礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年11月4日
 
「雪のように白く」
イザヤのメッセージ(1)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書1章1-6,11-20節
 
 
[中心聖句]
 
  18   たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
(イザヤ書1章18節)

 
聖書テキスト
 
 
1 アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。
2 天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
3 牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」
4 ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。
5 あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
6 足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。
11 「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう」と、主は仰せられる。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。
12 あなたがたは、わたしに会いに出て来るがだれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。
13 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙──それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日──会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。
14 あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。
15 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。
16 洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。
17 善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」
18 「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
19 もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。
20 しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる」と、主の御口が語られたからである。
 
はじめに
 
 
1.イザヤは、旧約のパウロとも呼ばれています。神の約束への信頼こそが神の民にとって一番大切なことだ、という主張で、イザヤとパウロは共通だからです。主イエス誕生の7百年も前に生きた人ですが、福音の真髄を捉えていました。しかも、激動する時代にあってその真理を力強く語り、現実の政治をリードした偉大な預言者です。私達も、イザヤの時代と変わらない世界の激動期に生きています。福音の真理をしっかりと捉え、私達の時代をリードするものでありたいと思います。そのような理由で、ローマ書の後に「イザヤ書」を選びました。

2.しかし、何分にも66章の大著でありますので、ローマ書そのほかで取ったような「連続講解」という形は取りません。各部分の代表的な聖句に目を留め、思い巡らすという方法を取ります。多分50回くらいの長さとなるでしょう。ですから、敢えて「連講」というタイトルはつけず、「イザヤの語る今日的メッッセージ」という共通タイトルに致します。
 
A.イザヤ書の成り立ち
 
1.著者:イザヤ
 
 
イザヤ書が、前半の39章と後半の27章の文体やテーマの相違、歴史的背景の相違、未来預言といいながら具体的な名前が記されていることから、19世紀頃、前半と後半は異なる著者による、という「第二イザヤ説」が唱えられました。その後、「第三イザヤ説」も生まれました。しかし近年になって、イザヤ書の一体性がより強い支持を得るようになりました。その一因は、死海写本の発見です。100BCに作られたイザヤ書の写本は、1-66章まで一体だったのです。他の現存写本のすべてもイザヤ書を一体としています。しかし、今日は、この問題に深入りしません。聖書の記述をそのまま素直に受け取ればよい話です。
 
2.時代
 
 

1:1に記されているように、ユダの王ウジヤ(782-739)、ヨタム(739-735)、アハズ(735-726)、ヒゼキヤ(726-697)の時代です。一言で言えば、中東世界が大国の出現で大きく揺れ動き、小国ユダが滅亡の危機に曝されていた激動の時代でした(地図を参照ください)。そのじだいにあって、大いなる御手をもって歴史を支配し給う神を捉え、それを人々の伝えたのがイザヤです。
 
3.アウトライン
 
 
これはメモとして印刷してありますので、聖書の見返し部分に貼り付けて、折々ご参照ください。今日は説明しません。
 


◆◆ [前編] 時代的メッセージ 1-39章 ◆◆
■譴責と約束 1-6章
・反逆の罪 1章
・ユダとエルサレムの将来 2-4章
・葡萄園の歌 5章
・イザヤの聖化と召命 6章
■インマヌエルの約束 7-12章
・ユダの危機とインマヌエル預言 7章
・速やかな救いの約束 8:1-9:7
・サマリヤへの審判 9:8-10:4
・アッシリヤへの審判 10:5−12:6
■諸国民への審判 13-23章
■ユダへの審判と贖い 24-27章
・普遍的な罪と審判 24章
・勝利者への賛美 25章
・ユダの慰め 26章
・回復されたぶどう園の歌 27章
■不信仰者の災い 28-33章
・酒に酔う者の災い 28章
・神に不真実な者の災い 29章
・神に頼らない者の災い 30章
・エジプトに頼る者の災い 31章
・神の干渉と釈放の約束 32章
・侵略者アッシリヤの災い 33章
■審判と贖い 34-35章
・世界的な審判 34章
・贖われた民の祝福 35章/td>
■ヒゼキヤ王の信仰 36-39章
・ユダ滅亡が回避される 36-37章
・ヒゼキヤの癒し 38章
・バビロン捕囚の予言 39章
 
◆◆ [後編] 将来的メッセージ 40-66章 ◆◆
■贖いの型:出バビロン 40-48章
・贖いの宣言 40章
・歴史を支配する神 41章
・主の僕の紹介 42章
・出バビロンの約束 43章
・クロス王の役割 44-45章
・バビロンの転覆 46-47章
・出バビロンの呼びかけ 48章
■贖いの執行者:主の僕 49-57章
・イスラエルを回復する僕 49章
・神に従う僕 50章
・救いを握るべき勧告 51-52章
・苦難を通して贖いを遂げる僕 53章
・イスラエルの祝福 54章
・全世界の祝福 55章
・イスラエル指導者の断罪 56-57章
■贖いの完成:シオンの栄光 58-66章
・真の宗教と偽りの宗教 58章
・罪の除去 59章
・シオンの栄光 60-61章
・シオンの救い 62章
・主の僕の祈り 63-64章
・主の答え:シオンの勝利 65-66章
 
◆◆ イザヤ時代とその後の主な歴史的事件 ◆◆
年代(BC) 主な出来事
 740頃 アッシリヤ王テグラテピレセル三世、侵略開始
     アラム・イスラエルが、反アッシリヤ連合
 735頃 ユダ、連合加入を拒否したため攻撃される
 732  アラム滅亡
 721  イスラエル滅亡
 712  ヒゼキヤの病気
 701  ユダ、滅亡の淵から免れる
 670  アッシリヤ、エジプトを征服
 625  アッシリヤ、バビロンに敗れる
 612  ニネベ滅亡
 606  バビロン、世界覇権を確立
 586  ユダ滅亡、バビロン捕囚
 538  バビロン滅亡、捕囚からの帰還始まる
 
B.イザヤ書第一章のメッセージ
 
 
上記の「アウトライン」で見ていただいたように、第一章は、1節の序言に続いて「反逆の罪」が弾劾されています。それは三つの角度から語られます。
 
1.神に反逆する国民(2-9節)
 
 
・牛やロバに劣る背信:
牛やロバでさえも、その飼主を知っていて、夜はちゃんと家に帰ります。ケニアで体験したのですが、町の真ん中で、鶏でも山羊でも、日中は好きなように歩いていて、適当にエサを漁っています。でも、不思議なように、夜になると、ちゃんと持ち主の家に帰って休むのです。帰巣本能とでも言いましょうか。「しかし」とイザヤは言います、「人間は、神の御手によって造られ、育まれ、守られてきている。しかし、私は自分で大きくなってきた。神様なんかいらない。」と。こんなに大きな神様不孝はあるでしょうか。

・傷だらけの人間:
その背信の結果が傷だらけの状態だ」とイザヤは言います。私達が生涯に受けた傷は、他人のナイフのような言葉によるものであるかもしれません。小さいときに親から「お前なんかだめな人間だ」といわれた冷たい言葉によるものであるかもしれません。友達からシカトされて受けた傷であるかもしれません。でも、その根本は、私が神から離れている、私達が神から離れているところから来ているのです。「頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。6 足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」(5-6節)というのは、決して大袈裟な表現ではなく、現代の私達の状態をもピタッと言い当てた言葉です。

・国の荒廃:
神への反逆の結果、国は荒れ廃れました(7節)。宗教の荒廃は、政治の荒廃を齎します。しかし、その中でも、神は全部を滅ぼさず、「生残りの者(レムナント」(9節)を残しておられます。神の厳しさと、憐れみを見ます。
 
2.神から離れた「宗教生活」(10-20節)
 
 
・形だけの礼拝:
このように、神から離れた心を持ちながらも、イスラエルの民は日々の礼拝、安息日礼拝、特別な集会をキチンと守り、定められた通りの生贄を捧げていました。礼拝をサボるよりはずっと良さそうに見えますが、神のメッセージは違います。「もう、あなた方の生贄には飽きてしまった。私の神殿の庭をやたらに踏みつけないで欲しい。あなた方の集会は、私に取って苦痛でしかない。あなた方の祈りは聞きたくもない。」と語られるのです。私は牧師ですから、どんな気持ちを持っていたとしても、礼拝に来られるだけでも素晴らしい、と言いたくなりますが、イザヤの言葉は実も蓋もありません。「中身のない礼拝ならば止めてしまえ。」というのです。それは、礼拝そのものがいけないのではなく、礼拝の心が違っていると言っているのです。

・罪にまみれた手:
イザヤは、「違う。礼拝の前に、あなた方の悪を悔い改め、善き生活を送りなさい。」と言います。これは、詩篇24:3-4の言葉と符合します。「詩篇 24:3 だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。」パウロもまた、私達は清い手を挙げて祈るようにと勧めています(Tテモテ2:8)。それなのに、イスラエルの民の手は、人殺しの血で汚れています。これでは、礼拝が泣きます。 ・神の提供する救い:悪を離れよと言われても、それができないのが人間です。ですからイザヤは、神の備えてくださる救いを提供します。これについては次の項目で詳述します。
 
3.不道徳な社会(21-26節)
 
 
・恐るべき不道徳の描写:
エルサレムにおいて行われている不道徳な行為が列挙されています。殺人、虚偽の表示、贈収賄、弱者の無視・・・。悲しいかな、これは21世紀の日本の姿そのものでもあります。

・正義の回復の約束:
以上三つの「弾劾」の中で、希望が見えます。この文節にも、神の聖めの業が約束されています(25節)。そして、その結果、エルサレムは再び正義の町、忠信の都と呼ばれます。
 
C.神の救い
 
 
神はここで論議を呼びかけます。論議すると言っても、対等の議論ではありません。神の一方的啓示によるものです。神の論議は血潮による宣言です。
 
1.癒しがたい罪の傾向:緋のような罪
 
 
人間は癒しがたい罪への傾きを持っていますが、それが緋色の着物で象徴されています(6-7節)。緋とは、濃いあかるい朱色、赤色の練絹のことです。この色は、貝殻虫の雌を乾燥させてすりつぶして作った染料に繊維を浸したところから生まれる色です。絶対に色落ちしないのが特徴です。高級な着物で、貴族だけが着られるようなものでした。「罪を犯して汚れた赤い手」というイメージが15節に述べられていますが、これと繋がっています。シェークスピアの悲劇「マクベス」の中で、マクベス夫人が夫を殺害し、その記憶が悪夢となって彼女を苦しめる場面が活き活きと描かれています。彼女は、夢遊病のように夜中に屋敷の中をさまよい、洗面器で手を洗う仕草をしながら、こう呟きます、「落ちない、落ちない、どうして私の血の染みは落ちないのだろうか。」鬼気迫るセリフです。もう一つ、緋色で思い出されるのは、ナサニエル・ホーソンの「緋文字」という小説です。不倫の罪で断罪されたヘスター・プリンという女性が、姦通(Adultery)を示す「A」という緋色の文字を胸に縫いつけた着物を着ることを義務付けられ、一生涯その罪を背負って生きていく話しです。これは、赦されざる罪の象徴です。

 
2.神の解決:癒しと聖め
 
 
しかし、人間の罪がどんなに大きく、しつこい染みのようにまとわりつくものであったとしても、神の大きな恵の力の故の癒しと聖めが与えられるのです。ユダヤの習慣で、スケープゴートが選ばれると、赤い紐がその頭に巻き付けられました。大祭司が全ての民の罪を山羊に負わせて祈るとその赤い紐が白くなると言われていたことと共通するものがあります。ダビデは、詩篇51:7で「ヒソプを持って私を清めて下さい。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」と祈っています。ヒソプというのは贖いの血を浸して清められるものに振り掛ける植物のことです。贖いの血潮によって清められることを祈っているのです。それが実態となったのがキリストの十字架です。エペソ5:26-27には、私達の罪を清め、染みも皺もなく純白なものとするためのキリストの血潮のことが述べられています、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
 
3.聖めの条件
 
 
・神の語り掛けに柔らかい心で応答する:
19節「もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。」心を探られたその内容に対して、心柔らかに応答すること。

・拒むのは自己責任:
20節「しかし拒むならば、しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、主の御口が語られた。頑固に神の光を拒絶することも出来ます。でもそれは自己責任として、自分に帰ってきます。
 
おわりに:聖めのための神の可能力を信じよう
 
 
私達一人ひとりが抱えている罪の性質、自分でも嫌な癖、忘れてしまいたいけれども亡霊のようについて廻る過去の過ち、それらがどんなにしつこく私達の前進を止めるものでありましょうとも、雪のように白くしてくださるキリストの贖いの恵みを信じて進みましょう。
 
お祈りを致します。