b)
 
 
13b いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。
 
兄弟を裁かないことは、いわば消極的ですが、より積極的には、「躓きになるものを置かない」愛の配慮が必要、とパウロは語ります。電車の中などで、足を組んで、通路の真ん中に爪先を突き出している人がいます。用事があって電車の中を歩くときに躓きそうになって、大変迷惑に感じます。私達は、教会の中で、兄弟達に同じ躓きを置いてはなりません。
 
3.食べ物の汚れはない(14節)
 
 
14 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。
 
ここで、取り上げられている食べ物の課題は、14章前半からずっと扱われてきました。パウロは、自分は、食べ物に関するタブーは持っていない、と福音の自由を確信しています。これは、「どんな食べ物でも人を汚すものはない、すべての食べ物は清い」(マルコ7:15,19)という主イエスのみ言葉とも一致します。

さらに、これはペテロの経験とも合致します。ユダヤ人であるペテロが異邦人であるコルネリオを訪問する前に、神は幻を与えなさいました。天からつり下ろされた敷物の中に様々な動物が入っていました。食べなさい、という天からの声、しかし、ペテロは「私はレビ記に記された儀式的に汚れた動物は食べられません」と言います。天からの声はそれを打ち消して、「神が清めたものを、清くないものといってはいけない」という所でペテロは目が覚めます(使徒10:11-15)。ユダヤ人が食べないようなものを食べる異邦人と食卓を共にすることはペテロにとって死ぬよりも辛いことでしたが、神はこの幻を通して、ペテロの偏見を予め取り除きなさったのです。

パウロは、この同じ信仰に立ってはいましたが、同時に「これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。」と言って、それぞれに与えられた光で汚れたと判断すれば、それは汚れたものだ、といいながら、パウロと同じ立場に立たない人を受け入れます。これは、相対的な倫理を言っているのではなく、光の問題なのだ、というのです。
 
4.愛の配慮の必要(15-16節)
 
 
15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。16 ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。
 
パウロは、自分が持っている信仰の自由を行動に移すことで、狭い考えを持った兄弟達が躓いたり、信仰を失ったりしては申し訳ない、それならば、私は自分の自由を制限する、と宣言します。

15節の「心を痛める」(ルペイタイ)というのは、その結果として堕罪にまで至る可能性を含む良心の傷のことです。偶像の神に捧げられた肉を汚れた肉として忌避する人々に対して、私が信仰の自由を振りかざして、何でも平気で食べたとすれば、その人の心は痛み、自分も食べても良いのかなという言い訳を与え、結果として、偶像教に後戻りする機会さえ与えかねません。

自分が良いとすること(この場合は、信仰の強いものが持っている自由)でも、他人がそれによって躓いたとすれば、それは止めるべきなのです。自分の信じることを行って何が悪いのか、という考えは余りにも子供的です。世の中でも、正論が人の心を傷つけることは、良く見られます。まして、教会のなかでは、他の人を躓かせる要素は除くべきなのです。
 
5.神の国で大切なのは?(17-18節)
 
 
17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
 
初代教会で食べ物についての決まりが問題となったことは認めつつ、パウロは、食べ物自体が大問題だ、とは言いません。「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」と言って、教会の最大の関心事は「神の国」なのだといいます。神の国とは、神のご支配のことです。神の国の特色は、「自分ではなくて神の与える義と、神との平和と互いの平和、そして人間的なものによらない聖霊による喜び」がその構成要素なのだ、と目の付け所をしっかりと失わないように勧めます。
 
6.私達の目の付け所(19-21節)
 
 
19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。20 食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。21 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。
 
パウロは、対立をしないようにという消極的な勧めだけではなく、第一に、「平和に役立つこと」(タ テース エイレーネース=平和に関わる事柄)を追い求めましょう、と説きます。この平和とは、互いの平和でしょう。心から理解し合い、受け入れ合い、愛し合うそのような平和です。

第二は、「互いの霊的成長」(タ テース オイコドメース テース アレールース=互いの建て上げにかかわる事柄)です。実は「霊的」というのは新改訳聖書翻訳者の補足でして、原文にはありません。原文は単に、「互いの建て上げにかかわる事柄」です。高層ビルが二つ同時併行で建てられる姿を想像してください。途中まで建てあがったビルが資材を引っ張り上げて隣のビルの建築を助ける、隣のビルも自分のビルの建設を助ける、そのように全体が建てあがっていく、そんな姿です。
 
7.自分の確信を確かめ、そこに生きる(22-23節)
 
 
22 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。
 
この場合の「信仰」は、それによって救いを頂く信仰というよりも、それぞれが神の言葉に接して祈りのうちに導かれる確信という風に定義されましょう。それがあやふやで日々の行動を行っているとすれば、それ自体が「確信を持たないで行動する」という意味で「罪」になります。
 
B.クリスチャンの自由と愛による配慮の調和
 
 
この文節を纏めるマルチン・ルターの言葉を紹介します。「キリスト者の自由」という著書の中で、彼は、「キリスト者は、誰にも隷従しないという点で、最も自由な存在である。同時に、キリスト者は、すべてのものに隷従するという点で、万人に対して最も忠実な僕である。」と言っています。食べ物問題に関して、パウロがここで伝えようとしている大切な諸原則をしっかりと捉えると、その他の諸問題の解決になるでしょう。では、その諸原則を纏めましょう。
 
1.福音の自由
 
 
福音は私達を自由にします。クリスチャンは、愛の原則以外にどんな規則や決まりにも縛られません。キリストは自由を得させるために私達を解放してくださいました。ですから、私達は再び律法主義(正しい行いによって救われるという一見真面目でありながら福音の本質から離れた考え)の奴隷となってはなりません(ガラテヤ5:1)。
 
2.個々に与えられる光
 
 
律法主義からは解放されますが、私達が日常生活をどんな基準で送るか、善悪を見極める基準はなにか、という点は、それぞれのクリスチャンが、祈りと御言との導きで定めることです。そして、それは互いに同じではありません。良く「光が違う」という言い方をしますが、正に、一人ひとりに与えられる光は違うのです。これは、相対的倫理観とか、清濁併せ呑むという考えとも異なります。基本に聖書があるからです。信仰があるからです。でも、多面的な要素を持っている聖書は、すべてのことに同じ答えを齎しません。例で言えば、タバコは良いか悪いか、聖書の時代にタバコはありませんでしたから、直接の答えはありません。ありませんが、一般的な答えは、聖書の学びから得られます。
 
3.裁きあうのは危険
 
 
互いに違うことを私達が裁いたり、侮ったり、噂の対象にしたり、仲間に入れたり外したり、の理由にしてはなりません。どうか、あの人は変わっている、ということを非難の材料にしないようにしましょう。その理由は、先週お話しました。神の主権を侵すことだからです。
 
4.違いを評価
 
 
裁きあうのではなく、むしろ、互いの違いを尊重し、違いの故に神を賛美する積極的な姿勢が必要です。それこそが、互いを建て上げる道となります。あの人は変わっているが、その故に神に用いられる可能性があるから神に感謝しましょう、という態度をもちたいものです。様々な違いがあって、それが自己主張でなくて、神を見上げて補い合うとき、美しいハーモニーとなるのです。
 
5.愛の配慮
 
 
考えの違う人がいる場合に、その人を配慮しましょう。躓きの材料をわざわざ置くような無神経な行動は慎みたいものです。たとえそれが良いことであったとしても、その主張によって他の魂を苦しめるならば、それは愛なる神を喜ばせないのです。キリストが兄弟のために死なれた、この愛の事実に立ったものでなければ、人と神とに仕えることにはなりません。
 
C.今日の問題について
 
1.クリスチャン間の違い
 
 
翻って、21世紀の私達の教会においても、しばしば問題になるのは、信仰の本質に関わる重大なことではなく、こんな服装は相応しいか、とか、こんな趣味やスポーツはどうかとか、お酒は許されるのか、一滴でも罪なのか、料理用の酒やみりんでさえもいけないのかどうか、法事でお線香をあげることはクリスチャンとして妥当なことか否か、グループの運営で自分の意見を押し通す人が良いか、みんなの意見を聞きすぎて方向性を持たない人は良いか悪いか、とかの問題です。そうした些細な違いで、互いを批判したり、誤解したり、噂の対象にしてしまうことがありえます。実に不幸なことです。

こうした違いについて、教会として、教団として統一見解を出して欲しいという声も聞かれます。本当にそうでしょうか。しかし、それらについて統一見解を出すとすれば、途方もなく膨大な規則集になってしまいます。それ以上に、私達がパリサイ主義に陥る危険性もあります。

私は、パウロが明確に宣言した諸原則をしっかり捉えれば、規則集も統一見解も不必要であると思います。
 
2.例として:クリスチャンと飲酒
 
 
お酒について「私(個人)の」見解を申し上げます。私は、聖書が神の宮としての私達の肉体を清く保つべきこと、酒が多くの害を与えることから、酒よりも勝る聖霊の喜びが強調されていることから、酔うほどの飲酒が戒めていることに注目する必要があると思います。ただ、健康その他の理由で、厳密な禁酒を説いているとは思いません。その意味で、私は酒に関する規則からは自由です。しかし、私は、私の自由が、大酒のみから救われた父のようなクリスチャンに対して、再度の大酒にいたる誘惑と言い訳を与えるとすれば、その兄弟を躓かせるという配慮から、お酒は飲みません。ただ、お酒を飲むクリスチャンを裁くこともしません。その人にはその人の光があるからです。

ケニア・ナクル教会で起きたエピソードを一つ紹介します。ナクルで開拓を始めた頃、スタインクラーさんというアメリカ人医師ご夫妻が、何に感動したのか、開拓間もないナクルアフリカ福音教会に出席し始めました。しかも、教会が正会員を募って、正式に教会として発足しようとしたとき、真っ先にメンバーになりたいと申し出られました。彼らはアメリカの聖公会の方で、その素晴らしいクリスチャン的品格で私達も励まされていましたから、受け入れる方向で事務を進めました。ところが、先輩宣教師の一人が異議を唱えました。アフリカ福音教会(AGC)には禁酒規定があるが、S医師の家には、マグカップが並べてあった、これはけしからん、という訳です。新米宣教師である私は困りました。S家にお邪魔して、正直に申し上げました。飲酒に関する私の見解とAGCの規定について説明し、S医師には、「あなたはここに滞在するのは僅か2,3年なのだから、客員としてこれまでどおり出席し、活動に加わることもできるし、AGCの規定を尊重してメンバーになることも出来る。どちらにするか、良く考えて答えを出して欲しい」とお話ししました。数日後、彼が教会を訪れ、こう言いました。「私は医者として、適度なアルコールは体に悪いとは思わないし、ケニアの奥地に行って、他の飲み物がないときにビールは大変よい睡眠剤になると思っている。しかし、私は、AGCの立場も尊重する。そして、ケニアにいる間、禁酒の立場を取るので、メンバーにして欲しい。」私は本当に喜び、驚きました。数年後、アメリカの集会で、帰国しておられたS夫妻にお会いしました。開口一番S医師は「アイザック、私はあの時禁酒を決めたことを今でも続けているし、それを後悔していないよ。」といいました。私にとって二重の喜びでした。
 
終わりに
 
1.互いの相違を認め合おう
 
 
教会の中にも、実際的な問題については考えの違う人がある、という前提でまず互いを理解しましょう。どうか、「裁きのスピリット」から救われる教会となりましょう。
 
2.互いの建て上げに力を注ごう
 
 
教会は、寛容の原則を実行し、それによって互いを建て上げることを学ぶ、愛の学校です。互いのために祈り、この兄弟姉妹のために何が出来るだろうかを考えて、小さなことでも実行しましょう。
 
お祈りを致します。