礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年10月7日
 
「ローマ教会の暖かさ」
ローマ書連講(50)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙16章3-16節
 
 
[中心聖句]
 
  16   あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。
(ローマ16章16節)

 
聖書テキスト
 
 
3 キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。4 この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。
5 またその家の教会によろしく伝えてください。
5b私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。
6 あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。
7 私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。
8 主にあって私の愛するアムプリアトによろしく。
9 キリストにあって私たちの同労者であるウルバノと、私の愛するスタキスとによろしく。
10 キリストにあって練達したアペレによろしく。
10bアリストブロの家の人たちによろしく。
11 私の同国人ヘロデオンによろしく。
11bナルキソの家の主にある人たちによろしく。
12 主にあって労している、ツルパナとツルポサによろしく。
12b主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。
13 主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。
14 アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマスおよびその人たちといっしょにいる兄弟たちによろしく。
15 フィロロゴとユリヤ、ネレオとその姉妹、オルンパおよびその人たちといっしょにいるすべての聖徒たちによろしく。
16 あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。
 
はじめに
 
 
1.前回は、「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。」(3-4節)という聖句を中心に、プリスカとアクラの命賭けの信仰を学びました。

2.さて、今日も「〇〇さんによろしく」という挨拶部分の続きです。先回もお話しましたように、無意味なカタカナの羅列のように見えていて、実は、そこに大きな恵みが含まれているのです。
 
A.名前から汲み取るローマ教会の特徴
 
 
3節から15節までに24人の名前が登場しますが、そのリストから汲み取れるローマ教会の特色について、以下の4点を挙げます。
 
1.奴隷と貴族の混在
 
 
1)上流階級の名前が見られる

このリストには、いわゆる上層階級と思われる人々があります。

・アリストボロ(10節):
アリストボロという名前は、ヘロデ大王の孫と同じですから、大王の孫という人もいます(ライトフットの注釈)。そうでなかったとしても、その一族であることは容易に考えられます。

・ヘロデオン(11節):
「私の同国人ヘロデオン」とは、ヘロデ家の人間と考えられています。当時で言えば、権勢を誇った家族です。その一人がクリスチャンになったのです。勿論肩書きがありませんので、どんな立場かは分かりませんが、書かないところに奥ゆかしさがあります。

・ナルキソ(11節):
歴史家タキトウスによれば、ナルキソとは、皇帝クラウデオの書記官であり、自由にされた奴隷と考えられます。

・ネレア(15節):
15節のネレアは、皇帝ドミティアヌスの姪で、クリスチャンとして有名なフラヴィアの友達であることが知られています。

2)奴隷の名前も見られる

上流階級に混じって、奴隷階級に属していると思われる名前も伺えます。ローマ教会には、上下階級のものが入り混じって存在していた姿を物語ります。

・アムプリアト(8節)
・ウルバノ、ツルパナ、ツルポサ(9節)
・ヘルメス(14節)
・フィロロゴとユリヤ(15節)

これらは、奴隷に多い名前です。そのすべてが奴隷であったかどうか、確認はできませんが、かなりのものがそうであったことは頷けます。また、「〇〇の家の人たち」というのは、家族・親族だけではなく、その家の手伝いをする奴隷達が含まれていたと考えられます。

3)奴隷制度に関する新約聖書の態度

・奴隷で成り立っていたローマ社会:
エルサレム教会には、奴隷はいませんでした。その制度がユダヤには一般的ではありませんでした。しかし、ローマ世界では奴隷制度が厳然と存在していました。はっきり言えば、奴隷無しに社会は成り立たなかったほど、奴隷が社会の基盤を構成していたのです。

・多くの奴隷がクリスチャンに:
そして、その奴隷達が救われて教会員となりました。初代教会の革命的な点は、それらの奴隷を差別することなく、兄弟姉妹として受け入れたことです。

・良き奴隷、良き主人たれとの勧め:
パウロも、そしてペテロも、奴隷制度反対運動は起しませんでしたが、彼らに良き奴隷であることを教え、その主人には、彼らを人格として扱うことを教えました。Tテモテ6:1には、「くびきの下にある奴隷は、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは神の御名と教えとがそしられないためです。2 信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。」とかたっています。同様な勧めは、テトス2:9-10、エペソ6:5-9にも見られます。

・教会においては区別なし:
そして、奴隷と主人の双方には、キリストにあって一体であることを教えました。ガラテヤ3:28には、「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」と語ります。(Tコリント7:22、Tコリント12:13も同様)

・オネシモに見る愛の実践:
ピレモン書に出てくるオネシモの物語はその中でも象徴的です。パウロは、秩序を重んじながらも、双方にキリストの愛を説き、その愛をもって互いに仕えるように勧めています。このような精神が実行されて行きましたので、キリスト教の普及に従って、4世紀には、奴隷制度は消滅したのです。

4)現代への適用

今日の教会状況に当てはめましょう。中目黒教会が、特定の社会階層、例えば「中流階級」だけで成り立っていて、他の階層の人々が入りにくいという雰囲気を決して作ってはならないと思います。大変なお金持ちが来ても特別扱いされない、大変な貧しい人が来てもジロジロ見られない、それどころか、全く異なる人を心から歓迎する空気を保ちたいと思います。教会成長論の指導者が、“homogeneous unit principle”(均質グループ原理)を唱えました。「教会は、おなじ階層の「気心の分かった」人間の集まりであるときによりよく成長する」という理論です。事実はそうかも知れません。でも、それは教会というものの根本的なあり方への挑戦と私は感じて反対しました。教会は、異なる階層のものたち、異なる考えの持ち主、気心の分からない人々、異なる年齢層、性別、職業のものたちがモザイクのように寄り集まってこそ、キリストの教会なのです。その時のみ、教会は豊かさの中に成長するのです。私達は「仲良しクラブ」的な雰囲気を乗り越えて、異なるタイプの人々を意識して歓迎し、主にあって一つとなることを心がけたいと思います。
 
2.家庭的な雰囲気
 
 
1)信仰を共にするカップル

・プリスカとアクラ(3節)
・アンドロニコとユニアス(7節)
・フィロロゴとユリヤ(15節)

という三つのコンビが登場します。少なくとも二つのコンビは夫婦です。真に微笑ましいことです。夫婦が心を合わせて主を恐れ、牧者と心を一つにして教会のために労している、麗しい姿を私達も見習いたいと思います。先週学びましたプリ・クラは婦唱夫随だったようですが、信仰的な面で奥さんがリーダーシップを取ることも(すべての場合ではありませんが)多くのケースで見られ、それはそれで良いのではと思います。因みに、私の育ちました家では、家庭礼拝のリーダーはいつも母でした。

2)「家の教会」

・プリスカとアクラの家の教会(5節)
・アリストブロの家の人たち(10節)
・ナルキソの家の人たち(11節)
・ヘルマスおよびその人たちといっしょにいる兄弟たち(14節)
・オルンパおよびその人たちといっしょにいるすべての聖徒たち(15節)

ここだけでも5つの「家教会」が言及されています。恐らく記されていないものはもっとたくさんあったと思われます。家教会が、ローマ教会の大切な単位であったのです。今日の家庭集会とは少し異なります。今の中目黒の状況で言えば、牧会小グループに相当すると思われます。
 
3.共労のスピリット
 
 
・私の同労者であるプリスカとアクラ(3節)
・あなたがたのために非常に労苦したマリヤ(6節)
・私の同国人で私と一緒に投獄されたことのあるアンドロニコとユニアス(7節)
・キリストにあって私たちの同労者であるウルバノ(9節)
・主にあって労している、ツルパナとツルポサ(12節)
・主にあって非常に労苦した愛するペルシス(12節)

など、福音のため共に働き、共に苦労し、共に迫害を受けた人々が書き連ねられています。私達が本当の意味で友達関係に立つのは、一緒に汗を流す行動を通してです。学生時代に、私の母教会では毎夏大きな伝道集会、時には大テントを張っての伝道集会が行われていました。先日その教会の役員会に陪席しましたが、学生時代の仲間で一緒に汗を流した人々が、今その教会の役員の半数を占めているのを見て、胸が熱くなるのを感じました。

パウロの大きな伝道活動は、このような真実な同労者があって初めて可能となったことを覚えます。私達の教会も、伝道活動その他、許される機会に共に汗を流すことで、良き交わりが生まれます。
 
4.母のような慈愛
 
 
13節の「主にあって選ばれた人ルポス、また彼と私との母によろしく」という言葉が興味を引きます。パウロの実母でないことは確かです。パウロにとってお母さん的存在であったルポスの母という意味でしょう。

・ルポスの父、クレネ人シモンの経験:
このルポスは、マルコ15:21-22に紹介されているクレネ(現在のリビア地方)人シモンの息子であったと考えられています。引用しましょう、「21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。22 そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。」このシモンは、ヴィア・ドロロサ(悲しみの道)と呼ばれる狭い街路を通り抜けてゴルゴタへと向かう道すがら、疲れながらも十字架を担ぐイエスを助けさせられた男です。並行記事の中で、マルコだけが「アレキサンデルとルポスの父」と説明しています。マルコ福音書の執筆場所はローマであったと言われていますが、マルコは、読者がアレキサンデルとルポスという兄弟を良く知っている、という前提で、この兄弟の名前を記したのでしょう。シモンは、十字架を担がされたとき、ただ、エラいことになったという不平の気持ちだけを持ったと思います。しかし、シモンは、自分が身代わりに担いで上げている相手の男イエスとは一体誰なのか、と考え始めました。十字架の丘についた後でもそこに立ち続けました。そして、イエスを十字架につけたローマ兵士の隊長が、「実にこの人は神の子であった。」(マルコ15:39)と叫んだと同じような感想を持ったに違いありません。

・クレネからローマへ:
それ以後、キリストに従うものとして、福音をクレネに持ち帰り、妻と二人の男の子を信仰に導き、家族を挙げて素晴らしい証の生涯を送りました。彼らはその後クレネを離れ、場所は分かりませんが、どこかでパウロに出会い、特にミセス・シモンは、お母さんに等しい優しさを持ってパウロのお世話をしたと思われます。その後シモンとアレキサンドルはどうなったか分かりませんが、ルポスとお母さんはローマに定着し、教会の基礎となりました。伝説によると、ルポスは、後にスペインの教会の監督になったそうです。

・「母」的な存在の有難さ:
このようないきさつがありましたので、この「よろしく」のリストの最後に、パウロは、「ルポスとその母によろしく。その母は私の母でもあります。」と遠慮がちに付け加えたのです。私達にとって母と呼べる人がいたら、それは感謝な事です。私に取っては、母教会の牧師夫人が「母」でありました。それ以外にも、教会の中で「母」的な祈りとケアをもって私を導いてくださった多くの婦人会員を思い出します。そのような方々があって今の私があることを感謝しています。そして、年齢を重ねますと、今度は、私が誰かにとって父であり母でなければならないと思います。私は誰かにとって父であり、母でありましょうか。このような愛し、愛される関係があるのが教会です。
 
B.聖なる口づけ
 
1.聖なる口づけの勧め
 
 
・新約聖書に多く見られる勧め:
パウロは、挨拶部分を締めくくって、「聖なる口づけ」をもって互いに挨拶をしなさい、と勧めます。この勧めは、Tコリント16:20、Uコリント13:12、Tテサロニケ5:26にも見られます。「すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをなさい。」ペテロも「愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。」(Tペテロ5:14)と勧めています。

・ユダヤの習慣が、キリスト教会の習慣に:
口づけをもって挨拶するのは、ユダヤ人の習慣です。誤解しないでいただきたいのですが、口づけは口と口をつけるのではなく、頬や着物に口をつける挨拶の方法です。(もっとも、雅歌に出てくる男女のそれは、もっと親密なものと思われますが・・・。)そのユダヤ人の習慣がそれが、異邦人クリスチャンの間にも一般的となりました。そして、これが礼拝の一部として定式化されるようになりました。

・礼拝順序の一部として:
ウェッバーという人の「古くて新しい礼拝」という本において、3世紀頃の礼拝順序が記されています。説教が終わり、執り成しの祈りが捧げられた後に、「平和の口づけ」というパートがあり、会衆は互いに互いの平和を祈って挨拶を交わします。それから、聖餐式が始まるというものでした。今、プレイズ・ワーシップでは「握手タイム」というものを順序に加えていますが、これは、最近の流行で行っているのではなく、初代教会の慣わしに戻って行っているのです。握手という習慣が相応しいかどうかは別として、私達が互いに挨拶を交わすことは「厳粛な礼拝を損なう」事ではなくて、むしろ大切なキリスト教会のあり方を実行するという意味があります。

・挨拶の大切さ:
たかが挨拶、されど挨拶です。挨拶は心を籠めて行うときに、相手への祝福となります。心が開かれ、豊かな交わりの一歩となります。更に、私へ祝福が戻ってきます。
 
2.すべての教会からの挨拶(省略)
 
 
終わりに
 
 
ローマ教会の良さを取り入れて実践しよう
今日は、私達の教会が成り立っているメンバー構成について、御言と重ね合わせながら考えました。今日はまず、挨拶を交わすことから始めましょう。このチャペルを出る前に可能な限り多くの兄弟姉妹に挨拶を交わしましょう。いつも見慣れた人よりも、見慣れない人を選んで挨拶しましょう。それから進んで、私達が母のように、父のように、姉のように、兄のように、ケアすべき対象が与えられたら、それぞれに相応しく祈りのうちに覚え、愛を実行しましょう。
 
お祈りを致します。