礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年9月23日
 
「キリストの満ち溢れる祝福をもって」
ローマ書連講(48)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙15章22-33節
 
 
[中心聖句]
 
  29   あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています。
(ローマ15章29節)

 
聖書テキスト
 
 
22 そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、23 今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行くばあいは、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので、24 ――というのは、途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです。――
25 ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。26 それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。27 彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。
28 それで、私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニヤに行くことにします。29 あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています。 30 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。31 私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。32 その結果として、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところへ行き、あなたがたの中で、ともにいこいを得ることができますように。
33 どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。
 
はじめに
 
 
1.15:14から、ローマ書の締めくくりの挨拶の部分に入りました。挨拶だから、どうでもよいのではありません。この挨拶の中にも、パウロの宣教師魂が遺憾なく発揮されているのです。先回は「神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」(15:16)という御言を中心に、パウロの奉仕の究極目標は、キリスト者の聖化にあることを学びました。これは実に大切なことです。

2.さて今日は、パウロのローマ訪問に懸ける熱い思いを学びます。
 
A.パウロの遠大な宣教計画(22-24節)
 
 
22 そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、23 今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行くばあいは、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので、24 ――というのは、途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです。――
 
1.異邦人の使徒としてのビジョン
 
 
「そういうわけ」とは、特に16節で語られた異邦人への使徒としてのパウロの強い自覚を示します。異邦人をキリストにある聖い供え物として捧げたいというパウロの熱い思いが、未伝の地へと彼を駆り立てていたのです。
 
2.スペインを目指して
 
 
パウロのビジョンは、ローマを経てスペインへというものでした。スペインというのは、パウロにとって西の果てです。主イエスがご昇天の前に、「地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)と語られたご命令を、パウロは自分の生涯の目標として、それに命を懸けました。(地図参照)
 
 
3.計画の挫折と克服
 
 
・計画の遅延:
ローマは宣教の第一のターゲットでしたが、なかなかその訪問は実現しませんでした。ここでその理由は示されていませんでしたが、容易に考えられる理由は、パウロが開拓した教会に起きた様々なトラブルがその一つだったと思われます。コリント、ガラテヤなど、パウロの心を痛める出来事が次々起きて、パウロは遠大な宣教旅行の計画を実行することができませんでした。

・一区切りをつけて計画再開:
それにしても、もう働く場所がない、という告白は素晴らしいことですね。もちろん、教会々々で拒絶されて、どこに行っても役に立たなくなったというのではありません。反対に、もう、なすべきことは行ってしまった、次は新しい場所だけだ、という意味です。私達も何か新しい分野に働きを進めるとき、このような満足感を持って今の奉仕を区切りたいものです。
 
B.エルサレム訪問への思い(25-29節)
 
 
25 ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。26 それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。27 彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。28 それで、私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニヤに行くことにします。29 あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています
 
1.先ずエルサレムへ
 
 
折角西の方角に来ているのですから、そのまま東のエルサレムに戻らずに、真っ直ぐローマに行き、それからスペインへという行程を辿るほうがはるかに合理的なのに、パウロは、ローマ訪問を更に遅らせるようなエルサレム行きにこだわりました。それは飢饉に苦しむエルサレムのクリスチャンを救うために集めた募金をパウロ自身がエルサレムに届けたかったからです。お金を届けるだけならば、忙しいパウロがわざわざ行かなくても良いではないか、と皆さんはお考えになりませんか。現在で言えば銀行の振込みだって良いわけです。しかし、パウロは、この募金計画の深い意味を考えていたのです。(再度、地図参照)
 
 
2.募金を届ける意味
 
 
・母教会からの霊的祝福を物質の感謝で表わすため:
それは、困っている人がいるから助けましょう、という人道的な目的以上のものがあったからです。「27 彼ら(マケドニヤ、アカヤの諸教会)は確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。」エルサレム教会は、いわばキリスト教世界にとって母教会です。彼らが、迫害の中で信仰を守り、周りの町々に福音を広めたからこそ、福音が世界に広まってきました。その霊的な祝福を、物質的な感謝の徴をもってお返しするのは当然の義務であることを、パウロは生まれたばかりの異邦人クリスチャンに教えたかったのです。

私達に当てはめて考えましょう。私が今救われて永遠の命を与えられたのは誰のお陰でしょうか。勿論、主キリストの十字架のお陰ですが、同時に、海を越えて福音を伝えに来てくださった数多くの宣教師のお陰でもあります。その宣教師の影響を受けた日本人クリスチャンのお陰です。私達は、その一人ひとりに対する感謝を忘れてはなりません。この中目黒教会も、当然ながら、ひとりでにここに存在しているのではありません。終戦の3年後、徒手空拳、船橋から都心に進出した蔦田二雄先生始め、一握りの信徒達、その伝道の結果救われた数多くの丸の内教会の信徒達、神学生たち、広尾に移って果敢な伝道を展開した蔦田真実先生始め牧師たち・信徒達の犠牲があって今の私達があるのです。中目黒に移って4年経ち、中目黒しか知らないメンバーにとって、丸の内とか広尾というのは私達とは遠い存在と思われるかもしれませんが、先達のご苦労に対する感謝を決して忘れてはなりません。

・世界大の教会の一体性を確認するため:
パウロは、場所を異にし、歴史を異にするクリスチャンであり、お互いに顔も名前も分からないものたちであっても、キリストの大きな体に属しているのだということを実行によって確認させよう、という目的から、マケドニヤ、アカヤのクリスチャンたちを励まして募金活動をしたのです。

・(保守的な)ユダヤのクリスチャンを福音の普遍性をもって開眼させるため:
ローマ書には記されていませんが、パウロはもう一つの動機を持っていました。それは、キリスト教会の礎という光栄ある立場にありながら、保守的で律法的な傾向に固まってしまったエルサレムのクリスチャンと指導者の狭い考え方を打ち破って、福音が広く豊かなものだということを、異邦人クリスチャンからの献金という、びっくりするようなプレゼントをもって示したかったのです。Uコリント9:13は、この気持ちを良く表わしています。「この(献金という)わざを証拠として、彼ら(エルサレムの信徒達)は、あなたがた(アカヤを含む異邦人クリスチャン)がキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。」この献金という絆で、異邦人教会とユダヤ人教会との間に芽生えてきた亀裂を修復しようとしたのです。
 
3.旅行の計画・再述
 
 
「28 それで、私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニヤに行くことにします。29 あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています。」

・募金運動に一区切りをつける:
パウロのエルサレム行きの思いを述べます。つまり、これは単なる募金の運び屋としての務めではなく、パウロの三回に亘る異邦人伝道旅行の集大成としてのエルサレム訪問であったのです。これをしっかりと果たして、パウロは新たな気持ちで西方伝道旅行に出かけたい、と言っているのです。「彼らにこの実を確かに渡して」とは、「封印して」という言葉が原語では使われています。募金活動に現れる一連の働きにひと区切りをつけたいという気持ちが現れています。その後、彼は、ローマで互いの励ましを得て、更に西のスペインに行きたいと、その展望を述べます。

・「祝福の充満をもって」ローマに行きたい:
ローマ訪問の時の気持ちとして、「私はキリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じている」と述べています。「キリストの満ち溢れる祝福」(=キリストの祝福の充満)という言葉で彼がイメージしているのは、エルサレムからイルリコにいたるすべての地域に福音を満たしたという達成感、福音の恵みに与った人々が恩義を蒙ったエルサレム教会の信徒を助けたという喜び、エルサレム教会の信徒が世界に広がった福音の事実に与えられた大きな刺激、という具体的な出来事に裏付けられた祝福を携えて行く姿です。

私達がどこに行くときも、誰と会うときも、「キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じている」と言い切れたらどんなに幸いでしょうか。私は恵まれているぞ、私は素晴らしい人間だぞ、というおめでたい自信過剰は鼻つまみものですが、本当に謙った意味で、私は nothing だが、私と共におられるキリストは充全なお方だという確信は信仰者ならば誰でも持ちうると思います。もっと言えば、私は全くダメ人間だという自覚に徹するときのみ、「キリストの満ち溢れる祝福」を確信できるのです。パウロはUコリント3:5において「何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。」とその辺の気持ちを表わしています。英語欽定訳では、
Not that we are sufficient of ourselves to think any thing as of ourselves; but our sufficiency is of God.
となっています。

主イエスも「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)と約束しておられます。この貧しく乏しい自分自身からではなく、聖霊の命と恵みがこんな土の器からあふれ出るようになるのです。河村師は「キリストの満ち足りる祝福とは、キリストご自身である」と語っておられます。本当にその通りです。私達の内におられるキリストがそのまま現れることが多くの人々への祝福となるのです。

私は、いろいろな場所から説教を依頼されます。その度に自分は相応しくない、この任は大きすぎると恐れ戦きを感じます。しかし最終的にこの our sufficiency is of God. という御言に励まされ、自らを無にすることで御用に臨むことができます。これは、人々との面談、商談、家庭での何気ないやり取り、職場や学校での日常の付き合い、近所との付き合いすべてに当てはまることではないでしょうか。
 
C.祈りのお願いと祝祷(30-33節)
 
 
30 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。31 私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。32 その結果として、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところへ行き、あなたがたの中で、ともにいこいを得ることができますように。33 どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。
 
1.祷告の依頼
 
 
パウロは旅行計画を述べた後で、切実に祷告を依頼します。ここから幾つかの教訓を得ます。

・祷告は切実な必要であること

・他の人に祈りを乞うだけでは不十分で、自分自らしっかり祈るべきこと

・祷告は具体的であるべきこと:
ここでは
@エルサレムに巣食っている反パウロ派の攻撃から守られるように
A献金がその趣旨通りに受け入れられるように
Bその結果パウロが喜びをもってローマに行き、共に喜びと平安を見出すことができるように、という3つの祷告依頼です。

私達の祈り会でも、具体的な祈りの課題をプリントして祈ります。プリントまでしくなくても、「神様、すべての活動を祝してください。」で良いのではないか、と考えないで下さい。真剣に祈るということは、その祈りが答えられると信じて祈ることであり、信じて祈るということは、具体的に祈ることです。そしてその祈りは答えられます。その祈りの答えで、教会は進んでいるのです。祈り会の力と醍醐味をもし知らないままで信仰生活を送っておられるとすれば、それは片肺飛行です。スケジュール的に大変かもしれませんが、一ヶ月に一回でも祈り会に出て、具体的に祈る喜びとその結果得られる力を体験してください。

・この祈りは答えられたか?ノー&イエス:
さて、パウロはこのように祷告依頼をし、ローマの信徒も祈ったのですが、実際にはどうなったのでしょうか。使徒の働きを見ますと、この通りには答えられませんでした。パウロはエルサレムで反パウロのユダヤ人に捕らえられ、殺されそうになり、クリスチャンからも歓迎は受けましたが、多少奥歯に物が挟まったようなぎこちない歓迎でした。彼の当初計画であるローマ訪問は、彼がこの時考えていた凱旋的な状況ではなく、囚人として鎖に繋がれてやってきたのです。

でも、考えてみると、これは人間の考えを超えた祈りの答えでした。まず、パウロは官費で旅行できました。囚人とは言いながら、上告審の原告でしたから、丁寧な扱いを受けました。また、上告審の原告という立場で来ましたから、多くの人の注目を集め、伝道には有利でした。人の思いと神の思いは異なります。神のみ思いいは人間のそれよりもはるかに高いものです。
 
2.祝祷
 
 
平和の神が、彼らと共におられるようにという祝祷が、1-15章の締めくくりに相応しい祈りです。
 
終わりに
 
 
29節の言葉を再び思い起こしましょう。今週私達が会うべき人、行うべき業務、行くべき所をイメージしましょう。そのすべての場所、状況のために、「私はキリストの満ち足れる祝福をもって」行くのだ、と確信しましょう。私は nothing(何もない)です。しかしキリストは sufficient(十分)なお方です。このお方と共に歩み始めましょう。
 
お祈りを致します。