1)上流階級の名前が見られる |
このリストには、いわゆる上層階級と思われる人々があります。 |
・アリストボロ(10節): アリストボロという名前は、ヘロデ大王の孫と同じですから、大王の孫という人もいます(ライトフットの注釈)。そうでなかったとしても、その一族であることは容易に考えられます。 |
・ヘロデオン(11節): 「私の同国人ヘロデオン」とは、ヘロデ家の人間と考えられています。当時で言えば、権勢を誇った家族です。その一人がクリスチャンになったのです。勿論肩書きがありませんので、どんな立場かは分かりませんが、書かないところに奥ゆかしさがあります。 |
・ナルキソ(11節): 歴史家タキトウスによれば、ナルキソとは、皇帝クラウデオの書記官であり、自由にされた奴隷と考えられます。 |
・ネレア(15節): 15節のネレアは、皇帝ドミティアヌスの姪で、クリスチャンとして有名なフラヴィアの友達であることが知られています。 |
2)奴隷の名前も見られる |
上流階級に混じって、奴隷階級に属していると思われる名前も伺えます。ローマ教会には、上下階級のものが入り混じって存在していた姿を物語ります。 |
・アムプリアト(8節) ・ウルバノ、ツルパナ、ツルポサ(9節) ・ヘルメス(14節) ・フィロロゴとユリヤ(15節) |
これらは、奴隷に多い名前です。そのすべてが奴隷であったかどうか、確認はできませんが、かなりのものがそうであったことは頷けます。また、「〇〇の家の人たち」というのは、家族・親族だけではなく、その家の手伝いをする奴隷達が含まれていたと考えられます。 |
3)奴隷制度に関する新約聖書の態度 |
・奴隷で成り立っていたローマ社会: エルサレム教会には、奴隷はいませんでした。その制度がユダヤには一般的ではありませんでした。しかし、ローマ世界では奴隷制度が厳然と存在していました。はっきり言えば、奴隷無しに社会は成り立たなかったほど、奴隷が社会の基盤を構成していたのです。 |
・多くの奴隷がクリスチャンに: そして、その奴隷達が救われて教会員となりました。初代教会の革命的な点は、それらの奴隷を差別することなく、兄弟姉妹として受け入れたことです。 |
・良き奴隷、良き主人たれとの勧め: パウロも、そしてペテロも、奴隷制度反対運動は起しませんでしたが、彼らに良き奴隷であることを教え、その主人には、彼らを人格として扱うことを教えました。Tテモテ6:1には、「くびきの下にある奴隷は、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは神の御名と教えとがそしられないためです。2 信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。」とかたっています。同様な勧めは、テトス2:9-10、エペソ6:5-9にも見られます。 |
・教会においては区別なし: そして、奴隷と主人の双方には、キリストにあって一体であることを教えました。ガラテヤ3:28には、「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」と語ります。(Tコリント7:22、Tコリント12:13も同様) |
・オネシモに見る愛の実践: ピレモン書に出てくるオネシモの物語はその中でも象徴的です。パウロは、秩序を重んじながらも、双方にキリストの愛を説き、その愛をもって互いに仕えるように勧めています。このような精神が実行されて行きましたので、キリスト教の普及に従って、4世紀には、奴隷制度は消滅したのです。 |
4)現代への適用 |
今日の教会状況に当てはめましょう。中目黒教会が、特定の社会階層、例えば「中流階級」だけで成り立っていて、他の階層の人々が入りにくいという雰囲気を決して作ってはならないと思います。大変なお金持ちが来ても特別扱いされない、大変な貧しい人が来てもジロジロ見られない、それどころか、全く異なる人を心から歓迎する空気を保ちたいと思います。教会成長論の指導者が、“homogeneous unit principle”(均質グループ原理)を唱えました。「教会は、おなじ階層の「気心の分かった」人間の集まりであるときによりよく成長する」という理論です。事実はそうかも知れません。でも、それは教会というものの根本的なあり方への挑戦と私は感じて反対しました。教会は、異なる階層のものたち、異なる考えの持ち主、気心の分からない人々、異なる年齢層、性別、職業のものたちがモザイクのように寄り集まってこそ、キリストの教会なのです。その時のみ、教会は豊かさの中に成長するのです。私達は「仲良しクラブ」的な雰囲気を乗り越えて、異なるタイプの人々を意識して歓迎し、主にあって一つとなることを心がけたいと思います。 |