礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年9月2日
 
「キリストでさえも・・・」
ローマ書連講(45)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙15章1-13節
 
 
[中心聖句]
 
  3   キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。
(ローマ15章3節)

 
聖書テキスト
 
 
1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。6 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。
7 こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。8私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、9 また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」10 また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」11 さらにまた、「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」12 さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」13 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
 
はじめに
 
 
1.食べ物問題から始まったローマ教会内の論争・対立に関して、パウロが如何に知恵と恵みをもって対処しているかを14章で学びました。

2.15章前半は、その問題の締めくくりですが、パウロはキリストの模範を示すという、すばらしい形でそれを行います。
 
A.キリスト:自分を棄てる模範(1-7節)
 
1.隣人の弱さを担うのがクリスチャン(1-2節)
 
 
1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。
 
「強い人」:パウロは、自分を「力ある人」の中に入れて勧めをしていますが、この場合の強い人は、お金もちとか、力持ちという意味ではありません。福音の真理をしっかり捉えて、自由を体験した人です。さまざまな細かい規則に縛られず、自由に生きるのですが、でたらめな生き方ではなく、神の律法の精神をしっかりと行っている人々のことを「力ある人」と言っています。

「弱い人」:ここでの「力のない人たち」とは、当然、病気がちの人とか、貧しい人のことではありません。福音の自由という考えに及ばず、自らの小さな規則違反におどおどしているという点で「弱い人」のことです。

弱い人の弱さを担う:強い人が弱い人の弱さを担うとは、強い人が、彼の信じている自由を振り回さずに、弱い人の気持ちを推し量って、その人を躓かせない配慮をすることです。自分を喜ばせるとは、他の人々の気持ちを配慮せずに、自分の信じた行動を無神経に取ることを意味します。

自分を喜ばせない:私達が生きている時代を社会学者はひっくるめてポストモダンと呼んでいます。その特徴の一つは、楽しみの追及です。すべての価値は面白いか面白くないかで決まります。今日の礼拝は面白かった、つまらなかっただけで、次の日曜日に出るか出ないかを決めるのは正しいでしょうか。もちろん、態と礼拝プログラムをつまらなくする必要はありません。しかし、真理を薄めてまで面白くする必要はありませんし、それはしてはいけません。自分を喜ばせない態度というのは、禁欲的な陰鬱な顔をして、陰鬱な物腰で生きていくことでもありませんし、スポーツや芸術や趣味の楽しみを否定することでもありません。自分にとって楽しいことを第一の人生目的として置く生き方です。否定的なことを言えば、自分にとって楽しいことでも、より大きな目的(主のため、人のため)に喜んでそれを犠牲にする態度です。

「隣人を喜ばせる」:パウロは、自分を喜ばせる代わりに、隣人を喜ばせることを私達の生き様にしなさい、と語ります。隣人を喜ばせるとは、隣人のわがままを受け入れ、許すことではありません。あくまでも、隣人の徳を立て、その人の本当の益となるためのものです。他人の意見や願望・関心に順応すること、そのためには、自分に与えられている自由に対して制限を課することも含まれます。ローマ書14,15章で課題として取り上げられている肉食について言いますと、他のクリスチャンの躓きとならないように、おいしいビフテキとか親子丼とか、トンカツを放棄することです。昨日までインドにおりましたが、ベジタリアンの食事も何度か頂きました。肉はなくてもおいしい料理はあるものだということを再認識しました。閑話休題。
 
2.キリストの自己否定(3-4節)
 
 
3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
 
パウロはここで、「自分を喜ばせない」という生き方の模範として、主イエスを示します。

「ご自身を喜ばせることはなさらなかった」:この言葉は、先ほども言いましたように、自分の肉体的な喜び、趣味、安楽を何から何まで放棄するという禁欲的な生き方を意味しません。主イエスの生き方をずっと観察しますと、楽しむときには大いに楽しみ、喜ぶときは大いに喜びなさいました。その意味では主は快活な方でした。しかし、自分を否定するときは、徹底的に己を殺しなさいました。自分を喜ばせないということは、「他の人の益のために、自分の好きなことを好きな方法で行うという自由を、自主的に放棄する」ことです。この生き方、生き様はキリストのご生涯を貫くものでした。

この真理を詳しく記したパウロの言葉として、ピリピ2:6-8を挙げることができます。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じよ 、になられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」この箇所では、自己否定の模範としての主イエスが述べられています。この自己否定について、河村師は「当然自分のものとして要求することが出来る権利を、神の栄光と他の人の益のために自発的に放棄すること」と定義します。ローマ書のこの文脈に即して言い換えますと、「何を行っても良いというクリスチャンの自由を、愛のゆえに制限すること」です。

私達の主は、私達のために、苦しみと辱めを自分から引き受けてくださった主であることを覚えましょう。最近はやっている「教会は楽しければよい、楽しいために信仰を送る」という態度はキリストのものではありません。もし、楽しいことを追求するのがキリストの生き方であったとすれば、彼は十字架を回避なさったことでしょう。Tペテロ2:21には、「あなたがたが召されたのは、実にそのため(苦しみを受けるため)です。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」と記されています[し、また、ヘブル12:2、3では、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」と記されている通りです。]

パウロはさらに、詩篇69:9を引用します。これは、神の家のために苦しみを受け、忍ばれたキリストを示す言葉として、宮清め(ヨハネ2:17)の後の非難を忍ばれたときに引用されています。・苦しみと楽しみはどう繋がるのでしょうか。実際を言いますと、本当の自己放棄がなされると、本当の楽しさ、喜びが齎されるのです。詩篇 40:8においてダビデは、「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」と言って、本当の楽しみは主の御心を行うことだと言い切りました。大阪の「くつろぎ聖会」が先週行われ、くつろいだ中でも、み言葉に聞く「バイブルタイム」がありましたので、このダビデの言葉を引用しました。くつろいで楽しむことと、自己放棄とは矛盾しません。本当の愛は、他人の恥を引き受けるものです。この救い主の心が分かると、自分について多少の自由を放棄しても、他の救いとたて上げのために尽くすものとなるのです。

旧約聖書は、主のため、人のために自己犠牲を喜んで行った人々の実例で満ちています。ヨセフが意地悪な兄弟たちを忍耐強く扱い、最後に悔い改めに導きました。イサクは、忍耐を持って井戸を掘り続けて勝利を得ました。それは私達が持つべき忍耐を励まします。この場合の忍耐とは、苦しみを耐え抜く忍耐というよりも、「他の弱く、小さく、拙いものをも期待を持って待つ忍耐」です。その忍耐は我慢ではなく、希望と愛をもっての忍耐です。
 
3.一致のための祈り(5-6節)
 
 
5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。6 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。
 
パウロは、この文節を「一致のための祈り」を持って締めくくります。

一致とは:パウロの教会に対する祈りは、「互いに同じ思いを持つ」ことでした。これは、食べ物や安息日やそのほかのすべてに関して統一見解を持つということではありません。別々でよいのです。しかし、アグリー トウ デイスアグリーでよいのです。心の通い合う一致です。

一致の源は忍耐の神:注目したいのは、神は忍耐の神であるということです。忍耐の源泉、忍耐の模範が神であられます。神は、イスラエルに対して如何に忍耐を持って忍んでくださったことでしょうか。私達に対しても、如何に忍耐を持って諦めたり、怒ったりなさらずに私達の成長を助けてくださっていることでしょうか。私達も、神の忍耐のスピリットを分け持たせて頂きたいものです。

教会の一致の目的:教会の一致の目的は神の栄光です。私達が心を合せて神をほめたたえる歌声を、神はどんなにお喜びのことでありましょうか。
 
B.キリスト:異邦人の僕(7-13節)
 
1.異邦人とユダヤ人の相互受容への勧め(7節)
 
 
7 こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。
 
異邦人とユダヤ人が相互に受け容れるようにとの勧めは、14:1の繰り返しであり、しかもこの項目の締めくくりです。相互といっても、力点は保守的なユダヤ人が、少し毛色の違った異邦人クリスチャンを積極的に受け入れるようにということです。

模範であるキリスト:ここで、またしても、模範者なるキリストが示されます。キリストが罪人である私達を受け入れてくださったように、ユダヤ人であるあなた方は異邦人を受け入れなさい、というのです。
 
2.キリストがユダヤ人のしもべともなられた(8-9節a)
 
 
8私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、9 また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。
 
キリストは、救い主となられるために、僕として仕えなさいましたが、そのステップは次のようになります。

最初のステップは、選民であるユダヤ人への僕(この場合の僕とは、奴隷的な僕ではなくて、仕えるもの=ディアコノス)となられたことです。主イエスは、この世に居られた期間の殆どを、ユダヤ人のための奉仕に専念されました。

それは、ユダヤ人への約束を成就して、救いを完成することでした。救いは先ず神の約束を担っているユダヤ人に対して与えられ、成就すべきだったのです。

それは、ユダヤ人の救いを限定目的とするのではなく、彼らを通して、救いが異邦人に及ぶという遠大な神のご計画の成就のためでした。異邦人の救いについても、ユダヤ人のそれと同様に旧約聖書に予言されているのですが、それが成就したのです。
 
3.旧約の予言(9節b-12節)
 
 
こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」10 また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」11 さらにまた、「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」12 さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」13 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
 
異邦人への救いが約束されていることを、パウロは4箇所の聖書から裏付けます。

「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」これは、詩篇18:49の「それゆえ、主よ。私は、国々の中であなたをほめたたえ、あなたの御名を、ほめ歌います。」という予言の引用です。

「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」これは、申命記32:43の「諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから。」の引用です。

「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」これは、詩篇117:1の「すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。」の引用です。

「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」これは、イザヤ11:10「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く」の引用です。

この四つの引用の特徴は、新約聖書で「異邦人」と書かれているところが、旧約聖書では「諸国民」と記されていることです。旧約時代の「諸国民」は、主として「異邦人」を意味されていた、と解釈されうるでしょう。
 
4.喜び、平和、希望への祈り(13節)
 
 
13 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
 
パウロは、一致の祈りに加えて、ローマ信徒のために、「喜び、平和、希望」が彼らに豊かに与えられるように祈ります。その源泉は望みの神、喜びと平和はキリストへの信仰によって、望みは聖霊の力によって、とその実現のために三位一体の神を「動員」して祈ります。
 
おわりに
 
 
パウロは、ローマの信徒がどのように行動するかの基準として、事ある毎に、「キリストの模範」を示しました。私達の場合も同じです。私達のすべての行動の基準として、

・キリストはこんな場合にどうされたか、
・キリストならば、どう行動されるか、を考えましょう。

私達はつい、人からこんな言葉を掛けられた、こんな態度を取られた、こんな問題にぶつかったというときに、普段の教養はどこへやら、乱暴な言葉、愛のない態度が出てしまいがちです。いま一つ反応速度を遅くして、主イエス様の模範を考えて行動し、発言したいものです。20世紀のはじめごろ、シェリダンという人が「イエス様だったら」運動をアメリカで始めて、大変広がったそうです。この運動は、人間の罪深さを掘り下げない人道的な運動でしたので、まもなく消えてしまいましたが、それでも、言わんとしている点は大切であると思います。
 
お祈りを致します。